2016年11月13日日曜日

聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)

聖通寺城(しょうつうじじょう)

●所在地 香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山
●別名 宇多津城
●高さ 122m(比高110m)
●形態 山城
●築城期 応仁年間ごろ(1467~68)
●築城者 奈良太郎左衛門元安
●城主 奈良氏、仙石氏、生駒親正等
●遺構 郭等
●登城日 2015年3月14日

◆解説(参考資料 坂出市観光協会HP 等)
 岡山側から瀬戸内中央道の瀬戸内大橋を使って四国に渡ると、最初に見えてくるのが、坂出IC手前で右手に見えてくる小山である。先端部には白い建物が建っているが、これは結婚式場の施設で、この位置のピークを北端として、南に凡そ1キロ余り続く峰を持つ山が聖通寺山である。
【写真左】聖通寺城と聖通寺
 西麓側から見たもので、矢印で示したところが本丸跡。またその麓には聖通寺がある。

 なお、写真には入っていないが、左側には北峰をピークとする「平山城」がある。
【写真左】案内図
 聖通寺山は宇多津町と坂出市の境にあるが、そのうち北側の峰に設置されていた「さかいでマップ」に聖通寺公園として記されている箇所である。

 東麓には塩竃神社などが祀られている。



 そしてその峰には三か所のピークがあり、そのうち中央の位置が聖通寺城の本丸跡とされている。
 当城については、ここから南西へ13キロほど向かった天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)で少し紹介しているが、応仁の乱において東軍方リーダーであった細川勝元に属して戦ったのが、当城の城主奈良元安である。
 
 聖通寺城を紹介する説明板などは現地にないが、西麓には当城の城名の元となった聖通寺があり、最初に当院の縁起から紹介しておきたい。
【写真左】聖通寺
 左側の山が聖通寺城で、中央奥に本堂が建立されている。









“壺平山宝光院 聖通寺
   真言宗御室派 別格本山
   本尊 薬師如来(沖の薬師とよばれ海中出現の御仏である

 当寺の開基は行基菩薩。聖武天皇の御世に釈伽院として開創された。弘仁年中に弘法大師が当地に巡錫の折、安産と子孫繁栄の守り本尊として千手観音菩薩(国指定重要文化財)を自刻して安置した。貞観10年(868)聖宝理源大師により再興。

 当寺は理源大師が起居し、厄除長生の行法を修した所である。大師は聖宝の二字を分けて、聖通寺宝光院と号し再興のしるしとした。その後、宇多天皇の寛平年中、讃岐の勅使に勅して釈迦堂、仁王門等を建立、宝祚長久の勅願所となる。文永年中には、亀山天皇の勅により、三重大塔、鐘楼鼓閣及び八十余坊を再興するが、星霜を経て伽藍は朽化する。後光厳天皇の文和年中、小野僧正仁海の末流勢宥僧正が当寺に起居、御再興の勅許がある。

 貞治元年(1362)細川頼之は細川清氏との戦いの折、形勢不利の状態にあったが、神仏の擁護によって勝利を得るべしと住持勢宥僧正に薬師如来の冥威を祈らしめたところ、頼之側の大勝利となった。
 頼之は、これ薬師如来の威力神通なりと当寺に帰依、伽藍を再興して、鵜足・那珂二郡及び塩飽七島を以て当寺を檀那寺としている。
【写真左】本堂と聖通寺城
 この本堂は承応2年(1653)、高松藩祖松平頼重が建立したとされている。







 しかし天文年中に兵火にかかり多くの伽藍及び宝物等を焼亡。生駒親正は讃岐国受封の折、引田城より聖通寺山宇多津城に移っている。その子一正が嶋田寺を高松に移し弘憲寺と改めた時、命によって当時の宝物三十五種が弘憲寺に移され、堂塔二基は象頭山に移されている。

 慶安三年(1650)備後国常喜院の宥長上人が当地に訪れ、伽藍破却を嘆き、再興を期し当寺に住し、松平頼重讃岐国受封の後願により御再興仰出され、承応元年(1652)起工、堂塔が建立されている。源英公は当寺に帰依、落成した薬師堂(本堂)は御自筆にて棟札を書いたと伝えられている。”
(※下線管理人による。)
【写真左】北峰側の石碑
 北峰側の古墳跡脇に設置されているもので、「平山城跡」と刻銘された石碑が立つ。

【写真左】積石塚古墳
 先ほどの平山城跡の石碑が立つ箇所は、積石塚古墳と呼ばれ、古墳時代前期の積み石による古墳といわれている。

 奥に見える建物が結婚式場の施設で、この辺りが北峰では最高所になる。
【写真左】瀬戸大橋
 瀬戸中央自動車道が対岸の岡山県から瀬戸内海を跨いで、聖通寺城東麓を走る。






白峰合戦

 多度津城跡及び天霧城の稿でも述べたが、正平15年・延文5年(1360)南朝方の楠木正儀を河内国赤阪城(下赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村森屋)参照)に破った細川清氏であったが、翌年正儀は幕府に叛き南朝に奔った。この年の暮れ京都を回復した将軍足利義詮は、細川頼之に清氏討伐を命じた。
【写真左】白峰合戦古戦場
 別名「史跡三十六」といわれ、細川清氏及びその従士36人憤死の地と伝えられている。

 所在地は、聖通寺城から東に向かった高屋町の雄山(H:139.9m)西麓の田圃の中に件の碑が設置されている。なお、当地については別稿で取り上げる予定である。



 正平17年・貞治元年(1362)7月24日、讃岐白峰で清氏と頼之が激突、頼之は従兄弟の清氏をここに破った。これを「白峰合戦」(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)という。

 頼之はその功が認められ、義詮から次の第3代室町幕府将軍となる義満のとき執事となり、以後管領職となって絶大な権力を手中に収めていくことになる。
上掲した聖通寺の縁起にもあるように、この戦いで頼之は聖通寺に対し、戦勝祈願とその成就に対し多くの便宜を与えている。
【写真左】北峰から本丸を見る。
 聖通寺城(山)は南北に伸びる尾根に三つのピークを持つが、そのうち本丸は中央の中峰に築かれている。
 このあと、本丸に向かう。


奈良氏

 ところで、白峰の戦いで頼之の臣下であった奈良氏は、その武功によって頼之より当地を賜っている。そして応仁の乱が勃発する頃、奈良太郎左衛門元安がこの山に聖通寺城を築いたとされている。
【写真左】本丸に向かう。
 聖通寺山は尾根伝いに車道が設置されているため移動するにはとても助かる。

 本丸の東側には広い広場があり、その先端部の高台に展望台が設置されている。おそらく、ここにも櫓などがあったものだろう。

 写真はこの広場に車を停め、そこから歩いて本丸に向かうところ。


 戦国期の天正10年(1582)6月、長宗我部元親による讃岐進出が勢いを増し、この段階で既に西讃岐、東伊予を押さえた元親は、西長尾城(香川県丸亀市綾歌町岡田上・仲多度郡まんのう町長尾)に集結した。

 次の標的にしたのが、奈良氏の聖通寺城と、香西氏の拠る藤尾城(香川県高松市香西本町465 宇佐神社)であった。奈良氏は長宗我部軍の大軍来襲の報を聞き、交戦することもなく阿波の勝瑞城へ奔った。
【写真左】登城口付近の標柱
 この付近は大分改変されているようで、右に見える登城道も近年設置されたもののようだ。

 左隅に「聖通寺山城の跡」と刻銘された石碑が建つ。


 
聖通寺城廃城

 長宗我部氏による四国統一が未完のまま終わり、秀吉による四国征伐において、讃岐国は仙石秀久に与えられるが、その後戸次川の戦いで島津軍に大敗した秀久は同国所領を没収され、代わって生駒親正が同国を与えられた。
 当初親正は引田城跡(香川県東かがわ市 引田)を本拠としていたが、その後聖通寺城に一時移り、さらに天正16年(1588)になると、高松城を築いたため廃城となった。
【写真左】犬走りか
 途中で、東側に幅1m程度の北に伸びる道が見えた。おそらく犬走りのようなものだったのだろう。
【写真左】腰郭か
 先ほどと反対方向になるが、左手に段が確認できる。ただ、このあたりも大分重機などで手が加わっており、遺構かどうか分からない。
【写真左】本丸が見えてきた。
 正面奥には麓で見えていた高圧電線の鉄塔が建っている。
【写真左】本丸・その1
 規模は長径50m×短径30m前後のもので、予想以上に広く、平滑に仕上げられている。

 もっとも、その西側斜面に鉄塔が設置されているので、このとき周辺部も整備されたのかもしれない。
【写真左】本丸・その2
 南側から見たもので、左側斜面には鉄塔が見える。
【写真左】鉄塔越しに宇多津の町並みを見る。
 聖通寺城の西麓には大束川が流れ、その対岸の青ノ山の東麓には細川頼之が守護館としていた円通寺・多聞寺などがある。
【写真左】小郭
 本丸から北に少し降りたところに見えたもので、この日登城した箇所では一番遺構らしく思えた場所。
 一辺7,8m前後のもので、この上に虎口のようなものがあったのかもしれない。
 このあと本丸下に設置された展望台に向かう。
【写真左】南峰の展望台
 標高は100m前後と思われるが、眺望は良好である。
【写真左】展望台から坂出市方面を俯瞰する。
 なお、帰宅してから分かったのだが、この展望台は南峰のピークではなく、ここからさらにさがったところにあるようだ。



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