七尾城・その2
【写真左】七尾城略図
当城の麓登城口付近に設置されたもので、文字が小さいため読みづらいが、V字型の二つの尾根に造られ、大まかな構成としては、西尾根防塁群(図の下方の尾根)と、東尾根防塁群(図の上方の尾根)とで成り立っている。
本丸の位置は、この図の右側にある。
●登城日 2010年9月12日
はじめに
今稿では主に七尾城の主だった部分について、写真を交えて紹介したいと思う。なお、七尾城の遺構は、その規模・種類の多さなどから、今稿のみではすべてを網羅することはできない。
予定としては、次稿で、室町・戦国期における益田氏一族の流れの中で補完したいと思う。
はじめに
今稿では主に七尾城の主だった部分について、写真を交えて紹介したいと思う。なお、七尾城の遺構は、その規模・種類の多さなどから、今稿のみではすべてを網羅することはできない。
予定としては、次稿で、室町・戦国期における益田氏一族の流れの中で補完したいと思う。
上部が日本海で、右に流れるのが益田川、左に流れているのが高津川である。
「七尾城」は右下に図示されている。
当城の麓登城口付近に設置されたもので、文字が小さいため読みづらいが、V字型の二つの尾根に造られ、大まかな構成としては、西尾根防塁群(図の下方の尾根)と、東尾根防塁群(図の上方の尾根)とで成り立っている。
本丸の位置は、この図の右側にある。
【写真左】登城口から登って行く途中にある住吉神社の前の門
上記の門をそのまままっすぐ向かうと住吉神社本殿がある。
七尾城に向かうには、その手前で左に鋭角に分岐した道があり、この道からつづら折りの経路となる。
写真に見える尾根斜面は、「西尾根防塁群」のもので、本丸に向かわず真っすぐ行くと、この尾根先端部の尾崎丸まで向かうことになる。
【写真左】竪堀
西尾根防塁群に見えたもので、登城途中にあるものとしては一番管理が行き届いている遺構である。
西尾根防塁群の一ノ段といわれているところの中心部が、写真にあるように、左方面に向かう尾崎丸・千畳敷、右に向かうと、東尾根防塁群方面(本丸)との分岐点になる。
最初は、右に向かった。
最初は、右に向かった。
上記分岐点付近から少し北に進んだ「太鼓の壇」付近から見たもので、三宅御土居は、近いうちに取り上げる予定だが、応安年間(1368~75)ごろ益田兼見が創建したとされる益田氏の居館跡である。
写真に見える左右の樹木間に設置されていた館で、左右の樹木は土塁跡であり、最近までこの中央部には寺院が建っていたが、益田市教育委員会による発掘調査のため、寺院は移転させている。
なお、手前にみえる川は、益田川。
太鼓の壇を過ぎると、広大な「厩(うまや)の壇」が見えてくる。南北56m、幅15mの規模で、騎馬で登城してきた武士たちがこの場所に馬をつないだといわれている。
【写真左】厩の壇・その2
西尾根防塁群と東尾根防塁群をつなぐ郭段から撮ったもので、写真の奥が太鼓の壇側で、右に向かうと本丸(東尾根防塁群)がある。
先ほどの厩の壇から、東尾根防塁群に向かう途中の谷始点に井戸跡がある。案内板によれば、円形の割石積みの井戸で、直径1.2m、深さ4.5mだったという。
位置的に厩の壇の附近にあることから、主に馬に飲ませる水のものだろうが、武士たちも飲料水として使っていたのかもしれない。なお、七尾城にはこれ以外に2カ所の貯水濠があったとされるが、具体的な場所は銘記されていない。
なお、写真はないが、この東西尾根の谷筋が、大手と思われ、この東尾根防塁群の左側二ノ段斜面(帯郭)に、22m×5mの規模で礎石建物跡が発見された。倉庫の役目とした建物であったらしい。
東尾根群に登る道の最初の到達点は、同群の「一ノ段」中央部にあたり、そこから南(右)に向かうと本丸に行く。
二の丸の長さは、東尾根防塁群の中でも、その幅も含めもっとも規模が大きい。
戦略的にもこの二の丸における位置は重要なものと思われ、多くの将兵が駐屯していたと思われる。
二の丸の北端部ではかなり高低差(5,6m程度)のある堀切を持たせ、以下二ノ段、三ノ段、そして当該尾根群の最北端部の四ノ段まで約300m近くの長さに伸びている。
この写真は、二の丸から本丸方向を見たもので、本丸と二の丸の段差は1、2m程度でスロープ状になっている。同群尾根の縁は、原形が劣化しているものの、土塁状の痕跡が認められる。
当時はおそらく、1m程度の高さがあったものだろう。なお、二の丸と本丸の境界部の幅は、意識的に狭められているような造りである。
当時はおそらく、1m程度の高さがあったものだろう。なお、二の丸と本丸の境界部の幅は、意識的に狭められているような造りである。
東尾根防塁群は全体に左右の斜面は切崖状になっている。
本丸を挟んで前後に礎石建物が発掘されたということから、これらはおそらく弘治2年(1556)、益田藤兼の代の修造と思われる。特に本丸最南端の礎石規模は、二ノ丸北端のそれと同等の大きさを持ち、郭幅いっぱいに建屋があったものと思われる。
七尾城の本丸高さはさほど高くないものの、眺望は予想以上にいい。このため、西方からの動きは、この本丸からほとんど確認できたと思われる。
東方は東尾根群の三ノ段や、四の段辺りから把握し、北方は西尾根群の北端である「尾崎丸」から見ていたのだろう。
改めて七尾城の形状が、中世山城の城砦として独特のV字状の尾根を巧みに利用したものであることを感じる。
最初の西尾根防塁群に戻って、太鼓の壇の北部にあるもので、この位置から上に登ると当該遺構があるが、現状は時期が悪く、雑草が繁茂していて中までは踏破していない。
七尾城の西隣にある山城で、益田兼高が稲積神社を改修するため、山頂部を削平、平坦地(10a)を造った。
その後、興国年間(1340~)、益田兼見の代になると、日野邦光が南朝方の三隅兼連らと呼応し、この城に拠って、兼見の居城である七尾城と対峙した。
その後、興国年間(1340~)、益田兼見の代になると、日野邦光が南朝方の三隅兼連らと呼応し、この城に拠って、兼見の居城である七尾城と対峙した。
現地に行くと、七尾城と稲積城との距離が余りにも近接していることに驚く。稲積城は七尾城に比べ規模が小さいが、西に伸びた稜線とのつながりもあり、しかも、日野邦光が6カ月も持ちこたえたのは、さらに高津川西岸にあった高津城との連絡と兵糧の輸送が確保されていたからである。
しかし、最終的には七尾城の兼見らによって、同城は落城(興国元年:1340年8月19日)、邦光は石見を去り、吉野(奈良県)に帰った。
しかし、最終的には七尾城の兼見らによって、同城は落城(興国元年:1340年8月19日)、邦光は石見を去り、吉野(奈良県)に帰った。
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