鳶ヶ松城(とびがまつじょう)
●遺構 郭等
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」、サイト「島根県遺跡データベース」)
ところで、当城について「島根県遺跡データベース」では、「鳶ヶ松城跡」としているものの、その呼称を「わしがまつじょうあと」としている。これは明らかな間違いで、「とびがまつじょう」又は、「鳶ヶ山城(とびがやまじょう)」である。
●所在地 島根県益田市乙吉
●登城日 2010年9月18日
●築城期 建久3年(1192)ごろ
●築城者 御神本(益田)兼高
●標高 58m●遺構 郭等
●備考 鳶ヶ山城、乙吉八幡宮
益田氏が築城した七尾城は近日のうちに取り上げる予定(編集の関係で前後し、すでに「七尾城・その1」を紹介している)だが、今稿ではその益田氏が七尾城に入城する前、仮城として築城したといわれる「鳶ヶ松城」を取り上げる。
ところで、当城について「島根県遺跡データベース」では、「鳶ヶ松城跡」としているものの、その呼称を「わしがまつじょうあと」としている。これは明らかな間違いで、「とびがまつじょう」又は、「鳶ヶ山城(とびがやまじょう)」である。
【写真左】鳶ヶ松城(乙吉八幡宮)遠望
御覧の通り、現在は乙吉八幡宮が建てられているため、中段部には遺構はほとんど認められない。
当日、本殿脇の他の合祀された祠の上付近に登ろうとしたが、足元が不如意のため断念した。
壇ノ浦の戦いに戦功を挙げた御神本兼高は、その勲功により建久3年(1192)、支族増野兵部左衛門に迎えられ、大谷氏の祖藤原房友を伴い、浜田の上府から益田に移住してきた。
七尾城は、その頃は当然築城されていないので、それまでの仮の城が必要になってくる。
このため、乙吉村の鳶ヶ山に仮の城を築城した。
七尾城は、その頃は当然築城されていないので、それまでの仮の城が必要になってくる。
このため、乙吉村の鳶ヶ山に仮の城を築城した。
七尾城が築城されたのが、翌年の建久4年春といわれているので、このことから鳶ヶ松城に在城したのは、1年程度と考えられる。
当城の規模はさほど大きなものでなく、4,50m四方の小丘に造られた。
現在は乙吉八幡宮が祀られ、麓は住宅が密集しているため、遺構の確認は判然としないが、「益田市誌・上巻」によれば、本殿上部に土塁を残しているという。
現在は乙吉八幡宮が祀られ、麓は住宅が密集しているため、遺構の確認は判然としないが、「益田市誌・上巻」によれば、本殿上部に土塁を残しているという。
この写真の後部に本丸などがあると思われるが、小丘の割に切崖部分が多い。また、写真に見える本殿付近は郭跡であった可能性がある。
おそらく当時は、頂上部から稲積山城の東方に七尾城も見えたと思われるが、現在は樹木に覆われ、本殿付近からの俯瞰しか確保できない。
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