大谷城(おおたにじょう)
●所在地 島根県益田市大谷
●登城日 2010年2月7日
●築城期 建久8年(1196)
●築城者 益田兼高
●城主 大谷氏(時章、兼光)
●標高 114m
●遺構 郭、腰郭、堀切等
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」)
大谷城は、前稿「大谷土居跡」でも紹介したように、土居跡から益田川を隔てた北方に築城された山城である。
大谷城を築城したいきさつは、上掲の説明板の通りであるが、もともと大谷氏は益田兼高の家臣として、文治元年・寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いに参戦、時章・房友父子が奮戦した戦功によるものである。なお、このとき時章の次男・時良と三男・時秋は戦死している。
●所在地 島根県益田市大谷
●登城日 2010年2月7日
●築城期 建久8年(1196)
●築城者 益田兼高
●城主 大谷氏(時章、兼光)
●標高 114m
●遺構 郭、腰郭、堀切等
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」)
大谷城は、前稿「大谷土居跡」でも紹介したように、土居跡から益田川を隔てた北方に築城された山城である。
益田川対岸の西麓付近から見たもの。説明板は橋のたもとに設置されている。
現地の説明板より。
“大谷城跡
〈岸谷山道(大手道)登山口〉
大谷城は、益田兼高が建久8年(1196)、大谷の田才原、西谷の地高山を削造して建てた益田家大谷居館の北の守りとして、七尾城に近い直轄城として築いた山城である。
後、この大谷の地の開拓や、益田氏に功績のあった大谷氏に、益田家が大谷時章を大田に地頭に命ずると共に、大谷城預かりとし、さらに大谷兼光のとき、大谷城主を命じ戦功に報いた山城である。
191号線から見えるように、城跡の西側に「大谷城」の看板が一文字づつ設置されている。
登山道は、ここを登って行く岸谷山道(大手道)と、上流の八幡宮のあったソネ道がある。
城の辻は(110mある)地元の人により、桜やツツジ、サツキなど植栽されており、眼下を益田川が蛇行し、美しい田園、点々として石見瓦の農家のいらかなど、美しい景観である。
若い人は5-6分で頂上に上ることができる。
平成4年11月吉日
ふる里おこし推進協議会”
大谷城を築城したいきさつは、上掲の説明板の通りであるが、もともと大谷氏は益田兼高の家臣として、文治元年・寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いに参戦、時章・房友父子が奮戦した戦功によるものである。なお、このとき時章の次男・時良と三男・時秋は戦死している。
説明板にもあるように、大谷城を登城するには、「岸谷山道」という大手道と、上流部にある「八幡ソネ登山口」の両方がある。この日は、後記の「ソネ登山口」から登った。
写真に見える石垣は、以前祀られていた八幡宮跡のもので、瓦片なども残っていた。
前稿「大谷土居跡」の築城期や、在住期間に不明な点があるとしたのは、同土居跡の場所と、大谷城との間に益田川が遮っているとはいえ、近接していることから、あるいは大谷城の築城時期に併せて、大谷土居跡も建てられたのではないかとも考えられるからである。
大谷氏の系図については、下記のとおりとなっている(益田市誌・上巻)。
大谷(藤原)時章⇒房友⇒兼光⇒章宗⇒知連(戦死)⇒章辰(弓の名人)
ソネ登山道は、御覧のようにほぼ直線のコースで、しかも傾斜がかなりある。
「若い人は5,6分で登れる」と説明板にはあったが、中年の我々にはとてもそんな短時間では無理である。
距離は多少長くなっても、つづら折りの登坂道のほうが断然楽である。数歩歩いては休憩しながら、20分ぐらいかかってたどり着いた。
応安年間(1368~74)、大谷城において、益田兼世・兼利兄弟と、家臣である寺戸左近兄弟との間で異変が起きたとの記録があるが、詳細は分からない。
登り切って最初に見えるのが、南麓の郭と本丸の切崖部である。
このあたりの郭段は、本丸の下に一段あるのみで単純な構成だが、北側から東側にかけては、変化がある。
さて、大谷氏にとって最も大きな出来事は、応永6年(1399)11月、和泉国「堺の合戦」で、一族の主だったものが討死したことである。
「堺の合戦」とは、「応永の乱」の一つで、先月30日投稿した「三隅城・その3」でも記したように、石見国守護でもあった大内義弘らによる倒幕の計画に、益田兼世はじめ石見国諸将らが加わり、泉州まで参陣した。
しかし、石見国の主だった国人領主は、途中から敵対する管領畠山基国に寝返った。ために、義弘は当地で討死した。
ただ、詳細は不明ながら最期まで大内義弘に従ったものは、石見国では益田兼世をはじめ、この大谷一族らもその中にいた。討死した大谷氏一族は次の通りである。
- 大谷兼光(大谷城主)
- 大谷範友(二男)
- 大谷知清(三男)
- 大谷知連(嗣子章宗の長子)
- 大谷知忠(同上 二男)
下って文禄元年(1592)の朝鮮の役に、大谷氏は益田氏の三奉行の一人として活躍したという。
本丸の西側に設置された「大谷城」の看板
写真に見える益田川を下ると、益田市街地へ向かう。
なお、この反対側の麓に、前稿の「大谷土居跡」があるが、残念ながらその写真は撮っていない。
大谷城の本丸付近は、御覧のように整備され、桜の木などが植樹されている。春にはおそらく見事な光景になるだろう。
地元の人によってこうした山城などを保存する方法は、浄財によるやりかたもあるだろうが、こうした公的な公募事業や、助成事業などへ申請する方法も一つの有効な手段だろう。
どちらにしても、地元の皆さんの熱意がないと成就しないだろうが…
大谷城は益田川に面した西側には南側の一部を除いて、郭は切崖状のため、構成されていないが、東側は尾根伝いに繋がる他山との形状もあって、写真に見えるように数段の郭が確認できる。
さらに東の尾根伝いに向かうと、下の写真にある「堀切」が見えてくる。
東に繋がる尾根との鞍部に造られたものだが、尾根幅がかなりあるため、規模は大きい。ただ、現在は大分埋まっているようだ。
建久4年頃、七尾城の支城とされ、南北朝期足利直冬が石見に来住した際の最初の城といわれている。
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