大谷土居跡(おおたにどいあと)
●所在地 島根県益田市大谷田才原
●探訪日 2010年8月16日
●築城期 観応元年・正平5年(1350)又は建久年間か
●築城者 益田兼見
●標高 50m
●遺構 郭、石垣、井戸
●別名 下久々茂土居跡
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「益田市誌・上巻」)
前稿「三隅大平桜」が植樹されたであろう観応元年・正平5年(1350)は、足利尊氏がこの年10月に高師直らを率いて直冬討伐のため、京を発ち備前まで軍勢を進めたところ、直義が挙兵を挙げたいわゆる「観応の擾乱」が起こった年である。
●所在地 島根県益田市大谷田才原
●探訪日 2010年8月16日
●築城期 観応元年・正平5年(1350)又は建久年間か
●築城者 益田兼見
●標高 50m
●遺構 郭、石垣、井戸
●別名 下久々茂土居跡
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「益田市誌・上巻」)
前稿「三隅大平桜」が植樹されたであろう観応元年・正平5年(1350)は、足利尊氏がこの年10月に高師直らを率いて直冬討伐のため、京を発ち備前まで軍勢を進めたところ、直義が挙兵を挙げたいわゆる「観応の擾乱」が起こった年である。
「日本城郭大系第14巻」の記録から見ると、同じ年、石見益田の大谷に益田氏の邸宅の一つとされる「大谷土居」が建てられたことになる。
応安元年・正平23年(1368)3月16日の夜、この大谷土居の益田氏邸宅の火災が起こった。この火災により、同氏が保管していた重要な書類(古文書)や、家財が焼失したという。
書類の中には、元暦元年(1184)から貞応2年(1223)までの8通のものがあり、焼失後、兼見がおそらく思い出しながら書きとめたものだろうリストが残っている(下段参照)。
- 元暦元年5月27日、大江広元奉源頼朝状案
- 元暦元年5月□日、梶原景時下文案
- 元暦元年5月□日、藤原頼種奉書案
- 元暦元年5月□日、源義経下文案
- 元暦元年5月□日、梶原景時下文案
- 元暦元年11月25日、源範頼下文案
- 元暦2年6月□日、源義経下文案
- 建仁3年12月□日、益田兼季解状案並安堵外題案
ただ、これらの紛失リストの作成や、その後の安堵御教書を手にするまでの経緯に不明な点があり、研究の余地があるとされているが、どちらにしてもこうした努力の結果、永徳3年(1383)2月15日、足利義満から袖判安堵御教書を得ている。
火災にあう前の益田氏の石見における社会的権力などは、十分に幕府に認知されたものだろうが、それでもこうした過去の益田氏の略歴や、御家人としての必要条件とされる公式文書を紛失してしまうことは、同氏にとっても耐えがたいものがあったのだろう。
その後、義満から安堵御教書を受理したのは、守護大内氏の手も借りて、10年以上もかかった。
なお、この土居に屋敷として住んでいたのは、余り長くなかった、と「日本城郭大系第14巻」には記されているが、下段に示すように、この位置から益田川を挟んで、大谷城があり、当城との関連も十分考えられるので、断定はできないと思われる。
また、当土居跡の名称については、別名「下久々茂(しも くくも)土居」跡とも呼ばれ、同じく益田氏の館跡であった久々茂にある「上久々茂(かみ くくも)土居」跡と区別されている。この土居跡については、いずれ取り上げたいと思う。
なお、この土居に屋敷として住んでいたのは、余り長くなかった、と「日本城郭大系第14巻」には記されているが、下段に示すように、この位置から益田川を挟んで、大谷城があり、当城との関連も十分考えられるので、断定はできないと思われる。
また、当土居跡の名称については、別名「下久々茂(しも くくも)土居」跡とも呼ばれ、同じく益田氏の館跡であった久々茂にある「上久々茂(かみ くくも)土居」跡と区別されている。この土居跡については、いずれ取り上げたいと思う。
現地にある説明板より
“益田家居館跡
益田兼高は、建久八丁已年七尾城北の尾に祇園社(八坂神社)を創建し、大谷田才原の南西、高山の裾に土居屋敷を営んで、これに住んだ(石見風土記)(益田市誌上巻)。
土居屋敷は、一名越中様屋敷ともいう。低地の土居原は、益田家の馬の調教場であり、出陣などの広場であった。
兼高は大明神の丘(今の忠魂碑)の低地に、御神本大明神(臼口)を、上府から分幣鎮守として奉斎した。明治の中ごろまで一族に崇拝され、存続したが、今は八坂神社(元七尾城の祇園社)に合祀されている。
平成元年11月建立
平成15年3月再建立”
現在はほとんど畑地となっており、写真に見える位置に母屋が建っていたのだろう。敷地はさほど広くはない。
上の写真の段からさらに奥に向い、次の段ができる位置に設置されている。
御覧のようにほとんど埋まっている。なお、さらに上に向かうと、墓地が階段状に設置されているが、これは現在の地元住民のもので、遺構ではないようだ。
説明板にある「低地の土居原」といわれているところが、車が停まっている個所と思われる。
全体に岩の塊のような地質であることから、当時の形状と変わっていないかもしれない。
全体に岩の塊のような地質であることから、当時の形状と変わっていないかもしれない。
説明板にある御神本大明神(臼口)を上府(かみこう:現浜田市)から分幣鎮守として奉斎した場所で、同丘の低地とあるから、丘の下に広場があったので、その付近だったのだろう。
御神本大明神(臼口大明神)は、益田氏一族の精神的なよりどころとして崇拝したもので、永徳3年(1383)の益田兼見の置文によると、このころは庶子家であった三隅・福屋・周布氏なども共同で回り持ちの頭役をしていた。
しかし、これまで記してきたように、庶子家は、後に惣領家益田氏からの支配下から離れるようになったため、分祀の形をとるようになっていく。
しかし、これまで記してきたように、庶子家は、後に惣領家益田氏からの支配下から離れるようになったため、分祀の形をとるようになっていく。
写真中央の山にある山城であるが、築城期はこの麓の土居跡よりも大分早く、建久年間とされている。
当城については、次稿で取り上げたいと思う。
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