井野城(いのじょう)
●所在地 島根県浜田市三隅町井野 殿河内
●登城日 2010年1月26日
●築城期 鎌倉末期~南北朝以前
●築城者 三隅(井村)兼冬
●標高 140m(比高60m)
●別名 井村(いむら)城
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「三隅町誌」等)
以下、井村氏の歴代城主は次の通り。
井野城主第2代・光信(兼雄)は、史料によっては、井野城及び、鳥屋尾城、また浜田市にある小石見城の城主にもなっている。
●所在地 島根県浜田市三隅町井野 殿河内
●登城日 2010年1月26日
●築城期 鎌倉末期~南北朝以前
●築城者 三隅(井村)兼冬
●標高 140m(比高60m)
●別名 井村(いむら)城
●遺構 郭、濠、石垣、堀切、竪堀等
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「三隅町誌」等)
三隅高城の北を走る304号線(三隅井野長浜線)を東上し、井野地区入口付近に差し掛かると、左側に小ぶりな舌状丘陵が突き出している。この先端部に築かれたのが井野城(別名「井村城」)である。
南麓を走る道路側から撮ったもので、写真最高所に本丸が設置されている。
現地の説明板より
“史跡 井村(いむら)城跡
井村城は、三隅城主4代兼連(~1355)の弟、兼冬(井村氏初代)が、三隅城の支城として南北朝期以前に築城したと伝えられる。
元亀元年(1570)、毛利軍との戦いで三隅城とともに落城した。
井村城と上今明の鳥屋尾(とやごう)城とは、本城三隅城を守る要害の地にあったので、この2城をめぐり幾多の攻防戦があった。
城地には、井村氏の氏神を祭る春日神社と菩提寺報恩寺とがある。
三隅町教育委員会”
この図を作成するために、測量したのが昭和38年7月30日(三隅地方史研究会実測)とあり、さらに昭和45年2月14日、井野中学校放送部と書かれている。
当時の中学校の生徒が現地に行き、調査したというから、実にほほえましく、また地元の歴史をこうした形で学んだということは貴重な体験だったと思われる。当時指導された先生に敬意を表したい。
さて、この図でわかるように、下から本丸まで5段の郭が構成され、本丸はほぼ長方形(横21m×縦28m)の形状になっている。
標高は島根県遺跡データベースでは、標題のように140mとなっているが、三隅町誌では160mとなっている。
この図では文字が小さいため読みづらいが、3段郭と4段郭の交差点には「古井戸跡」がある。この個所からは、「かんざしの玉」が出土し、現在麓の菩提寺である報恩寺に保管されているという。
東側から北方にかけては夥しい竪堀が配置されている。西方は天然の要害になっており、竪堀のようなものは当然ながら付帯されていない。
井村氏及び鳥屋尾氏の系譜
説明板にもあるように、井村城を築城した兼冬は、三隅城主第4代・兼連の弟であるが、兼冬の子・光信(兼雄・石見弾正少輔)は、井村氏代2代となり、もう一人の子・兼武が鳥屋尾氏を継いだ。
以下、井村氏の歴代城主は次の通り。
兼冬(初代)⇒光信(兼雄)⇒信世⇒盛世⇒兼冬
また、鳥屋尾城の鳥屋尾氏の歴代城主は次の通り。
兼武(初代)⇒兼時(井村光宣の子)⇒正時⇒正武⇒正義⇒正善⇒正吉⇒正輝⇒正信
(石見三隅史蹟及び三隅氏系図による)
なお、鳥屋尾城は、井野城から北へ3キロ余り向かった上今明・築地平東方に聳える標高480mの要害堅固な山城である。遺構が多いとされているが、登城口が分からないため未登城である。
南側の道路脇に、写真に見える説明板が設置されている。
この場所は下段に示す春日神社の鳥居があった場所で、この道を真っすぐ行くと、先ず春日神社に突き当たる。
この場所は下段に示す春日神社の鳥居があった場所で、この道を真っすぐ行くと、先ず春日神社に突き当たる。
菩提寺とされる報恩寺は、春日神社の右隣(東方)に建立されている。
なお、井野城の方向は、この写真では左側の山から向かっていく
井野城、及び鳥屋尾城の位置を考えると、三隅本城の支城的役割もあったかもしれないが、東隣りにあたる同じ三隅庶子家である周布氏の領地に最も近いため、むしろ周布氏に対する睨みの目的もあったのではないかと、三隅町誌は述べている。
初期のころは井村氏も周布氏も三隅氏を中心として同族意識が強かったかもしれないが、代が変わるにつれて独立意識が強くなり、対抗意識も芽生えてくるのは自然の成り行きである。
当社は井村氏の氏神とされているが、創建時期は不明。なお、この場所から西南水溝の向いに「姫の墓」というのがあるらしいが、当日この場所は確認していない。
井野城主第2代・井村光信(兼雄)
井野城主第2代・光信(兼雄)は、史料によっては、井野城及び、鳥屋尾城、また浜田市にある小石見城の城主にもなっている。
本来は一つの城にある程度常駐し、いわゆる本拠とする形態が普通であるが、光信が生きたこの時代は、それを許さなかった。なぜなら、石見南北朝時代の真只中であるからだ。
暦応4年(1341)7月、武家方(北朝)の上野頼兼・吉川経明らは、三隅氏分家の永安氏の所領・岡見の大多和外城を攻めた。
頼兼は武家方から派遣将軍として、石見の地に入ってきたが、すでに6年の歳月が流れていた。彼にとって、この時の挙兵にはそれまで以上の固い決意があったようだ。
翌康永元年(1342)2月1日、益田兼見(武家方)は福屋城を攻め落とした。同月12日にはその勢いのまま、浜田の小石見城へ迫った。このとき小石見城に拠っていたのは、井野城主・井村光信(兼雄)である。
おそらく、このとき小石見城に拠っていたのは、光信の外に、宮方(南朝)の総大将・新田義氏もいたと思われ、17日になると、新田義氏は降伏し、西方にある周布城の周布兼氏も降った。井村光信は、夜半に囲いを突破して、井野城へかろうじて戻っている。
井村氏第2代・光信について、「石見三隅史蹟」によると、次のように記されている(要約)。
「…六波羅探題攻囲軍に赴き、南朝方派遣の新田佐馬助義氏が石見にくると、これを援け、小石見城の枢地を扼して賊兵を防ぐ。また井村城(井野城)がしばしば敵の鋭鋒を受けた際、奮闘した戦跡は、いまなお井村城と三隅高城との間にある合戦平と称する地名が存在することでも知られる。…」
また、光信が61歳の祝いに、黒沢城主初代・四郎三隅興一兼春(白禅老―兼繁もいい、三隅城6代を継いだとの説もある)が贈った「偈(げ)」が、野上七太郎家に保存されているという。
なお、三隅町誌ではその後の井野城累代の城主について、三隅氏系図による歴代の順位数に混乱があり、整理がついていないが、第5代(町誌では6代としている)兼冬が、井野城東麓に、菩提寺報恩寺(写真上:参照)を建立したとしている。
また、初代・兼冬と5代・兼冬は同名となっているが、当然ながら別人である。
くだって戦国期であるが、説明板にもあるように、元亀元年(1570)、三隅高城とともに落城している、とあるが、このときの詳しい資料は、残念ながら三隅町誌には掲載されていない。
近年整備されていないようで、上部に行くに従ってブッシュ状態である。
上述したように、東面から北面にかけて施工されている。この竪堀は東側の最南端部に見えたもの。右隣の竪堀との間隔が意識的に短くされている。
郭跡などほとんどの遺構部にこうした雑木が育ち、写真に撮っても確認が困難だ。
「井村氏誠忠碑」と刻文され、左隅に「島根県知事三樹樹三書」とある。
島根県知事の三樹樹三という人は、1937年2月10日~1939年4月17日まで務めた人物で、神奈川県出身。
昭和23年6月頃は、日本商工会議所専務理事を務めている。
昭和23年6月頃は、日本商工会議所専務理事を務めている。
このことから、この石碑は戦前(昭和12,3年頃)に建立されたものだろう。
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