2009年5月10日日曜日

丸子山城(まるこやまじょう)跡・島根県雲南市大東町大東

丸子山城(まるこやまじょう)跡 
◆登城日 2008年2月11日

●所在地 雲南市大東町 大東 丸子山 ●築城期 中世 
●遺跡種別 城館跡 ●築城主 和多田藤佐衛門
●標高 90m  ●遺跡の現状 公園
●備考 別名 和田山城、禿山城、童山城 ●遺構 一部破損

◆解説(参考:島根県遺跡データベースなど)
 所在地は大東町の街並み中心部の南東に位置する丘陵地で、現在「丸子山公園」となっている所である。この位置に立つと、東北西方面がよく見渡せ、前稿の「岩熊城」が北西方向約2キロに見える。
 詳細な記録は残っていないが、戦国時代後期のものとされている。
 また、和多田藤左衛門という人物が築城主とされているが、築城期が戦国時代後期であるかどうかはなんともいえない。手元にある史料にも同氏の名前が掲載されているものがないため、いつの時代の人物か不明。
 おそらく地元郷土史・大東町誌などには当城に関することが記されているだろうが、まだ同誌を見ていないのでなんとも判断がつかない。
【写真左】 丸子山城(丸子山公園)を北西側から見たもの この付近一帯が公園になっており、名称もこの地名をとり、丸子山公園という名称である。
 西の丘陵地も運動場を中心とした施設があり、北の眼下に大東の町並みが見える。
 現在の公園という形で大幅に改変されているようだが、外回りの地形を見る限り、当時の城郭としては中規模以上のものと思われる。

【写真右下】 公園の一番高いところにある忠魂碑。
 おそらく、この場所が本丸跡ではないかと思われる。

【写真左】本丸下の郭跡とみられる箇所
 城郭としての遺構がどの程度残っているか不明だが、場所によっては公園として余り地形を変えていないような箇所も見受けられる。

【写真左】東西方向ほぼ中央部に見える凹型郭?
 この中央部のくぼみが当時からのものか、公園整備の際改変されたものか分からないが、東郭部分に本丸を置き、西側には二の丸のような配置がされていたような形状が想像できる。
◆どちらにしても当城については、現地にも山城であったことを示す説明板のようなものもなく、また史料も乏しいため、いささか消化不良の感がぬぐえない。しかし、地理的な位置や、わずかに雰囲気を残す遺構を見た限り、山城としての機能は十分に果たしていたものと思える。

2009年5月9日土曜日

岩熊城(いわくまじょう)跡・島根県雲南市大東町養賀

岩熊城(いわくまじょう)跡 
◆登城日 2008年3月17日
●所在地 雲南市大東町 養賀 岩熊 
●築城期 中世  ●遺跡種別 城館跡
●築城主 室町時代末期、馬田豊前守
●標高 97m
●遺跡の現状 畑地、山林 土塁 郭 堀切 馬場 殿屋敷(室町時代末期)
●備考 別名 馬田城跡

【写真左】岩熊城登城口付近
 場所は、JR木次線と並行して走る県道157号線の北の脇にある。写真のように地元の商工会が設置した立派な看板が立っている。なお、県道157線は大変に道が狭いため、この登城口付近には駐車できない。この日はこの場所より東に約100mほど隔てた空き地に車をとめて向かった。

◆解説(参考文献:「尼子・大内・毛利氏60年戦史」(吉村雅雄著)など)
●前稿までは時代的に戦国時代を中心とした雲南地方の山城を取り上げてきたが、今回取り上げる岩熊(山)城は、記録を見る限り、約100年さかのぼった室町時代後期に主に使用されている。
●応仁元年(1467)に勃発したいわゆる応仁の乱は、山陰の地でも東軍と西軍に別れた構図になっていった。同年5月20日、出雲・隠岐国守護・京極持清は、細川勝元率いる東軍へ、石見国守護であった山名政清は、山名宗全率いる西軍方へと向かった。

●このころの出雲・隠岐国守護であった京極持清は、次第に室町幕府同様、その支配力が弱まっていた。このため、地元の国人領主であった三沢氏や、松田氏らにとっては、この機会に守護京極氏を排除しようとしていた。
【写真左】岩熊城遠望
 県道157号線の脇にある山城で、小規模である。写真は西側に見える茶畑側から撮ったもの。

●ところで、尼子氏が正式に守護代として認知されたのは、応仁の乱が勃発する前といわれ、史料によっては清定の父・持久の時代で、明徳3年(1392)との説(「陰徳太平記」)もある。
 しかし、以前にも示したように、守護代は、地元に在住しないと職務を全うできない監理権限者であるから、応永9年(1402)に初めて野崎武右衛門に従って、尼子持久が月山冨田城に入城した以後と考えられる。
●野崎氏がこのときどういう立場でいたか詳細は不明だが、おそらく京極氏から直接指示を受けていた人物と思われ、尼子氏が守護代として確立するまでの後見人役のようなものだったと考えられる。

●さて、応仁2年6月、富田城に近い安来荘の国人領主・松田備前守が富田荘内へ侵入してくる。松田氏は、承久の乱の戦功により安来荘地頭職としてやってきた名族である。
【写真左】東郭と西郭を分ける位置(堀切りか)
 最初に掲載した登城口付近の案内板から想像して、さぞかし遺構部にも説明板などがあるものと期待したところ、現地はほとんど管理されておらず、倒木や伸び放題の竹林などが繁茂し、この写真の位置までしか入ることができなかった。
 この写真のくぼみ部分が、遺跡データと照合すると東郭と西郭を区分する位置と思われる。ちなみに東郭のほうが相当大きく、本丸はこの場所にあるものと思われる。

●尼子清定としては、先に松田氏が先攻してきたことにより、兵を動かす名目ができ、この戦いが実質上、尼子氏の出雲部における所領拡大のいわばスタートとなった。このときは松田氏の居城・十神山城までは落とせなかったが、勝ち戦であった。
●その後、7月には月山冨田城の北西部・出雲郷(あだかい)の春日城を攻める。8月、再び十神山城とその支城(安来の八幡・冨尾の両城)を攻める。
【写真左】西郭部分
この郭の大きさは目測だが、長径100m、短径30m程度である。

●9月に入ると、清定は軍を南西の方向に転じ、今回取りあげる岩熊城(別名・馬田城)を攻略する。このときの城主が、馬田豊前守といわれている。馬田豊前守については詳しい史料がないため断定はできないが、この地(大東町養賀地域)は、同町内東部に君臨した牛尾氏の所領地とも近いので、何らかの関係があったものと思われる。

【写真左】東郭方向を見る
 西郭から東郭にかけては、堀切形状で、しかもその高低差がかなりあり、急峻になっている。
 なお、この東郭の南端部も切崖状態で、登城口はこの日訪れた南側だけでなく、北側にもあるように思われる。(北側に小学校があったので、案外その方向からのアクセスできる道があるかもしれない)

◆感想
 当城探訪で少し残念だったのは、南側の窪み(遺構かどうか不明)に、不燃物など大量のゴミが捨ててあったことだ。
 昨今は、こうした道端の小山などにゴミが捨てられてているケースが多い。指定史跡ではないかもしれないが、山城という遺構を持つ場所にも、こうしたことが増えていくのはなんとも辛いものがある。

2009年4月30日木曜日

宇山城(うやまじょう)跡(島根県雲南市木次町寺領宇山)

宇山城(うやまじょう)

●登城日 2008年3月28日
●所在地 雲南市木次町寺領 宇山 
●築城期 中世
●遺跡種別 城館跡 
●遺構概要 郭 帯郭 虎口? 
●築城主 宇山飛騨守久信
●標高 212m
●遺跡の現状 山林  ●遺構概要郭 帯郭 虎口?
●備考 別名 上宇山城・日登城

◆解説
【写真左】宇山城登山口
 この城は木次町寺領というところにあるが、登城口は北側の上宇山というところにある。

 写真の位置にあるカーブした広い道に駐車して、ここから徒歩で行く。途中一軒の民家があり、この家の前を通って割と広い林道を登る。

【写真左】登城途中の登り道
 登城口から本丸までの距離は1キロもなく、6、700m程度だったと思う。

 途中から少し傾斜のついた上り坂になる。下草が刈ってあれば、途中の遺構も確認できたかもしれない。

【写真右】登城途中の標識
 距離にすると300メートルぐらいだろうか、少し登り道になり出した所に右の標識があり、この坂の上に本丸跡がある。
【写真左】本丸跡にて
 しばらく手入れしていないような下地で、3,40センチ程度の草や笹が茂っていた。

 写真のように本丸跡に「宇山飛騨守居城跡」という木製の碑が建っている。
【写真左】本丸跡に建つ祠
 なにも銘記されていない祠だが、宇山氏の関係のものだろう。


【写真右】同じく本丸跡にある石像
 この場所には、上記の祠とこの石像の二つがあるのみで、あとは草木が多いためよく確認できなかったが、おそらくこれ以外のものはないと思われる。

 なお、本丸の大きさはさほど大きくはなく、長さ20~30m程度で、幅が10m前後といったところか。訪れた時期が悪かったのか、雑草の丈がだいぶ伸びていて、周囲の境部分が確認しずらい。

【写真右】本丸跡から見た山
 現地では磁石を持ってきていなかったので、確信はないが、おそらく写真のとがった山は、地図で調べると、「室山(260メートル)」という山と思われる。

 この山も山城らしい形をしているが、場合によっては山岳信仰としての山だったかもしれない。


【写真左】宇山城を降りたところにある展望台(宇山神社?)からみた宇山城遠景
 この場所には何も書いてなかったが、本丸で見た灯籠とよく似た灯籠が同じくこの展望台にあり、また祠もあったことから、この神社は宇山氏を祀ったものと思われる。


 規模は小ぶりの部類に入るが、周辺の地形に変化があり、本丸にたどりつくまでには天然の要害を利用した箇所があるようだ。

 位置的には以前に紹介した多久和城から、大東の三笠城・牛尾城へ向かう道の途中にある。

 また、同じく前に述べた「地王峠・日登の戦い」の際、当城が何らかの役割を果たしていたことは間違いないだろうが、手元にある資料から見る限り、当城の記録は見いだせない。


 宇山城主・宇山氏について
 ※参考文献・新雲陽軍実記:妹尾豊三郎編著)

 当城の城主であった宇山氏は、宇多源氏佐々木氏の一族で、佐々木六角氏から別れたとされている。宇山氏が出雲に入った時期は、はっきりとはしていないが、一説には宇山信定(何代目かは不明)のころとされている。ただこの時期は、観応・文和年間で南北朝期争乱のときであるから、なんともいえない。

 確証はないが、筆者としてはもっと時代が下った、応永6年(1399)の足利義満が佐々木高詮を出雲守護職に任命したころではないかと思える。


 どちらにしても、宇山氏は佐々木氏の嫡流であったことから、戦国期には尼子氏の中でも筆頭家老で、「尼子分限帖」によると、尼子氏の最盛期にはその禄高も18万石という他の一族とは別格の扱いであった。

 宇山飛騨守久信は、特に尼子時代の経久、晴久、そして義久の三代にわたって忠勤に励んだ。しかし、晩年は尼子氏の中でも台頭してきた山中鹿助や立原久綱など若い世代と意見があわなくなる。

 永禄3年(1560)12月、尼子晴久が急死する。そのあとを引き継いだのが晴久の嫡男・義久で、当時20歳である。晴久が亡くなった2年後の永禄5年、毛利元就が綿密な計画のもとに出雲侵攻を開始する。

 このころから尼子の重鎮であった牛尾豊前守・亀井秀綱・河本隆任・佐世清宗・湯惟宗・牛尾遠江守幸清らは、続々と元就の陣地である松江の洗骸(荒隈)に投降していく。


 衰退していく尼子氏に見切りをつけた判断もあったようだが、若い義久の求心力・人望のなさがそれに拍車をかけていたという見方もされている。

 そうした中にあって、宇山飛騨守と中井駿河守だけは投降せず、最後まで尼子氏を支えようとした。ところが、尼子義久の側近に、大塚與三右衛門という奸佞(かんねい)の武士と、角都(かくいち)という座頭がいて、功ある者を妬み、事あるごとに讒言し、それを義久が鵜呑みにするため、非業の最期を遂げるものが相次いでいた。

 前段の重鎮が元就に降ったもう一つの理由が、実はこの二人の存在でもあったという。一説にはこの二人は尼子氏滅亡の際、毛利氏から恩賞を受けようとしていたのではといわれている。

 結局、義久は奸佞武士・大塚と座頭・角都の言を信用してしまい、宇山飛騨守は討手である大西重兵衛と本田豊前守の前で、不審を晴らすため、無念の自害をする。

 しかし自害の前に、彼が訴えた二人の非道を大西・本田両名が悟り、それを義久がやっとこの段階で初めて目覚め、大塚と角都は誅殺された。

 義久は、宇山飛騨守と嫡男弥四郎父子を生害させてしまったことを悔やみ、落涙したという。

 なお、飛騨守の二男は幼少で、尼子方家臣・真野兵衛尉が介抱して、密かに毛利方陣地・洗骸にいた米原平内兵衛(斐川高瀬城主)に預けられた。このあと米原氏が「宇山」の名を絶やさぬよう取り計らったという。

 この処置があったことから、今日でも雲南周辺には「宇山」姓を名乗る人が残っている。



◎関連投稿

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2009年4月28日火曜日

御城山城(おしろやまじょう)跡(島根県雲南市三刀屋町殿河内

御城山城跡 (おしろやまじょうあと)

●登城日 2008年11月14日 (金曜日)晴れ
●所在地 雲南市 三刀屋町 殿河内 御城山 ●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林  ●土地保有 民有地  ●指定 未指定
●標高 154 m
●備考 一部発掘調査。
丘陵先端「椎ノ木」の地名。古墓あり。宝篋印塔がある。
●遺構概要  郭(戦国時代) 井戸(戦国時代) 堀切(戦国時代) 虎口(戦国時代)搦手(戦国時代)    
宝篋印塔 郭 腰郭 堀切 虎口 櫓台
(以上島根県遺跡データベースより)


宇佐輔景(参考:三刀屋町誌等)

●建武2年(1335)、後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏が、12月箱根の竹之下で新田義貞らを降し、さらに敗走する天皇軍を追って、山崎で一大合戦を行う。
以前にも記したように、このとき山陰からは尊氏軍に属した武将が多いが、名和長年のように最後まで天皇に着いた武将もいた。知名度からいえば、長年ほどではないが、今回取り上げる御城山城主だった「宇佐輔景」もその一人である。

●三刀屋家文書によると、軍忠状の中に、「出雲国三刀屋太田荘藤巻村地頭・佐兵衛尉宇佐輔景」という記録が残っている。

 三刀屋町誌によると、彼の系譜は「三刀谷(屋でない)系図」から見ると、諏訪部助親(扶重の祖父)の弟に助清がおり、その子が孫太郎扶景である。同誌によると、この孫太郎扶景が、「宇佐輔景」ではないかとみている。

●宇佐輔景は、件の山崎の合戦において、名和長年のもとで奮戦して数々の軍功をたて、天皇が比叡山に逃れた時も同行し、左衛門尉に任じられた。その後の消息は史料がないため、長年とともに戦死したかもしれない。

●さて、この当時、三刀屋の諏訪部一族はほとんど尊氏派についていた。それにも関わらず輔景だけ、天皇方についたわけである。


 一族であるにもかかわらず、彼一人が別行動をとったということである。

 そのことと関係するか分からないが、諏訪部一族であれば、当然輔景も、「諏訪部輔景」ということになるが、あえて、姓を「宇佐」としていることもその理由の一つかもしれない。
【写真上】御城山城遠望
 本丸があるのは右側の山らしい。

御城山城と宇佐輔景顕彰活動

●ところで、輔景の居城といわれている「御城山城」は、三刀屋尾崎城の麓を流れる三刀屋川をさらに3キロほど上ったところにある。

●宇佐輔景については、大正7年に刊行された「飯石郡誌」によって紹介され、その忠臣ぶりを讃えられたこともあって、2年後の大正9年、「宇佐輔景遺跡保存会」が結成される。
 そのあと当時の県知事を迎えて「宇佐輔景公贈位(従四位)報告祭」が行われる。特にこの一連の顕彰活動の中心となったのが、医師で県 議会議員でもあった藤原薫である。
【写真左】登城した東北部の畑の脇に見えた宝篋印塔らしきもの
 この付近には不揃いな墓地が点在し、その中にポツンとひとつこの墓が見えた。鎌倉期のものか、戦国期のものか不明





●彼は宇佐輔景によほど心酔したと見えて、ついには宇佐輔景の唱歌「宇佐輔景」を自ら作詞し、作曲は当時東京音楽学校にいた広田龍太郎が手掛け、文部省認可ともなった。


現在地元の80歳前後の方なら、小学校時代にこの歌を歌っていたという。

【写真左】同上
 周辺にも宝篋印塔もしくは五輪塔の破片のようなものが転がっていた。最近ではほとんど手入れされていないようだ







●さて、当日同地を探訪し、目の前の山であることは確認できたが、登城口が分からず、最初に東北側の段々畑あたりから登りはじめた。しばらくすると途中から、進入するような隙間がないほどの藪こぎになり、断念していったん下まで降りた。

すると、途中から下の畑で仕事をしていたご年配の方がおられたので、登城口を訪ねた。
「登城口は、あるには、あるが、口では説明できない場所だ。それより、あんた、じつは心配して居った。あの山付近にはイノシシのワナをかけているところがかなりあってな、もしそれに足を挟まれたら、えらいことになるところだった。」と云う。

山城を探訪している旨を伝えると、
「きょうは無理だが、今度来られたら、ワシが案内してあげるから」と御親切な言葉。しかし、次回がいつになるのか、当方もわからないので、
「いや、そういうお手間までおかけしては恐縮ですので、よろしいです。」
と丁重にお断りをする。
このおじいさんも、宇佐輔景の歌を子供のころ歌った覚えがあるとのこと。

【写真左】土塁跡をうかがわせるもの
 たまたま登りはじめた東北部の畑地が、よく見るとこのあたりから城郭の遺構を残した地形に見える。







◆結局、現地の本丸など城郭までは踏み込めなかったが、それ以上に、城主だった宇佐輔景という人物と、彼を顕彰しようと尽力した大正時代の地元の人々の足跡も、一つの歴史となっていることを強調しておきたい。

2009年4月26日日曜日

神代城(島根県雲南市三刀屋町神代)

神代城(こうじろじょう)

●所在地 島根県雲南市三刀屋町神代 尚免
●高さ H280m
●備考 神代砦
●遺構 郭・腰郭・堀切等
●登城日 2008年12月10日

◆解説(参考文献『三刀屋町誌』等)
 神代城については、「三刀屋町誌」に次のように書かれている。

“神代古城山(こうじろこじょうざん) 伝説

 毛利の臣に神代大炊介(こうじろおおいのすけ)という豪勇の士があった。大炊介はもと大友宗麟の家臣であったが、いささかの事情があって、そこから追い出され、毛利に身を寄せた武将だといわれている。

 大炊介は、永禄12年(1569)7月17日、石見銀山城攻防の戦いに奮戦している。その居城が神代の古城山である。
【写真左】神代城遠望
 東側から見たもの。
神代城が所在する山はさほど大きなものではない。






 
 館は現在でも殿畑の地名があるが、神代の上土井(当主・奥田誉之)から下土井(当主・奥田清人)の宅地一帯にあったといわれる。

 ここからは幕末の文久年間(1862~3年頃)、金貨銀貨その他薄茶碾臼(ひきうす)、杉の扉などが出土し、昭和初期には神代の人家に保管されていると「中野村史」は記している。

 当時の居城がすべてそうであったように、神代の場合も館は麓の平地で、館の後山が戦時に立て籠る城となる。
【写真左】神代城の位置
 地元に設置してある案内図を元に管理人によって図示したもの。
 案内図そのものが大分古いため、少しわかりにくいかもしれない。


 
 後藤政義氏宅の後ろの山頂には、5畝歩余の平地がある。昭和3年、御大典記念事業として登山道が整備され、城址には神代大炊介の記念碑と桜樹が植えられている。

 大炊介の墓地も下土井の墓地付近と推定されている。しかし、大炊介の勢力範囲、在城期間、家臣団、その他一切のことは解っていない。
 また、大炊介との関係は不明であるが、神代には「国ヵ墓」の地名がある。現在の神代神社のあたりである。

 伝説によれば、掛合西谷の城主・長門守(長門守伝説については「徳利地蔵」の項でも触れている)が、病気のため湯村温泉で湯治せんと、中野から六重、神代、田井へ通ずる車道を造られた。

 中野の南の山頂より徳坊主峠を越えて、六重粟谷に入り、神代神庭に出て、今の神代神社付近まで来て、遂に病没したという。長門守の墓を信心すると霊験あらたかというので、参拝する者が多かったという。
    (「中野村史」より)”
【写真左】下土井の上にある削平地
 近代になって造成された削平地と思われるが、その奥に当城が見える。
【写真左】東麓側から見た切崖
 登城道が分からなかったため、しばらく廻りをウロウロしていたら、この光景が飛び込んできた。
 近くから見るとなかなか要害性がある。
その後、南側に踏み込む箇所があったので、そこから向かう。
【写真左】馬場跡か
 郭としての機能もあったと思われるが、主として馬場の目的として使われたのだろう。
 ただ、周囲は大分重機で改変されたようだ。
このあと、尾根筋を基準にさらに北に進む。
【写真左】郭
 当城最大の郭で、上記馬場跡から尾根伝いに進むと、とたんに高低差のある斜面に出くわす。ここを降りるとご覧の広い削平地が現れた。
 植林してあるため、昼間でも薄暗いが、この郭はかなりの規模を持つ。



大炊介は毛利方か尼子方か

 ところで、神代大炊介なる武将は以前からきになっていた武将である。
 というのも、『三刀屋町誌』(「中野村史」)では、もともと豊後(大分)の大友宗麟(大友宗麟墓地(大分県津久見市大字津久見字ミウチ)、臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)の家臣であったが、「いささかの事情があって、大友氏から追い出され、毛利氏に身を寄せた…」と書かれている。

 「いささかの事情」とは、どういう内容だったのだろう。しかも、毛利に身を寄せたといって、安芸ではなく、出雲に来ている。それも山深い奥出雲である。
 そしてさらに混乱させるのは、下段の写真にもあるように、石碑に「尼子(の)将」と刻銘されていることである。こうなると、どちらについた武将なのかよくわからないことになってしまう。
【写真左】尾根筋最高所
 先ほどの郭を通り過ぎ、不定型な尾根を進むと、最高所と思われる箇所にでた。
 熊笹の間に何か石のようなものが見える。
【写真左】石碑
 「尼子将 神代大炊介」と刻銘された石碑を発見。
 これが、昭和3年に建立されたものだろう。

 なお、この箇所が主郭と思われるが、4,5m前後の規模で、郭というより物見台もしくは基壇として使用されたのかもしれない。
【写真左】神代神社参道
 神代城から約1キロ余り南下したところに祀られている。
 大炊介との直接の関係は不明だが、戦国期には何等かのかかわりがあったものだろう。
【写真左】神代神社 本殿





多久和城 その2 多久(和)氏など

多久和城・その2  多久(和)氏など


【写真左】登城途中、下から見た本丸













 前稿で多久和城の城主であったと思われる「多久和左京亮」を取り上げたが、この人物の出自も定かでない。

ところで、多久和城関係について調べていたところ、サイト「consultant takuwa online shop」というところに、“多久和姓について”というものがあり、そこに下記のような内容が記されていた。


”多久和”姓について


 ”多久和”姓とは、かわったものです。しかし、いわれは確かなものです。

すなわち、明治に入り、苗字の使用が認められると、出雲平野・平田の御百姓さんは、その昔、山城・多久和城にかり出された経験より“多久和”姓を名乗るようになったものです。

その事は 平田の実家の古文書に明記されていた事を思い出されます。
実家の祖父多久和新四郎は、多久和城を保存する様に明治・大正時代に動いたときもありました。(以下略) ”
【写真左】本丸跡に設置された祠など
社日社、秋葉社、大神岳社という3つの祠があり、社日社は尼子の関係からと思えるが、他の二つの由来が分からない。






 多久和、あるいは多久という人物や地名に多いのは、現在でも旧平田市(現在出雲市)である。確かな資料がないため、これから記す内容は、根拠がほとんどないが、私なりに多久(和)氏関係の動きを想像してみたい。


  1. まず、冒頭に挙げた多久和右京亮なる人物の先祖は、もともとこの 平田地域の国人領主ではなかったかということ。
  2. そしてその居城は檜ヶ仙城(島根県出雲市多久町)であり、多久和氏の中の一族が尼子方に属し、尼子清定の時代に知行安堵された。
  3. その後、多久和城の築城に当たって、実家である 平田・桧ヶ仙城下の農民が駆り出されたのではないだろうか。
  4. 戦国末期になると、実家である平田・桧ヶ仙城も毛利方の手に落ち、残った家臣らは南の斐川東 部の宍道湖周辺を新田開発したといわれている。

【写真左】桧ヶ仙城(出雲市平田)麓より桧ヶ仙城遠望










 ところで、この新田開発した場所は、現在の斐川町内坂田地域などだが、実は多久和氏そのものも、元は以前に述べたように、現在の滋賀県長浜市にある「坂田」というところからきている可能性が高い。



 そのときの主だった一族名としては「松本一族」がある(多久神社縁起より)。

時期はなんともいえないが、おそらく論功行賞などでやってきた鎌倉期(承久の乱、もしくは後醍醐天皇の時代か)ではないだろうか。

どちらにしても、今となっては出自を判定する史料などがないので、繰り返すが、あくまで推測の域を出ない話である。  

2009年4月25日土曜日

多久和城(たくわじょう)その1(島根県雲南市三刀屋町多久和)

多久和城(たくわじょう)・その1

●登城日 2008年4月23日
●所在地 雲南市三刀屋町 多久和
●築城期 中世 
●遺跡種別 城館跡
●築城主
●標高 140m
●遺跡の現状 畑地、山林 
●遺構概要 郭7(連郭式) 馬出曲輪 土塁 堀切 縄張り 郭 帯郭 土塁 堀切 虎口

【写真左】多久和城の登城口付近
 昨年(2008年)に登城しているが、地図で見る以上にアクセスに手間取った。カーナビは現地周辺に来たらあまり当てにせず、標識をしっかり見たほうがいい。 もっともこの城の案内標識は、当時(現在もか)ほとんど見なかったので、地元の方に聞きながら向かった記憶がある。
 写真手前は、地元自治会のゲートボール場で、その向こうが右から左へ登る多久和城の登城道である。


◆解説(参考文献『三刀屋町誌』等)
 三刀屋尾崎城から南の方に行くと、多久和という地区がある。この山間の中に多久和城という中規模な山城がある。以下、「三刀屋町誌」等を参考に紹介したい。

 現在合併により雲南市になった旧三刀屋町には、おもだった戦国時代の山城としては、当城や三刀屋城などを含め、約10ヵ所がある。このうち毛利氏の支配下になった段階での禄高は、三刀屋尾崎城の15,000石に次いで、当城は3,500石であったという。
【写真左】登城口その2
 このときは登城道の下草がこのあたりまでは刈ってあった。これから先は杉林の中に入るため、全体に暗い。






 さて、築城期は不明だが、応仁2年(1468)尼子清定の時代に、当時、多久和左京亮が支配していたという。多久和氏がもともとから住んでいた土着の豪族か、尼子家臣団の一人として派遣されていたか不明だ、と「三刀屋町誌」には記してある。

 以前、斐川町の高瀬城の米原氏棟札の稿で取り上げた、「大工・多久某」と何らかの関係があったものと私は思っている(いずれこのことについては取り上げたい)。

 当城の記録としては、落城したことが2回もあったと記されている。1回目は、天文12年(1543)で、このときは毛利方にあった本城常光が短期間のうちに降したという。
 2回目は元亀元年(1570)ごろで、尼子氏がいったん衰退したあと、尼子再興軍が三刀屋城周辺に出没したころである。このときの城主は誰であったかについては、二つの説がある。
 ひとつは、地元歴史家・速水保孝編著「出雲の歴史」によると、多久和山城守といい、もう一つは、「飯石郡誌」によると、高尾久友であるという。
【写真左】登城道その3
 途中から傾斜がきつくなり、しかも所々小さな落石がある。登城口から本丸まではさほど時間はかからず、20分程度だったと思う。




 当城の概要については、三刀屋町誌によると、つぎのように記してある

”山上には200㎡余りの削りならした平地があり、大仙智明権現(大神岳社)と、秋葉社、それに社日の三社が祀られている。左手前方の小高い山が、福谷城で、ここからは、はるかに中野城や、掛合の多賀城も見ることができる。右手前方、森谷の集落の奥地が城番谷で、大倉口下方の小高い山々と共に見張り台が置かれた地であろう。

 城番谷の上手の谷に、勝負迫(しょうぶさこ)と鎧迫(よろいさこ)という地名が残っている。戦いに敗れた落ち武者が、鎧を捨てて逃げたのでその地名があるという。
 大倉口の山上にはおびただしい五輪塚が残り、多久和城攻防の激しさを知ることができる。


 この城は、前面に飯石川が流れ、左右に大倉からの二本の小川と峠谷川が飯石川に注ぐ、下口の峡谷を一旦堰き止めれば、多久和盆地は一面の湖となって城を囲む、前方左右に突き出た段丘上に、防砦壁を設ければ難攻不落の堅城となろう。出雲国の山城の中でもかなり整った馬蹄形状の名城である。


 後方搦め手の中腹に、土地の人が「一計り」と呼ぶかなり広い三角形状の平地がある。自然の山の一部を残して土塁としているが、兵士一人一人を数えるのが面倒で、この地にいっぱい立ち並べて、一隊として編成したとの伝説があるが、ここは搦め手防御の最後の拠点であろう。城兵に給する食料も水も、ここを通って山上に運ばれたであろう。城前方の最も広い調練場跡に通ずる。”(以下略)

【写真左】途中に見えた堀切り
 どちらかといえば、小規模な山城だが、本丸周辺の形状が複雑で、今思えば形状がどういう形だったか判然としない。






 多久和城の名称については、私の記憶違いでなければ、確か地元の市場という地名から、別名「市場城」とも呼ばれていたはずである。
 この脇を通る狭い道(176及び272号線)は旧出雲街道で、戦国期から江戸時代まではこの道が主要道になっている。

【写真左】本丸跡
 三刀屋町誌にもあるように、全体に細長い形で、先端部に祠が設置されている。







 尼子・毛利・大内の時代からたびたびこの道が利用され、特に176号線ルートはそのまま北東に下って行くと、旧大東町を超え八雲・東出雲にたどりつく。この付近に行けば、富田月山城の西山麓・京羅木山へは目と鼻の先である。
 三刀屋尾崎城の位置も主要な地点だが、多久和城はさらに同城を補完する意味からも、戦略的に重要なものであったことが想像できる。



【写真左】本丸跡にある祠
左に、社日社、中央に秋葉社、右に大神岳社。
 本丸跡の周辺は整理されていたので、定期的に地元の方による祭礼などが行われているのだろう。

城名備山城(島根県雲南市木次町里方)

城名備山城(きなびやまじょう)

●所在地 島根県雲南市木次町里方●築城期 中世
●築城者 不明(佐世氏か)
●標高 117m
●比高 80m
●遺構 堀切・郭・虎口・井戸等
●登城日 2009年2月28日

◆解説(「日本城郭大系第14巻」等)
 前稿「三刀屋尾崎城」の位置から北に向かうと、斐伊川と三刀屋川の合流点に差し掛かる。この位置から北に聳える妙見山の南麓部に設置された山城である。
 この城砦については、大分前から存在は知っていたが、中世の山城というよりも、地元の古代の記録である「出雲風土記」に出てくる神話の山としての知名度が高く、登城前は余り期待をしていなかった。
 ところが、実際に登城してみると、予想に反し、山城として最低限の遺構を備えたものであった。

【写真左】城名備山城
 左の高い位置に本丸がある。











 現地の説明板より

“城名備山城跡
 この山の名は、奈良時代(710~794)に書かれた出雲風土記に「所造天下大神大穴持命(あめのしたつくらし おおかみおおなもちのみこと:大国主命)が、八十神(従わぬ多くの神々)を討とうとして城を造られたところから、「城名備(きなひ)山」と名をつけられたとされています。

 中世になると、本格的な山城が築かれるようになり、山頂付近には、山城の名残りを留めるいろいろな跡がよく残っており、山城の姿を今日に伝え、木次町の代表的な史跡となっています。
 平成14年3月
 斐伊活性化協議会”

【写真左】駐車場
 斐伊川沿いの西側にある終末処理場の脇から登る道が設置されている。車でこの駐車場まで行ける。







 次に、城名備山の尾根伝いに延長された北に聳える妙見山についても、現地の説明板があるので紹介しておく。

“妙見山遺跡
 妙見山遺跡は、木次町・三刀屋町公共下水道終末処理施設建設に伴って、平成5~6年に調査された祭祀遺跡で、妙見山から派生して斐伊川を眼下に見下ろすこの尾根上に所在しています。
 山岳信仰の舞台となった妙見山遺跡は、その名が示す通り、妙見信仰、すなわち北斗七星を祀る信仰といわれ、中世山岳仏教の参拝地でもありました。
【写真左】堀切
 駐車場から歩きだすとすぐにこの堀切が出てくる。2,3回堀切をアップダウンすると、すぐに郭が見えてくる。





 平安時代初期、奈良薬師寺の僧・景戒によって記された「日本霊異記」の中で、妙見菩薩に灯明が献じられたとあるように、遺跡からは1万点を超える中世土器が出土しており、この中には灯明皿として使われた杯や、皿が多数含まれています。
 掘立柱建物も5棟(推定)確認されており、鉄釘のほか、通常の建物には使われない飾り釘も出土していることから、宗教施設が存在していたと思われます。
 また、遺跡内からは、鉄滓(てっさい)や、焼土も見つかっており、この尾根上で宗教施設にともなった小鍛冶が行われていたことも考えられます。

【写真左】第2郭
 最初に南北に長い郭がある。長さは2,30m程度か。










 時代は平安時代、9世紀から12世紀にまたがっており、この地が長い山岳仏教の修行信仰地として続いていたことをうかがわせます。ことによると、中世には、妙見山と並んで、かつて42もの僧坊があったと伝えられ、木次町字谷、及び寺領地内に所在する「伝室山寺跡」の二つの参拝地が存在してた可能性も考えられ、中世びとの厚い信仰心がうかがわれる貴重な遺跡でもあります。

 平成13年12月 木次町教育委員会”

【写真左】第2郭から本丸を見る
 第2郭と本丸の段差は2m程度で、階段も設置されているので歩きやすい。
【写真左】本丸その1
 現在は東南に向かって開放され、西側は立木が生えているため全体の姿は分からないが、戦の際はほとんど、東南の方に重きを置いていたと思われる。

【写真左】本丸その2
 本丸の底面はほぼ平坦になっており、後段に示す西側の下の郭同様、掘立柱の建物があったと考えられる。
【写真左】本丸から西側の下の郭を見る
 規模としては、この下の郭が大きいようだ。
 位置的にもこの場所が一番重要な位置になる。
 向うに見える川は斐伊川だが、戦略的にはこの川が濠の役目を果たしたものと思われる。
【写真左】本丸から南方に三刀屋尾崎城を見る
 手前に見える川は、斐伊川の支流・三刀屋川
【写真左】本丸側から北方に妙見山を見る
 この日、当山の途中まで登ってみたが、途中から藪こぎになったため、断念した。