吉田六郎兼久の墓
(よしだろくろうかねひさのはか)
●所在地 岡山県高梁市吹屋町
●参拝日 2016年3月29日
◆解説
本稿では、前稿黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)の城主・吉田六郎兼久の墓を紹介したい。
黄金山城を探訪した3月15日の当日も件の墓を訪ねようとしたが、この時は手がかりになる史料がなく、分からないまま帰宅した。その後、調べていくうちに、どうやら吹屋の街並みの一つ「中町」に在りそうだということが分かったので、この日(3月29日)地元の観光案内所に向かい、教えていただいた。
場所は、北側にある「べんがら屋」の脇にある路地を入って少しのぼった墓地の一角にある。
この高くなったところ(尾根)を越え、降っていくと吹屋小学校跡側に出てくる。
【写真左】吉田兼久の墓・その1
【写真左】吉田兼久の墓位置図
この地図は、明治28年8月ごろ、街並み復元図として作成されたもので、おそらく江戸時代にすでにこのような街並みが出来ていたものと思われる。
吉田兼久の墓は、ご覧のように街の通りから外れたところにある(下段写真参照)。
なお、この図は小さい文字で分かりづらいが、兼久の請負人となった大塚家が右下に記されている。
【写真左】吹屋の街並み
通りの左右にはベンガラ色に染まった建物が往時を偲ばせてくれる。
【写真左】墓地に向かう。
吹屋の街並み通りの北側に、現在「べんがら屋」という店があり、そこの隣に小さな脇道がある。
これをまっすぐに進んで行くと、次第に登り坂となり、左側には杉林が続く。
【写真左】吉田兼久の墓・その2
墓石は3対の体をなしているが、分散したものを後に付き合わせたものだろう。中央が兼久で、残りは正室のもの、及び兼久の子のものもあったかもしれない。
隣に石碑があるが、裏を見ると、「昭和55年 中嶋秋雄建立」とあるので、この墓地の所有者中嶋家の方が建立されたものだろう。
碑文は判読不明な箇所もあるが、次のように記されている。
《正面》
“清源寺院殿壽澗兼久大居士 永禄六癸亥十一月二十九日
黄金山城主吉田六郎権頭兼久
室蓮華院殿◇室◇◇大姉
《側面》
祖近江源氏
近江国神埼郡佐々木氏ノ分レ近江国愛智郡吉田郷拝領主ト為リ地名ニ因ミ吉田氏ヲ名乗ル出雲ノ太守尼子義久氏傘下ノ武将守護職トシテ毛利氏ト戦イ討死セリ 嗚呼”
兼久討死の時期
前稿では兼久が戦死した時期がはっきりしなかったが、上記碑文を読むと、永禄6年11月としている。すなわち、1563年のことで、このころ、出雲においては毛利元就が、荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を本陣として築き、尼子氏の重要な支城であった白鹿城(島根県松江市法吉町)を攻め、同年10月29日に、当城を攻略している。
そして、その3年後の永禄9年(1566)11月21日、尼子氏の居城であった月山富田城が落城、義久・秀久・倫久3兄弟が降伏することになる。
このことから、兼久の居城・黄金山城を攻めた毛利軍とは、おそらく備後東部や備中における国人領主らで、毛利氏に帰順した者たちによるものだろう。
(よしだろくろうかねひさのはか)
●所在地 岡山県高梁市吹屋町
●参拝日 2016年3月29日
◆解説
本稿では、前稿黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)の城主・吉田六郎兼久の墓を紹介したい。
黄金山城を探訪した3月15日の当日も件の墓を訪ねようとしたが、この時は手がかりになる史料がなく、分からないまま帰宅した。その後、調べていくうちに、どうやら吹屋の街並みの一つ「中町」に在りそうだということが分かったので、この日(3月29日)地元の観光案内所に向かい、教えていただいた。
場所は、北側にある「べんがら屋」の脇にある路地を入って少しのぼった墓地の一角にある。
この高くなったところ(尾根)を越え、降っていくと吹屋小学校跡側に出てくる。
【写真左】吉田兼久の墓・その1
この地図は、明治28年8月ごろ、街並み復元図として作成されたもので、おそらく江戸時代にすでにこのような街並みが出来ていたものと思われる。
吉田兼久の墓は、ご覧のように街の通りから外れたところにある(下段写真参照)。
なお、この図は小さい文字で分かりづらいが、兼久の請負人となった大塚家が右下に記されている。
【写真左】吹屋の街並み
通りの左右にはベンガラ色に染まった建物が往時を偲ばせてくれる。
【写真左】墓地に向かう。
吹屋の街並み通りの北側に、現在「べんがら屋」という店があり、そこの隣に小さな脇道がある。
これをまっすぐに進んで行くと、次第に登り坂となり、左側には杉林が続く。
【写真左】中嶋家の墓地
しばらく行くと、右手にまとまった墓地が点在してくるが、その中に「中嶋家」の墓地がある。
この中に、吉田兼久の墓が祀られている。
墓石は3対の体をなしているが、分散したものを後に付き合わせたものだろう。中央が兼久で、残りは正室のもの、及び兼久の子のものもあったかもしれない。
隣に石碑があるが、裏を見ると、「昭和55年 中嶋秋雄建立」とあるので、この墓地の所有者中嶋家の方が建立されたものだろう。
碑文は判読不明な箇所もあるが、次のように記されている。
《正面》
“清源寺院殿壽澗兼久大居士 永禄六癸亥十一月二十九日
黄金山城主吉田六郎権頭兼久
室蓮華院殿◇室◇◇大姉
《側面》
祖近江源氏
近江国神埼郡佐々木氏ノ分レ近江国愛智郡吉田郷拝領主ト為リ地名ニ因ミ吉田氏ヲ名乗ル出雲ノ太守尼子義久氏傘下ノ武将守護職トシテ毛利氏ト戦イ討死セリ 嗚呼”
兼久討死の時期
前稿では兼久が戦死した時期がはっきりしなかったが、上記碑文を読むと、永禄6年11月としている。すなわち、1563年のことで、このころ、出雲においては毛利元就が、荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を本陣として築き、尼子氏の重要な支城であった白鹿城(島根県松江市法吉町)を攻め、同年10月29日に、当城を攻略している。
そして、その3年後の永禄9年(1566)11月21日、尼子氏の居城であった月山富田城が落城、義久・秀久・倫久3兄弟が降伏することになる。
このことから、兼久の居城・黄金山城を攻めた毛利軍とは、おそらく備後東部や備中における国人領主らで、毛利氏に帰順した者たちによるものだろう。
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