高橋右京進館跡
(たかはしうきょうのしん やかたあと)
●所在地 愛媛県西条市喜多台
●築城 元亀2年(1571)か
●城主 高橋右京進
●遺構 祠等
●備考 藤森神社
●登城日 2015年3月23日、2016年2月21日(藤森神社)
◆解説(参考資料 『日本城郭体系第16巻』、『愛媛県の歴史』山川出版社、HP『レファレンス協同データベース』『城郭放浪記』その他)
前稿鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)でも述べたように、今稿では高橋右京進館跡を取り上げたい。当館跡は鷺ノ森城から西に約1キロほど向かった喜多台地区に残るものである。
【写真左】高橋右京進館跡
広々とした田圃の一画に祠を祀る。
中央の墓石のようなものはおそらく五輪塔形式のものだったのだろう。
【写真左】高橋右京進館跡・藤森神社の配置図
前稿でも述べたように、このあたりも中州状の地勢であったと思われる。
高橋右京進
元亀2年(1571)、妙口剣山城主黒川美濃守と、新居郡金子山城主金子備後守らは、鷲ノ森城主壬生川摂津守を襲撃した。それまでも度々両者は鷺ノ森城を攻めていたが、壬生川摂津守は何とか持ちこたえていたものの、ついに元亀2年の攻撃では落城も時間の問題とみられていた。
【写真左】遠望写真
北側から見たもので、小祠を祀る小屋がポツンと田圃の脇に立つ。
土地改良された関係から当時の面影は殆ど消滅しているが、おそらくこの周囲が館跡・敷地だったのだろう。
時の城主壬生川通国は、安芸の毛利氏と来島城(愛媛県今治市波止浜来島)の来島氏に援軍を要請した。毛利氏側から派遣されたのが、高橋右京進を将とする軍勢であった。戦いは右京進などの活躍もあり、壬生川氏が勝利した。そして、この戦功によって右京進は当地喜多台を与えられ、この地の開発に努めたという。
現在その喜多台という地区の田圃の脇には、高橋右京進館跡が残されている。また、彼がそのころ建立したとされる藤森神社も近くに残っている(後段参照)。
【写真左】石碑
「高橋右京進館跡」と刻銘された石碑が左側に建つ。
この横面には「昭和31年 壬生川史談会」と筆耕された文字が見えるが、もう一つの石碑には「明治27年3月吉日」と記された石碑も建立されている。
従って、代々この地が高橋右京進の館であったと言い伝えられてきたのだろう。
さて、この高橋氏(右京進)は、毛利氏側から派遣された武将だという。また、その時期は元亀2年(1571)であったと記録されている。元亀2年といえば、毛利元就が亡くなった年である。
この前年、元就は長年の宿敵であった出雲月山富田城攻めにおいて、病を押して自ら出陣していたが、9月に病状は悪化し、輝元・小早川隆景を伴い、安芸吉田郡山城へ帰国した。そして、翌2年6月14日、ついに元就は75歳をもって逝去した。一週間後の同月21日、輝元・隆景らが葬儀を取り仕切った。
【写真左】館跡から瓶ヶ森を見る。
北側から見たもので、後背には石鎚山脈の一つ瓶ヶ森(かめがもり:1,897m)が控える。
このように、この年(元亀2年)における毛利氏の動きは、元就の死去ということもあって表立った動きは少ない。
強いて言えば、その後尼子氏との戦いを任された吉川元春が出雲で奮戦し、弟の小早川隆景がこの年の春、備前児島での戦いなどを行っているが、途中で元就危篤の報を聞いた隆景は一旦安芸に戻っている。
そうした状況下での、伊予壬生川氏からの毛利氏に対する支援要請である。支援要請の具体的な時期については記録がないが、どちらにしても毛利氏としては本格的な軍団を派遣する環境下ではなかったと考えられる。
【写真左】館跡から世田山(城)を見る。
北に目を転ずると、今治市との境に聳える世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)が見える。
益田藤兼と毛利氏
このことから、毛利氏側としては、直属の譜代家臣らを伊予に派遣させず、他の一族で毛利氏傘下にあった者に命じた可能性が高い。そこで白羽の矢を立てられたと考えられるのが、石見益田氏である。
【写真左】益田氏の居城・七尾城
弘治3年(1557)4月3日、元就は長門国勝山城にて大内義長を攻め、義長は自害することになり、ここに大内氏が滅ぶことになるが、その直前まで大内方に与していた益田藤兼は、3月23日に至って大内氏から毛利氏へと服属している。
この後、益田藤兼の二男と吉川元春の女子が縁組を行う(永禄10年・1567)など毛利氏一族と益田氏の関係は強くなっていった。
そこで、元就の危篤・逝去という毛利氏にとって重大な局面に対し、益田氏が協力していったことは十分に考えられる。そして、鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)で紹介した高橋氏(庶家)が益田氏の命を受け、伊予に渡ったという可能性も十分想像できる。
ただ、残念ながら毛利氏が益田氏に対し、伊予丹生川氏支援要請をした記録や、益田氏が高橋(地頭)氏と、この件に関して契約したような記録は、『益田家文書』などには残っていない。
藤森神社
右京進が建立したとされる神社である。場所は高橋右京進館跡から南西の方向約300mの地点にあり、境内の前は現在遊園地のような施設が併設されている。
【写真左】藤森神社
右側には「藤森荒魂神社」と銘打った石碑が建ち、安政年間に建立された鳥居が残る。
なお、石碑の裏には総代の名簿が記されており、この中には「高橋姓」の名も見える。
神社の名称が、鷲影神社であれば、上述したように益田氏の家臣であった高橋氏であることがほぼ確実なのだが、残念ながら藤森神社という名称である。
藤森神社として有名なのは、京都市伏見区深草鳥居崎町に所在するものだが、高橋氏との関係は分からない。
【写真左】拝殿
規模は小さいが、当社では「藤まつり カラオケ歌謡際」といったイベントが定期的に行われているようだ。
また、左側の壁には「藤森の歌」という歌詞が掲げられ、「…右京進が庵を建て社をまつる荒魂の昔を語る藤の花…」といった詩が綴られている。
【写真左】本殿
【写真左】奈良原神社
藤森神社境内に合祀された社で、おそらく今治市の楢原山山頂に祀られている楢原(奈良原)神社を勧請したものだろう。
(たかはしうきょうのしん やかたあと)
●所在地 愛媛県西条市喜多台
●築城 元亀2年(1571)か
●城主 高橋右京進
●遺構 祠等
●備考 藤森神社
●登城日 2015年3月23日、2016年2月21日(藤森神社)
◆解説(参考資料 『日本城郭体系第16巻』、『愛媛県の歴史』山川出版社、HP『レファレンス協同データベース』『城郭放浪記』その他)
前稿鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)でも述べたように、今稿では高橋右京進館跡を取り上げたい。当館跡は鷺ノ森城から西に約1キロほど向かった喜多台地区に残るものである。
【写真左】高橋右京進館跡
広々とした田圃の一画に祠を祀る。
中央の墓石のようなものはおそらく五輪塔形式のものだったのだろう。
【写真左】高橋右京進館跡・藤森神社の配置図
前稿でも述べたように、このあたりも中州状の地勢であったと思われる。
高橋右京進
元亀2年(1571)、妙口剣山城主黒川美濃守と、新居郡金子山城主金子備後守らは、鷲ノ森城主壬生川摂津守を襲撃した。それまでも度々両者は鷺ノ森城を攻めていたが、壬生川摂津守は何とか持ちこたえていたものの、ついに元亀2年の攻撃では落城も時間の問題とみられていた。
【写真左】遠望写真
北側から見たもので、小祠を祀る小屋がポツンと田圃の脇に立つ。
土地改良された関係から当時の面影は殆ど消滅しているが、おそらくこの周囲が館跡・敷地だったのだろう。
時の城主壬生川通国は、安芸の毛利氏と来島城(愛媛県今治市波止浜来島)の来島氏に援軍を要請した。毛利氏側から派遣されたのが、高橋右京進を将とする軍勢であった。戦いは右京進などの活躍もあり、壬生川氏が勝利した。そして、この戦功によって右京進は当地喜多台を与えられ、この地の開発に努めたという。
現在その喜多台という地区の田圃の脇には、高橋右京進館跡が残されている。また、彼がそのころ建立したとされる藤森神社も近くに残っている(後段参照)。
【写真左】石碑
「高橋右京進館跡」と刻銘された石碑が左側に建つ。
この横面には「昭和31年 壬生川史談会」と筆耕された文字が見えるが、もう一つの石碑には「明治27年3月吉日」と記された石碑も建立されている。
従って、代々この地が高橋右京進の館であったと言い伝えられてきたのだろう。
さて、この高橋氏(右京進)は、毛利氏側から派遣された武将だという。また、その時期は元亀2年(1571)であったと記録されている。元亀2年といえば、毛利元就が亡くなった年である。
この前年、元就は長年の宿敵であった出雲月山富田城攻めにおいて、病を押して自ら出陣していたが、9月に病状は悪化し、輝元・小早川隆景を伴い、安芸吉田郡山城へ帰国した。そして、翌2年6月14日、ついに元就は75歳をもって逝去した。一週間後の同月21日、輝元・隆景らが葬儀を取り仕切った。
【写真左】館跡から瓶ヶ森を見る。
北側から見たもので、後背には石鎚山脈の一つ瓶ヶ森(かめがもり:1,897m)が控える。
このように、この年(元亀2年)における毛利氏の動きは、元就の死去ということもあって表立った動きは少ない。
強いて言えば、その後尼子氏との戦いを任された吉川元春が出雲で奮戦し、弟の小早川隆景がこの年の春、備前児島での戦いなどを行っているが、途中で元就危篤の報を聞いた隆景は一旦安芸に戻っている。
そうした状況下での、伊予壬生川氏からの毛利氏に対する支援要請である。支援要請の具体的な時期については記録がないが、どちらにしても毛利氏としては本格的な軍団を派遣する環境下ではなかったと考えられる。
【写真左】館跡から世田山(城)を見る。
北に目を転ずると、今治市との境に聳える世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)が見える。
益田藤兼と毛利氏
このことから、毛利氏側としては、直属の譜代家臣らを伊予に派遣させず、他の一族で毛利氏傘下にあった者に命じた可能性が高い。そこで白羽の矢を立てられたと考えられるのが、石見益田氏である。
【写真左】益田氏の居城・七尾城
弘治3年(1557)4月3日、元就は長門国勝山城にて大内義長を攻め、義長は自害することになり、ここに大内氏が滅ぶことになるが、その直前まで大内方に与していた益田藤兼は、3月23日に至って大内氏から毛利氏へと服属している。
この後、益田藤兼の二男と吉川元春の女子が縁組を行う(永禄10年・1567)など毛利氏一族と益田氏の関係は強くなっていった。
そこで、元就の危篤・逝去という毛利氏にとって重大な局面に対し、益田氏が協力していったことは十分に考えられる。そして、鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)で紹介した高橋氏(庶家)が益田氏の命を受け、伊予に渡ったという可能性も十分想像できる。
ただ、残念ながら毛利氏が益田氏に対し、伊予丹生川氏支援要請をした記録や、益田氏が高橋(地頭)氏と、この件に関して契約したような記録は、『益田家文書』などには残っていない。
藤森神社
右京進が建立したとされる神社である。場所は高橋右京進館跡から南西の方向約300mの地点にあり、境内の前は現在遊園地のような施設が併設されている。
【写真左】藤森神社
右側には「藤森荒魂神社」と銘打った石碑が建ち、安政年間に建立された鳥居が残る。
なお、石碑の裏には総代の名簿が記されており、この中には「高橋姓」の名も見える。
神社の名称が、鷲影神社であれば、上述したように益田氏の家臣であった高橋氏であることがほぼ確実なのだが、残念ながら藤森神社という名称である。
藤森神社として有名なのは、京都市伏見区深草鳥居崎町に所在するものだが、高橋氏との関係は分からない。
【写真左】拝殿
規模は小さいが、当社では「藤まつり カラオケ歌謡際」といったイベントが定期的に行われているようだ。
また、左側の壁には「藤森の歌」という歌詞が掲げられ、「…右京進が庵を建て社をまつる荒魂の昔を語る藤の花…」といった詩が綴られている。
【写真左】本殿
【写真左】奈良原神社
藤森神社境内に合祀された社で、おそらく今治市の楢原山山頂に祀られている楢原(奈良原)神社を勧請したものだろう。
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