滝谷城(たきたにじょう)・しらげか城
(1)滝谷城
●所在地 岡山県高梁市宇治町本郷
●築城期 承久又は貞応年間(1221~23)か
●築城者 滝谷城:赤木太郎忠長
●城主 赤木忠長~忠国
●高さ 480m(比高130m)
●遺構 郭
(2)しらげが城
●所在地 岡山県高梁市宇治町宇治
●備考 白毛ヶ城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 宇治左衛門尉
●高さ 477m(比高120m)
●遺構 郭
◆解説
滝谷城及びしらげか城は、前稿笹尾城(岡山県高梁市宇治町宇治)から南に凡そ800m程隔てた位置に所在している。両城の間を流れるのが島木川で、西側に滝谷城、東側にしらげが城がそれぞれ向い合うように配されている。
【写真左】滝谷城遠望・その1
南麓を流れる島木川の支流対岸から見たもの。
下段の説明板にもあるように、南側は溪谷の様相をなした絶壁で、遠望できる箇所はこの川を挟んだ道路のカーブする地点のみである。
地元の御年輩の御婦人に伺ったところ、昔は東側から登る道もあったが、今はだれも登らず手入れもしていないので、登城は控えた方がいいといわれ、登城は断念した。
赤木氏・滝谷城
赤木氏については、笹尾城や、秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)でも述べているが、詳細は当城の麓に設置された説明板があり、次のように記されている。
【写真左】配置図
北部にある黄金山城から滝谷城までは、4.5キロほど離れている。
“滝谷城 彩りの山里の城跡
滝谷城は標高480mで、麓との標高差は約130m、島木川の西岸にあって、対岸の「しらげが城」との山がいに吹屋往来が通り、そののど首を押さえている位置にある。
【写真左】滝谷城略図
図から判断すると、2,3段の郭で構成された単純な縄張りのようだ。
西側は背後の中野村上長田からは、馬の背程の尾根で連なっているが、東西に長い楕円形でほぼ独立しており、頂上に残る城跡に立てば、南側にほとんど垂直の絶壁で滝谷川の急流が足元を洗って島木川に流れ込んでいる。北も急斜面で深い谷をなし、ただ東斜面のみがやや緩やかでここのみが頂上に登り得る唯一の場所である。
滝谷城を築いたのは、赤木太郎忠長である。松山城主秋庭重信と同じく、承久の乱に鎌倉幕府につき、その功によって信濃国吉田郷田肆段(たしだん)の田肆小池郷の在家二宇(にう)の津から、ここ備中国川上郡穴田郷の地頭として赴任してきた。
【写真左】滝谷城遠望・その2
手前の雑木や葛は南側道路の斜面に生えているもので見えにくいが、川を隔てた対岸に滝谷城の岸壁が見える。
中野村本郷(現・宇治町本郷)に屋敷を構え、この滝谷城を築いて本拠としたのである。当時の支配地ははっきりしないが、およそ次の村々ではなかったであろうか。
すなわち、中野本郷・宇治・丸山・中野大野呂・同小野呂・塩田の旧6カ村に、飯部村の遠原を加えた地域で、時代はずっと下がるが、文久3年(1863)の「備中村鑑」によれば、約3,320石の高になる地域である。
【写真左】滝谷城遠望・その3
【写真左】滝谷城の南麓を走る町道と県道の合流点
中央の道が県道85号線で、この道を奥に向かうと笹尾城に繋がる。
分岐点にある看板は映画「八つ墓村」のロケで使われた「広兼邸」や、「吹屋ふるさと村」への案内板で、左側の道。遠望できるのはこの道になる。
その後忠長より忠国にいたる約300年間には赤木家にも幾度かの省長があったが、忠国の代になるとにわかに戦史に名が見えるようになった。
忠国は初め尼子経久に属していたが、天文9年周防の守護職大内義隆の命を受け、元就の居城郡山城を包囲した尼子晴久の後方陣地を脅かし、その糧道を断って尼子勢を撤退に追い込んだ功労により義隆から感状と太刀を与えられている。
以後、毛利氏の陣営に加わり、備中兵乱には、同じ宇治郷の笹尾城を攻めているし、その後も子忠房とともに輝元の幕下にあって、各地に転戦して武名をとどろかせている。
・宇治地域まちづくり推進委員会” (※赤字:管理人による)
しらげか城
しらげか城は、白毛ヶ城ともいわれ、滝谷城の東方を流れる島木川を挟さんで対岸の位置に所在する標高477mの山に築かれた城砦である。
【写真左】しらげか城遠望
西側(滝谷城側)から見たもので、説明板にもあるように遺構としては、めぼしいものはないようだ。
【写真左】しらげか城略図
主郭とみられる段と、北側に延びた段の2個所が郭のようだが、ほとんど自然地形のもので、当城は臨時的な役割を持った城砦だったと考えられる。
説明板より
“しらげか城 彩りの山里の城跡
この城は敵の大軍に攻められたが、1年にわたって籠城を続けた。
既に糧食も底を突き落城寸前に追い込まれた。このとき城主宇治左衛門尉は、敵の兵糧攻めに対する苦肉の策として、残っている食糧庫の米を全部出させ半分を谷川に流し、残る半分を握り飯にして城壁の上で城兵一同に食べさせた。
これを見た寄せ手は兵糧攻めをあきらめ、囲みを解いて兵を引き上げた。それよりこの城を「しらげか城」と呼ぶようになったという伝説がある。つまり「しらげ」を精白した米という意味でこう名付けたのであろう。
【写真左】説明板と後方のしらげか城
築城年代は不詳で、籠城主の宇治左衛門尉についても異説があるが、宇治町赤木家文書によると、頼宣と名乗り、室は滝谷城主赤木忠国の娘とある。
この忠国が活躍したのは、天文9年頃からで、当時山陰の戦国大名尼子経久は、出雲の月山富田城を本拠とし、山陰のほぼ全域を手中に治め、更に美作から備中に進攻し、松山城主庄為資、矢掛猿掛城主穂井田元祐らもその勢力下にあった。
【写真左】しらげか城遠望
南方の宇治町穴田付近からみたもの。
中央の建物は高梁市立宇治高校の校舎
永正9年(1512)、これまで経久についていた毛利元就は、尼子氏を離れて大内義隆についた。これを怒った経久は、子の晴久を総帥として毛利氏の本拠安芸吉田郡山城を攻めた。このとき大内義隆の呼びかけで備中南部の豪族の石川・清水・上田・秋葉らの将兵が猿掛城を包囲し、中北部の三村家親・野山宮内少輔・赤木忠国らの軍は、元就救援のために備後と出雲境まで進撃し、尼子氏の糧道を断ってその撤退を余儀なくさせた。
この戦いを口火にして尼子と毛利の死闘は25年間続き、永禄9年(1566)籠城1年半の末に月山富田城が落城し、尼子方の決定的な敗北に終わった。この間宇治地方も尼子氏につくか、毛利氏につくかで紛争が絶えることなく、隣接の吹屋村小金山城主吉田六郎兼久は、尼子方で勇気絶倫の勇将であった。
一方忠国は毛利方であったから、この籠城話の内容はさておき、籠城があったのは事実であろうし、時代をこの頃と考えておかしくない。しかも城跡は標高差約120m、宇治盆地の北東寄りで、ほぼ円形の独立した形の険しい山上にあって、山麓を島木川が湾曲して流れ、対岸の滝谷城とともに、吹屋往来ののど首を押さえている絶好の位置にある。山上はそれほど広くなく、人工を加えたらしい跡も見当たらないが、臨時の籠城には地の利を得ているから、大兵を動かさない局地的な戦いには十分これで足りたのであろう。
・宇治地域まちづくり推進委員会”
広兼邸
ところで、上述したように滝谷城から西へ2キロ余り向かったところに、吹屋ふるさと村保存建造物の一つである広兼邸(ひろかねてい)がある。建築されたのは江戸後期の文化10年(1813)で、小泉銅山とベンガラの原料となるローハを製造し、そこから生まれた莫大な富をもって城郭のような建物を残した。
【写真左】広兼邸遠望・その1
住所:岡山県高梁市成羽町中野2710
探訪日 2016年3月12日
この建物を建てたのは大野呂の庄屋であった2代目広兼元治だが、広兼家の先祖も以前取り上げた備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)の西江家と同じく、地元の地侍であったかもしれない。
昭和52年と、平成8年の二度にわたって、映画「八つ墓村」のロケでこの豪邸が使用された。
【写真左】桜門
入口となる門だが、まるで城門のようだ。
【写真左】石垣
石垣だけ見ると、近世城郭となんら遜色ない豪壮な姿を見せている。
(1)滝谷城
●所在地 岡山県高梁市宇治町本郷
●築城期 承久又は貞応年間(1221~23)か
●築城者 滝谷城:赤木太郎忠長
●城主 赤木忠長~忠国
●高さ 480m(比高130m)
●遺構 郭
(2)しらげが城
●所在地 岡山県高梁市宇治町宇治
●備考 白毛ヶ城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 宇治左衛門尉
●高さ 477m(比高120m)
●遺構 郭
◆解説
滝谷城及びしらげか城は、前稿笹尾城(岡山県高梁市宇治町宇治)から南に凡そ800m程隔てた位置に所在している。両城の間を流れるのが島木川で、西側に滝谷城、東側にしらげが城がそれぞれ向い合うように配されている。
南麓を流れる島木川の支流対岸から見たもの。
下段の説明板にもあるように、南側は溪谷の様相をなした絶壁で、遠望できる箇所はこの川を挟んだ道路のカーブする地点のみである。
地元の御年輩の御婦人に伺ったところ、昔は東側から登る道もあったが、今はだれも登らず手入れもしていないので、登城は控えた方がいいといわれ、登城は断念した。
赤木氏・滝谷城
赤木氏については、笹尾城や、秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)でも述べているが、詳細は当城の麓に設置された説明板があり、次のように記されている。
【写真左】配置図
北部にある黄金山城から滝谷城までは、4.5キロほど離れている。
“滝谷城 彩りの山里の城跡
滝谷城は標高480mで、麓との標高差は約130m、島木川の西岸にあって、対岸の「しらげが城」との山がいに吹屋往来が通り、そののど首を押さえている位置にある。
【写真左】滝谷城略図
図から判断すると、2,3段の郭で構成された単純な縄張りのようだ。
西側は背後の中野村上長田からは、馬の背程の尾根で連なっているが、東西に長い楕円形でほぼ独立しており、頂上に残る城跡に立てば、南側にほとんど垂直の絶壁で滝谷川の急流が足元を洗って島木川に流れ込んでいる。北も急斜面で深い谷をなし、ただ東斜面のみがやや緩やかでここのみが頂上に登り得る唯一の場所である。
滝谷城を築いたのは、赤木太郎忠長である。松山城主秋庭重信と同じく、承久の乱に鎌倉幕府につき、その功によって信濃国吉田郷田肆段(たしだん)の田肆小池郷の在家二宇(にう)の津から、ここ備中国川上郡穴田郷の地頭として赴任してきた。
【写真左】滝谷城遠望・その2
手前の雑木や葛は南側道路の斜面に生えているもので見えにくいが、川を隔てた対岸に滝谷城の岸壁が見える。
中野村本郷(現・宇治町本郷)に屋敷を構え、この滝谷城を築いて本拠としたのである。当時の支配地ははっきりしないが、およそ次の村々ではなかったであろうか。
すなわち、中野本郷・宇治・丸山・中野大野呂・同小野呂・塩田の旧6カ村に、飯部村の遠原を加えた地域で、時代はずっと下がるが、文久3年(1863)の「備中村鑑」によれば、約3,320石の高になる地域である。
【写真左】滝谷城遠望・その3
【写真左】滝谷城の南麓を走る町道と県道の合流点
中央の道が県道85号線で、この道を奥に向かうと笹尾城に繋がる。
分岐点にある看板は映画「八つ墓村」のロケで使われた「広兼邸」や、「吹屋ふるさと村」への案内板で、左側の道。遠望できるのはこの道になる。
その後忠長より忠国にいたる約300年間には赤木家にも幾度かの省長があったが、忠国の代になるとにわかに戦史に名が見えるようになった。
忠国は初め尼子経久に属していたが、天文9年周防の守護職大内義隆の命を受け、元就の居城郡山城を包囲した尼子晴久の後方陣地を脅かし、その糧道を断って尼子勢を撤退に追い込んだ功労により義隆から感状と太刀を与えられている。
以後、毛利氏の陣営に加わり、備中兵乱には、同じ宇治郷の笹尾城を攻めているし、その後も子忠房とともに輝元の幕下にあって、各地に転戦して武名をとどろかせている。
・宇治地域まちづくり推進委員会” (※赤字:管理人による)
しらげか城
しらげか城は、白毛ヶ城ともいわれ、滝谷城の東方を流れる島木川を挟さんで対岸の位置に所在する標高477mの山に築かれた城砦である。
【写真左】しらげか城遠望
西側(滝谷城側)から見たもので、説明板にもあるように遺構としては、めぼしいものはないようだ。
【写真左】しらげか城略図
主郭とみられる段と、北側に延びた段の2個所が郭のようだが、ほとんど自然地形のもので、当城は臨時的な役割を持った城砦だったと考えられる。
説明板より
“しらげか城 彩りの山里の城跡
この城は敵の大軍に攻められたが、1年にわたって籠城を続けた。
これを見た寄せ手は兵糧攻めをあきらめ、囲みを解いて兵を引き上げた。それよりこの城を「しらげか城」と呼ぶようになったという伝説がある。つまり「しらげ」を精白した米という意味でこう名付けたのであろう。
築城年代は不詳で、籠城主の宇治左衛門尉についても異説があるが、宇治町赤木家文書によると、頼宣と名乗り、室は滝谷城主赤木忠国の娘とある。
この忠国が活躍したのは、天文9年頃からで、当時山陰の戦国大名尼子経久は、出雲の月山富田城を本拠とし、山陰のほぼ全域を手中に治め、更に美作から備中に進攻し、松山城主庄為資、矢掛猿掛城主穂井田元祐らもその勢力下にあった。
【写真左】しらげか城遠望
南方の宇治町穴田付近からみたもの。
中央の建物は高梁市立宇治高校の校舎
永正9年(1512)、これまで経久についていた毛利元就は、尼子氏を離れて大内義隆についた。これを怒った経久は、子の晴久を総帥として毛利氏の本拠安芸吉田郡山城を攻めた。このとき大内義隆の呼びかけで備中南部の豪族の石川・清水・上田・秋葉らの将兵が猿掛城を包囲し、中北部の三村家親・野山宮内少輔・赤木忠国らの軍は、元就救援のために備後と出雲境まで進撃し、尼子氏の糧道を断ってその撤退を余儀なくさせた。
この戦いを口火にして尼子と毛利の死闘は25年間続き、永禄9年(1566)籠城1年半の末に月山富田城が落城し、尼子方の決定的な敗北に終わった。この間宇治地方も尼子氏につくか、毛利氏につくかで紛争が絶えることなく、隣接の吹屋村小金山城主吉田六郎兼久は、尼子方で勇気絶倫の勇将であった。
一方忠国は毛利方であったから、この籠城話の内容はさておき、籠城があったのは事実であろうし、時代をこの頃と考えておかしくない。しかも城跡は標高差約120m、宇治盆地の北東寄りで、ほぼ円形の独立した形の険しい山上にあって、山麓を島木川が湾曲して流れ、対岸の滝谷城とともに、吹屋往来ののど首を押さえている絶好の位置にある。山上はそれほど広くなく、人工を加えたらしい跡も見当たらないが、臨時の籠城には地の利を得ているから、大兵を動かさない局地的な戦いには十分これで足りたのであろう。
・宇治地域まちづくり推進委員会”
広兼邸
ところで、上述したように滝谷城から西へ2キロ余り向かったところに、吹屋ふるさと村保存建造物の一つである広兼邸(ひろかねてい)がある。建築されたのは江戸後期の文化10年(1813)で、小泉銅山とベンガラの原料となるローハを製造し、そこから生まれた莫大な富をもって城郭のような建物を残した。
【写真左】広兼邸遠望・その1
住所:岡山県高梁市成羽町中野2710
探訪日 2016年3月12日
この建物を建てたのは大野呂の庄屋であった2代目広兼元治だが、広兼家の先祖も以前取り上げた備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)の西江家と同じく、地元の地侍であったかもしれない。
昭和52年と、平成8年の二度にわたって、映画「八つ墓村」のロケでこの豪邸が使用された。
【写真左】桜門
入口となる門だが、まるで城門のようだ。
【写真左】石垣
石垣だけ見ると、近世城郭となんら遜色ない豪壮な姿を見せている。
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