笹尾城(ささおじょう)
●所在地 岡山県高梁市宇治町宇治
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤掃部介
●高さ 382m(比高15m)
●遺構 郭
●備考 五輪塔群
●登城日 2016年3月19日
◆解説
“笹尾城 彩りの山里の城跡
近藤掃部介の居城で、備中兵乱のとき三村方であったため、滝谷城主赤木忠直に攻められ、松山城に撤退したと「川上郡誌」にあるだけである。
【写真左】笹尾城の説明板
西側を走る県道85号線の脇に設置されている。
居城といっても当時は、その屋敷が戦いになれば、若干の防備をして城と呼ばれていたから笹尾城もその跡から見れば、そんなに大きくもないから、平素の居館であったと思って間違いないだろう。なお、一遇に鎌倉中期から室町頃と思われる五輪塔や、宝篋印塔が20基ばかりあり、中には高さ1.5mくらいの比較的大きく美しいものもある。
宇治地域まちづくり推進委員会”
●所在地 岡山県高梁市宇治町宇治
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤掃部介
●高さ 382m(比高15m)
●遺構 郭
●備考 五輪塔群
●登城日 2016年3月19日
◆解説
前稿の黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)から県道85号線を南に下っていくと、開けた谷間が見えてくる。高梁市宇治町という地区である。笹尾城はその宇治町の北方の入口にあたる箇所に築かれている。
現地の説明板“笹尾城 彩りの山里の城跡
近藤掃部介の居城で、備中兵乱のとき三村方であったため、滝谷城主赤木忠直に攻められ、松山城に撤退したと「川上郡誌」にあるだけである。
【写真左】笹尾城の説明板
西側を走る県道85号線の脇に設置されている。
居城といっても当時は、その屋敷が戦いになれば、若干の防備をして城と呼ばれていたから笹尾城もその跡から見れば、そんなに大きくもないから、平素の居館であったと思って間違いないだろう。なお、一遇に鎌倉中期から室町頃と思われる五輪塔や、宝篋印塔が20基ばかりあり、中には高さ1.5mくらいの比較的大きく美しいものもある。
宇治地域まちづくり推進委員会”
近藤氏と赤木氏
笹尾城の城主とされる近藤掃部介については資料がないため、その出自等は分からない。説明板に書かれているように備中兵乱の際、三村方についていたといわれる。
備中兵乱についてはすでに、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の稿で紹介しているので、そちらをご覧いただきたいが、笹尾城の麓を流れる支流は、島木川となって南下し、成羽川に合流した位置に鶴首城があったことから、同兵乱が笹尾城を含めたこの宇治地区でもかなり激しく、また複雑な状況を呈していたものと思われる。
【写真左】笹尾城と周辺の城配置図
現地にある地図を元に、笹尾城の他、赤木氏の滝谷城・しらげか城などを図示したもの。
北方の吹屋には前稿で紹介した黄金山城が所在する。
このほか、この地図の枠外となる南方には丸山城も配置されている。
特に、笹尾城の近藤氏を攻めたとされる滝谷城主赤木氏については、次稿で紹介する予定だが、赤木氏が領有した地区は、この笹尾地区の南隣の本郷地区周辺部に当たり、その支配規模は、笹尾氏のそれにくらべてかなり大きなものであったこと、また後段でも紹介するように、滝谷城と笹尾城の距離がわずか800m足らずであったことなどから、同兵乱前まで近藤氏は赤木氏の被官であったのではないかとも考えられる。
【写真左】笹尾橋
説明板のある個所に駐車スペースがあり、そこに車を置いて、一旦北側に進むと、吹屋側から流れてきた川の橋がある。
これが笹尾橋で、橋を渡り、写真に見える右側の農道を進むと笹尾城にたどり着く。
【写真左】登城口
笹尾城の西麓から南側まで回り込んで行くと、2,3軒の民家があるが、その家と家の間に、笹尾城方面に向かう小道がある。
写真の左角に小さな標識があり、そこに「吹屋往来」という案内板が建っている。往時はこの道が街道だったようだ。
【写真左】笹尾城方面と「吹屋往来」の分岐点
左の道が旧道「吹屋往来」で、ここから右に分岐したのが笹尾城ルート。といってもすぐ目の前に既に笹尾城が見える。
周辺部は笹などが繁茂しているが、このルートだけは刈り取られている。
なお、要図にもあるように周囲はなだらかな斜面で、南側の段は畑になっている。
【写真左】主郭の小堂
主郭にたどり着くと、ご覧の小堂が建てられている。
以前はもう少し北側にあったようだが、現在は南側に建てられている。
棚には地蔵が祀られている。
【写真左】「城主 近藤掃部頭」と書かれた標柱
小堂の中にはご覧のようなものが残っている。おそらく以前は郭段の一画に立ててあったものだろう。
【写真左】主郭の北側
長軸37mの規模で、全体に平滑に仕上がった郭である。
【写真左】瓦片
北側には瓦片が残る。周りをよく見ると石積段の痕跡があるので、最初に祀られていた小堂跡だろう。
【写真左】五輪塔群・その1
南東隅に残るもので、20基余りの数に及ぶ。
【写真左】五輪塔群・その2
殆ど五輪塔形式のものが多いが、一部宝篋印塔のものもある。
【写真左】笹尾城主・近藤氏を攻めた赤木氏の居城・滝谷城方面を見る。
この写真のほぼ中央部に見える山の後に所在している。
笹尾城から滝谷城までの距離は直線距離でわずか780mほどで、指呼の間である。
なお、赤木氏については次稿で取り上げたい。
笹尾城の城主とされる近藤掃部介については資料がないため、その出自等は分からない。説明板に書かれているように備中兵乱の際、三村方についていたといわれる。
備中兵乱についてはすでに、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の稿で紹介しているので、そちらをご覧いただきたいが、笹尾城の麓を流れる支流は、島木川となって南下し、成羽川に合流した位置に鶴首城があったことから、同兵乱が笹尾城を含めたこの宇治地区でもかなり激しく、また複雑な状況を呈していたものと思われる。
現地にある地図を元に、笹尾城の他、赤木氏の滝谷城・しらげか城などを図示したもの。
北方の吹屋には前稿で紹介した黄金山城が所在する。
このほか、この地図の枠外となる南方には丸山城も配置されている。
特に、笹尾城の近藤氏を攻めたとされる滝谷城主赤木氏については、次稿で紹介する予定だが、赤木氏が領有した地区は、この笹尾地区の南隣の本郷地区周辺部に当たり、その支配規模は、笹尾氏のそれにくらべてかなり大きなものであったこと、また後段でも紹介するように、滝谷城と笹尾城の距離がわずか800m足らずであったことなどから、同兵乱前まで近藤氏は赤木氏の被官であったのではないかとも考えられる。
【写真左】笹尾橋
説明板のある個所に駐車スペースがあり、そこに車を置いて、一旦北側に進むと、吹屋側から流れてきた川の橋がある。
これが笹尾橋で、橋を渡り、写真に見える右側の農道を進むと笹尾城にたどり着く。
【写真左】登城口
笹尾城の西麓から南側まで回り込んで行くと、2,3軒の民家があるが、その家と家の間に、笹尾城方面に向かう小道がある。
写真の左角に小さな標識があり、そこに「吹屋往来」という案内板が建っている。往時はこの道が街道だったようだ。
【写真左】笹尾城方面と「吹屋往来」の分岐点
左の道が旧道「吹屋往来」で、ここから右に分岐したのが笹尾城ルート。といってもすぐ目の前に既に笹尾城が見える。
【写真左】要図
南北長径37m×東西幅22mの規模で、堀切などはないが、西側の川と、東側にも小川が流れているので、これらが濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】主郭へ向かう。周辺部は笹などが繁茂しているが、このルートだけは刈り取られている。
なお、要図にもあるように周囲はなだらかな斜面で、南側の段は畑になっている。
【写真左】主郭の小堂
主郭にたどり着くと、ご覧の小堂が建てられている。
以前はもう少し北側にあったようだが、現在は南側に建てられている。
棚には地蔵が祀られている。
【写真左】「城主 近藤掃部頭」と書かれた標柱
小堂の中にはご覧のようなものが残っている。おそらく以前は郭段の一画に立ててあったものだろう。
【写真左】主郭の北側
長軸37mの規模で、全体に平滑に仕上がった郭である。
【写真左】瓦片
北側には瓦片が残る。周りをよく見ると石積段の痕跡があるので、最初に祀られていた小堂跡だろう。
【写真左】五輪塔群・その1
南東隅に残るもので、20基余りの数に及ぶ。
【写真左】五輪塔群・その2
殆ど五輪塔形式のものが多いが、一部宝篋印塔のものもある。
【写真左】笹尾城主・近藤氏を攻めた赤木氏の居城・滝谷城方面を見る。
この写真のほぼ中央部に見える山の後に所在している。
笹尾城から滝谷城までの距離は直線距離でわずか780mほどで、指呼の間である。
なお、赤木氏については次稿で取り上げたい。
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