鷺ノ森城(さぎのもりじょう)
●所在地 愛媛県西条市壬生川町三津屋
●別名 鷺の森城
●築城期 応永元年(1394)
●築城者 桑原河内守通興(河野通之)
●城主 壬生川氏(桑原氏)・壬生川通国・三郎兵衛
●形態 平城(海城)
●高さ 海抜3m
●遺構 濠・土塁
●備考 鷺森神社
●登城日 2016年2月21日
◆解説(参考資料 『日本城郭体系第16巻』、『愛媛県の歴史』山川出版社、HP『レファレンス協同データベース』『城郭放浪記』その他)
鷺の森城は燧灘(瀬戸内海)に面した現在の西条市壬生川(にゅうがわ)町にあり、西側には国道196線やJR予讃線が走っている。
室町時代に築かれたという鷺の森城は、当時海に面していた城郭で、現在でも比高3mという場所に所在している。
【写真左】鷺ノ森城
現地は鷺ノ森神社となっており、入口には鳥居が建立されているが、その左側の石碑に「鷺森城跡」と刻銘された石碑が立つ。
【写真左】鷺の森城・大曲砦等配置図
現在、鷺の森城を含めた西条市壬生川付近は、殆ど干陸化された街並みを形成しているが、中世のころは左図のような不揃いな河川が流下し、中洲状の地勢であったと考えられる。
また、燧灘海岸部における干満差は3m前後であったことから、後段で示す大曲川の中流部・大曲砦辺りまで、満潮時は海であったと推察され、このことから、当時(中世)の戦は、いわゆる船戦さ(ふないくさ)の形態が多かったのではないかと思われる。
応永元年(1394)、伊予国の守護職であった河野通之が、家臣であった桑原通興に命じて鷺の森に土居構えの城を築いたという(『東予市誌(東予市刊 1987)』)。
河野氏惣領家と予州家の争い
応永年間というのは、室町幕府将軍・足利義満が将軍職を辞任し出家する(応永2年:1395)ころだが、実際には義満がこれ以降がもっとも大きな力を誇示する時期でもある。
【写真左】北側から見た鷺の森城
手前の船着場のような水路は、当城が築城された当時は、南側を流れる大曲川の支流と考えられ、南北両川が濠の役目をしていたものと推察される。
なお、左側に見える水門の先には、鷺の森城の東側に残る濠が繋がっている(下段の写真参照)。
さて、この当時伊予国の守護職は、湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)を本拠とする河野氏惣領家で、通之の兄・通義である。彼もまた前稿鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)でも紹介した石見益田氏と同じく、室町幕府のいわば外様守護的立場であったため、明徳の乱など、各地で勃発した騒乱鎮圧があるたびに幕府の命を受け、出兵を繰り返していた。
【写真左】東側の濠跡
上記水門に繋がる濠跡で、探訪したこの時間は干潮時だったようで、底が露出していた。
右側が鷺の森城。
【写真左】南側の濠跡
この状況から判断すると、当城の海抜は3m前後になるだろう。
右側が鷺の森城。
河野氏がこのような任務に就かざるを得なかったのは、隣国の讃岐国を治めていた足利一門の細川氏が、次第に東予区域まで侵攻し出し、それを食い止める方策の一つとして、河野氏が幕府に働きかけをしていくのだが、その代償としてのものだった。
《河野氏系図》
(惣領家) 通義 → 通久 → 教通(通直)
通堯(通直) ⇒
(予州家) 通之 → 通元 → 通春
しかし、応永元年(1394)、その通義はついに病魔に侵されてしまった。『予章記』によれば、死に際に弟で河野氏予州家の通之に家督を譲ることを決意、その際その頃懐妊中だった通義の妻が男子を産んだならば、その子が成人するまで後見し、以後はその子に家督を相続させるように言い残した。通義亡き後産まれたのは通久である。
通之は兄の遺言通り、惣領家の嫡男通久が応永13年(1406)に元服すると、家督を通久に譲り、その報告と承認を兼ねて上洛を果たした。
【写真左】鷺の森神社の楠
境内にはご覧のような楠の大木が植わっている。
西条市指定文化財・天然記念物で、樹高約25m、胸高幹周6.1m、樹齢600年余りといわれているので、鷺の森城築城後間もない頃に植えられたものだろう。
しかし、その後、通之とその子・通元の父子(予州家)は、惣領家通久に敵対するようになる。
いわば分家が本家に敵対した形で、具体的な理由は記録に残っていないが、そもそも通之・通元といったこの名前から推察するに、細川氏からの偏諱(細川頼之・頼元)による可能性が高く、予州家が細川氏に与同していったことを示すものだろう。
【写真左】鷺の森神社本殿
現在も氏子の皆さんによって定期的に祭礼が行われているようだ。
ところで、河野氏の宗家、すなわち惣領家は前述したように、その頃本拠地を湯築城に置き、通之ら予州家の本拠地は、現在の伊予灘に面した三津浜(湊山城)周辺で、おそらく水軍領主としての側面も持っていたものと思われる。
この後、惣領家と予州家の争いは、次の代の教通と通春まで続き、このため同国内における河野氏の分国支配体制は確立できないまま、戦国時代を迎えることになる。
戦国期
戦国期の享禄年間から天正年間のころになると、鷺の森城は金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)の金子元宅や、小松町妙口の剣山城主黒川氏などから度々攻撃を受けた。特に、元亀2年(1571)には、金子・黒川の両陣営による猛攻撃を受け、落城の危機に瀕した。
このとき、鷺ノ森城主であった壬生川通国は、中国の毛利氏と来島城(愛媛県今治市波止浜来島)の来島氏に救援を求めた。これに対し、毛利氏は家臣の高橋右京進を将とする軍勢を派遣させ、落城は免れたという。なお、壬生川氏は、桑原通興が当城に入ったのち、当地名であった壬生川を姓とし、桑原から壬生川に改姓している。
【写真左】大曲砦
所在地:西条市周布(しゅう)
大曲砦は鷺の森城の南側を流れる大曲川を約1キロほど登ったところにあり、住宅と田圃の脇に残るが、下の写真にもあるように、この砦も河川もしくは海を介した中州にあったものと思われる。
【写真左】大曲峠遠望
北側から見たもので、砦跡には古木が植わり、明治時代にはこの場所が小社であったことが別の石碑に記されている。
しかし、その3年後の天正2年(1574)、鷺ノ森城主・壬生川摂津守通光は、再び剣山城主黒川対馬守と戦い、城を出て大曲砦(写真参照)に陣を敷いたが、黒川勢が優位に立ち、摂津守は砦を出て、大曲橋を渡り、円海寺に入ろうとしたとき、黒川方の久米道清、首藤金世の両名に討たれた。
【写真左】近くを流れる大曲川
大曲砦の付近で川は分岐し、写真の川が砦を囲むような配置になる。
大曲砦はこの右の住宅の隣に位置している。
壬生川摂津守の墓
大曲砦の脇を走る道路を北に進むと、円海寺地区に入るが、この場所に壬生川摂津守の墓が祀られている。
この場所も田圃の脇にあって、写真のように墓と併せ小宮も併設されている。
【写真左】壬生川摂津守の墓遠望
所在地:西条市円海寺
大曲砦から北西約1キロ隔てたところにあって、この近くには地区名である円海寺に因んだ円海庵という寺院が所在する。また、この場所のほぼ真上を今治小松自動車道が走っている。
写真は、北側から見たもので、コンクリート製の塀で囲み、緑色のテント式屋根が設置されている。
【写真左】摂津守の墓・その1
熱心な地元信者の方々によって、綺麗な花が添えてある。おそらく毎日参拝されているのだろう。
なお、この中には椅子やテーブルなどが常設されており、四国八十八ヶ所の遍路さんたちの休憩所も兼ねているのかもしれない。
【写真左】摂津守の墓・その2
上の写真のように祭壇には多くの花・供物があるため、正面からは墓石が見えない。このため、裏に回って五輪塔を撮った。
なお、元亀2年に応援に駆け付けた高橋右京進については、次稿で紹介することにしたい。
●所在地 愛媛県西条市壬生川町三津屋
●別名 鷺の森城
●築城期 応永元年(1394)
●築城者 桑原河内守通興(河野通之)
●城主 壬生川氏(桑原氏)・壬生川通国・三郎兵衛
●形態 平城(海城)
●高さ 海抜3m
●遺構 濠・土塁
●備考 鷺森神社
●登城日 2016年2月21日
◆解説(参考資料 『日本城郭体系第16巻』、『愛媛県の歴史』山川出版社、HP『レファレンス協同データベース』『城郭放浪記』その他)
鷺の森城は燧灘(瀬戸内海)に面した現在の西条市壬生川(にゅうがわ)町にあり、西側には国道196線やJR予讃線が走っている。
室町時代に築かれたという鷺の森城は、当時海に面していた城郭で、現在でも比高3mという場所に所在している。
現地は鷺ノ森神社となっており、入口には鳥居が建立されているが、その左側の石碑に「鷺森城跡」と刻銘された石碑が立つ。
【写真左】鷺の森城・大曲砦等配置図
現在、鷺の森城を含めた西条市壬生川付近は、殆ど干陸化された街並みを形成しているが、中世のころは左図のような不揃いな河川が流下し、中洲状の地勢であったと考えられる。
また、燧灘海岸部における干満差は3m前後であったことから、後段で示す大曲川の中流部・大曲砦辺りまで、満潮時は海であったと推察され、このことから、当時(中世)の戦は、いわゆる船戦さ(ふないくさ)の形態が多かったのではないかと思われる。
応永元年(1394)、伊予国の守護職であった河野通之が、家臣であった桑原通興に命じて鷺の森に土居構えの城を築いたという(『東予市誌(東予市刊 1987)』)。
河野氏惣領家と予州家の争い
応永年間というのは、室町幕府将軍・足利義満が将軍職を辞任し出家する(応永2年:1395)ころだが、実際には義満がこれ以降がもっとも大きな力を誇示する時期でもある。
【写真左】北側から見た鷺の森城
手前の船着場のような水路は、当城が築城された当時は、南側を流れる大曲川の支流と考えられ、南北両川が濠の役目をしていたものと推察される。
なお、左側に見える水門の先には、鷺の森城の東側に残る濠が繋がっている(下段の写真参照)。
さて、この当時伊予国の守護職は、湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)を本拠とする河野氏惣領家で、通之の兄・通義である。彼もまた前稿鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)でも紹介した石見益田氏と同じく、室町幕府のいわば外様守護的立場であったため、明徳の乱など、各地で勃発した騒乱鎮圧があるたびに幕府の命を受け、出兵を繰り返していた。
【写真左】東側の濠跡
上記水門に繋がる濠跡で、探訪したこの時間は干潮時だったようで、底が露出していた。
右側が鷺の森城。
【写真左】南側の濠跡
この状況から判断すると、当城の海抜は3m前後になるだろう。
右側が鷺の森城。
河野氏がこのような任務に就かざるを得なかったのは、隣国の讃岐国を治めていた足利一門の細川氏が、次第に東予区域まで侵攻し出し、それを食い止める方策の一つとして、河野氏が幕府に働きかけをしていくのだが、その代償としてのものだった。
《河野氏系図》
(惣領家) 通義 → 通久 → 教通(通直)
通堯(通直) ⇒
(予州家) 通之 → 通元 → 通春
しかし、応永元年(1394)、その通義はついに病魔に侵されてしまった。『予章記』によれば、死に際に弟で河野氏予州家の通之に家督を譲ることを決意、その際その頃懐妊中だった通義の妻が男子を産んだならば、その子が成人するまで後見し、以後はその子に家督を相続させるように言い残した。通義亡き後産まれたのは通久である。
通之は兄の遺言通り、惣領家の嫡男通久が応永13年(1406)に元服すると、家督を通久に譲り、その報告と承認を兼ねて上洛を果たした。
【写真左】鷺の森神社の楠
境内にはご覧のような楠の大木が植わっている。
西条市指定文化財・天然記念物で、樹高約25m、胸高幹周6.1m、樹齢600年余りといわれているので、鷺の森城築城後間もない頃に植えられたものだろう。
しかし、その後、通之とその子・通元の父子(予州家)は、惣領家通久に敵対するようになる。
いわば分家が本家に敵対した形で、具体的な理由は記録に残っていないが、そもそも通之・通元といったこの名前から推察するに、細川氏からの偏諱(細川頼之・頼元)による可能性が高く、予州家が細川氏に与同していったことを示すものだろう。
【写真左】鷺の森神社本殿
現在も氏子の皆さんによって定期的に祭礼が行われているようだ。
ところで、河野氏の宗家、すなわち惣領家は前述したように、その頃本拠地を湯築城に置き、通之ら予州家の本拠地は、現在の伊予灘に面した三津浜(湊山城)周辺で、おそらく水軍領主としての側面も持っていたものと思われる。
この後、惣領家と予州家の争いは、次の代の教通と通春まで続き、このため同国内における河野氏の分国支配体制は確立できないまま、戦国時代を迎えることになる。
戦国期
戦国期の享禄年間から天正年間のころになると、鷺の森城は金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)の金子元宅や、小松町妙口の剣山城主黒川氏などから度々攻撃を受けた。特に、元亀2年(1571)には、金子・黒川の両陣営による猛攻撃を受け、落城の危機に瀕した。
このとき、鷺ノ森城主であった壬生川通国は、中国の毛利氏と来島城(愛媛県今治市波止浜来島)の来島氏に救援を求めた。これに対し、毛利氏は家臣の高橋右京進を将とする軍勢を派遣させ、落城は免れたという。なお、壬生川氏は、桑原通興が当城に入ったのち、当地名であった壬生川を姓とし、桑原から壬生川に改姓している。
【写真左】大曲砦
所在地:西条市周布(しゅう)
大曲砦は鷺の森城の南側を流れる大曲川を約1キロほど登ったところにあり、住宅と田圃の脇に残るが、下の写真にもあるように、この砦も河川もしくは海を介した中州にあったものと思われる。
【写真左】大曲峠遠望
北側から見たもので、砦跡には古木が植わり、明治時代にはこの場所が小社であったことが別の石碑に記されている。
しかし、その3年後の天正2年(1574)、鷺ノ森城主・壬生川摂津守通光は、再び剣山城主黒川対馬守と戦い、城を出て大曲砦(写真参照)に陣を敷いたが、黒川勢が優位に立ち、摂津守は砦を出て、大曲橋を渡り、円海寺に入ろうとしたとき、黒川方の久米道清、首藤金世の両名に討たれた。
大曲砦の付近で川は分岐し、写真の川が砦を囲むような配置になる。
大曲砦はこの右の住宅の隣に位置している。
壬生川摂津守の墓
大曲砦の脇を走る道路を北に進むと、円海寺地区に入るが、この場所に壬生川摂津守の墓が祀られている。
この場所も田圃の脇にあって、写真のように墓と併せ小宮も併設されている。
【写真左】壬生川摂津守の墓遠望
所在地:西条市円海寺
大曲砦から北西約1キロ隔てたところにあって、この近くには地区名である円海寺に因んだ円海庵という寺院が所在する。また、この場所のほぼ真上を今治小松自動車道が走っている。
写真は、北側から見たもので、コンクリート製の塀で囲み、緑色のテント式屋根が設置されている。
【写真左】摂津守の墓・その1
熱心な地元信者の方々によって、綺麗な花が添えてある。おそらく毎日参拝されているのだろう。
なお、この中には椅子やテーブルなどが常設されており、四国八十八ヶ所の遍路さんたちの休憩所も兼ねているのかもしれない。
【写真左】摂津守の墓・その2
上の写真のように祭壇には多くの花・供物があるため、正面からは墓石が見えない。このため、裏に回って五輪塔を撮った。
なお、元亀2年に応援に駆け付けた高橋右京進については、次稿で紹介することにしたい。
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