高杉城(たかすぎじょう)
●所在地 広島県三次市高杉町
●別名 杉山城・祝城・祝要害
●築城期 観応年間(1350~52)
●築城者 祝新左衛門尉氏正
●形態 沼城
●遺構 土塁・空堀
●高さ 標高170m(比高5m)
●指定 広島県指定史跡
●登城日 2008年5月28日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
三次市高杉町に所在する城砦だが、山城というより館跡といった形態のものである。所在地は馬洗川と国道375号線の間にあって、小丘部の南東麓にあり、その前には広々とした田園が広がる。
【写真左】高杉城近景
一見すると、どこにもあるような神社の様相である。
現地の説明板より
“高杉城跡
戦国時代の三次盆地は、山陰側の尼子氏と山陽側の大内氏・毛利氏が激しく抗争した地です。その中で、この地方の武将である三吉氏・和智氏・江田氏はどちらの勢力につくか不安定な日々でした。
天文22年(1553)、尼子氏に味方した江田氏は毛利元就の攻撃を受けます。江田氏の支城であった高杉城には、城主祝甲斐守・治部大輔を中心に約1,000人が籠城していました。
この時代には、城はほとんど山頂に築かれていましたが、知波夜比古神社の神職を兼ねる祝氏は、神社を中心にこの丘を三重の空堀と土塁で囲み、城としたのです。
【写真左】高杉城要図
図のように左側(西側)に土塁と堀が図示されている。
7月23日、この城の東北(塩町)から毛利元就・隆元の軍勢、西から吉川元春の兵士が攻めかかります。
軍記の「陰徳記」には、その時の様子を「城兵、矢間を開き散々に射る。寄手(毛利軍)三重の空堀を超え、一度にどっと塀につくところを城中の兵とも鑓・長刀をもって突き落とし」として激しく抵抗するが、そのうち「粟屋弥七郎唯一少しも引かず、当城一番乗りと名乗り塀際の榎に取りつき、曳(えい)やっと声をかけて」攻め、ついに毛利全軍が突入し、逃げる兵士を討ち取ったのです。
軍記には、討ち取られた首が約600とあり、ほぼ全滅の状態でした。城跡の南の山際には、この時討死した城主祝氏を供養した宝篋印塔があります。
三次市
三次市教育委員会”
江田氏
江田氏については、先月投稿の「三良坂・福山城」の項でも示した通り、和智氏の庶流で、和智実村の子・実綱が三谷西方の南部江田荘(江戸時代の向江田村及び、美波羅川流域の合計15ヶ村の地域)を相続したときに始まる。
【写真左】高杉城の石碑
高杉城の落城
説明板にもあるように、当城が落城したのは天文22年であるが、尼子方に属するきっかけとなったのは、天文20年(1551)9月、大内義隆が陶晴賢によって殺害されたことによる。それまで大内方にあったが、義隆が亡くなったことによって、江田氏は尼子氏に与することを選んだ。
高杉城落城が落城する2か月前の、5月3日、毛利元就は川西の備後・旗返山城(広島県三次市三若町)の江田隆通を破っている。江田隆通は元々大内家の家臣であったが、山内隆通とともに天文21年、尼子氏に従っていた。隆通は落城後、甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の山内氏を頼って奔走した。
そして、同月20日になると尼子晴久が送った兵を、毛利元就は備後国「萩瀬」に破ったとある(「新裁軍記」)。この萩瀬という地名は管理人の知る限り、現在備後国(広島県)に見えないため、当時あった旧地名と思われるが、恐らく尼子氏は美作や備中国に転戦していた足で、そのまま西方の備後国に向かったことから、現在の三次市の東方、もしくは庄原市区域あたりだろう。
【写真左】式内社の知波夜比古神社本殿
境内中央奥に建立されている。
高杉城に籠城した人数は説明板によると、約1,000人とある。『日本城郭大系第13巻』によれば、祝甲斐守・同長門守を将として、宗徒200余騎並びに、久代修理亮の加勢100騎、その他雑兵ら合わせて750余騎が立て篭もり、とある。
現在の高杉城をみると、この小規模な城館に1,000人もの兵が入るのは少し無理があるだろう。
取り囲んだ毛利方の面々は、総帥毛利をはじめ、吉川・平賀・宍戸・熊谷・天野・香川の諸氏で、総勢6,000余騎とある。
戦いのあと、祝父子をはじめとする首級が600とされているので、ほとんど全滅である。3年後の弘治2年(1556)、三吉致高は神像を祀り、焼失した神社を修復したといわれる。
【写真左】本殿脇付近
境内はほぼ正方形(40m四方か)で、思った以上に広々としている。
【写真左】境内外周部
恐らく土塁跡と思われるが、明確には残っていない。
当時は恐らく全周囲に土塁と濠を配置していたのだろう。
●所在地 広島県三次市高杉町
●別名 杉山城・祝城・祝要害
●築城期 観応年間(1350~52)
●築城者 祝新左衛門尉氏正
●形態 沼城
●遺構 土塁・空堀
●高さ 標高170m(比高5m)
●指定 広島県指定史跡
●登城日 2008年5月28日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
三次市高杉町に所在する城砦だが、山城というより館跡といった形態のものである。所在地は馬洗川と国道375号線の間にあって、小丘部の南東麓にあり、その前には広々とした田園が広がる。
【写真左】高杉城近景
一見すると、どこにもあるような神社の様相である。
現地の説明板より
“高杉城跡
戦国時代の三次盆地は、山陰側の尼子氏と山陽側の大内氏・毛利氏が激しく抗争した地です。その中で、この地方の武将である三吉氏・和智氏・江田氏はどちらの勢力につくか不安定な日々でした。
天文22年(1553)、尼子氏に味方した江田氏は毛利元就の攻撃を受けます。江田氏の支城であった高杉城には、城主祝甲斐守・治部大輔を中心に約1,000人が籠城していました。
この時代には、城はほとんど山頂に築かれていましたが、知波夜比古神社の神職を兼ねる祝氏は、神社を中心にこの丘を三重の空堀と土塁で囲み、城としたのです。
【写真左】高杉城要図
図のように左側(西側)に土塁と堀が図示されている。
7月23日、この城の東北(塩町)から毛利元就・隆元の軍勢、西から吉川元春の兵士が攻めかかります。
軍記の「陰徳記」には、その時の様子を「城兵、矢間を開き散々に射る。寄手(毛利軍)三重の空堀を超え、一度にどっと塀につくところを城中の兵とも鑓・長刀をもって突き落とし」として激しく抵抗するが、そのうち「粟屋弥七郎唯一少しも引かず、当城一番乗りと名乗り塀際の榎に取りつき、曳(えい)やっと声をかけて」攻め、ついに毛利全軍が突入し、逃げる兵士を討ち取ったのです。
軍記には、討ち取られた首が約600とあり、ほぼ全滅の状態でした。城跡の南の山際には、この時討死した城主祝氏を供養した宝篋印塔があります。
三次市
三次市教育委員会”
江田氏
江田氏については、先月投稿の「三良坂・福山城」の項でも示した通り、和智氏の庶流で、和智実村の子・実綱が三谷西方の南部江田荘(江戸時代の向江田村及び、美波羅川流域の合計15ヶ村の地域)を相続したときに始まる。
【写真左】高杉城の石碑
高杉城の落城
説明板にもあるように、当城が落城したのは天文22年であるが、尼子方に属するきっかけとなったのは、天文20年(1551)9月、大内義隆が陶晴賢によって殺害されたことによる。それまで大内方にあったが、義隆が亡くなったことによって、江田氏は尼子氏に与することを選んだ。
高杉城落城が落城する2か月前の、5月3日、毛利元就は川西の備後・旗返山城(広島県三次市三若町)の江田隆通を破っている。江田隆通は元々大内家の家臣であったが、山内隆通とともに天文21年、尼子氏に従っていた。隆通は落城後、甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の山内氏を頼って奔走した。
そして、同月20日になると尼子晴久が送った兵を、毛利元就は備後国「萩瀬」に破ったとある(「新裁軍記」)。この萩瀬という地名は管理人の知る限り、現在備後国(広島県)に見えないため、当時あった旧地名と思われるが、恐らく尼子氏は美作や備中国に転戦していた足で、そのまま西方の備後国に向かったことから、現在の三次市の東方、もしくは庄原市区域あたりだろう。
【写真左】式内社の知波夜比古神社本殿
境内中央奥に建立されている。
高杉城に籠城した人数は説明板によると、約1,000人とある。『日本城郭大系第13巻』によれば、祝甲斐守・同長門守を将として、宗徒200余騎並びに、久代修理亮の加勢100騎、その他雑兵ら合わせて750余騎が立て篭もり、とある。
現在の高杉城をみると、この小規模な城館に1,000人もの兵が入るのは少し無理があるだろう。
取り囲んだ毛利方の面々は、総帥毛利をはじめ、吉川・平賀・宍戸・熊谷・天野・香川の諸氏で、総勢6,000余騎とある。
戦いのあと、祝父子をはじめとする首級が600とされているので、ほとんど全滅である。3年後の弘治2年(1556)、三吉致高は神像を祀り、焼失した神社を修復したといわれる。
【写真左】本殿脇付近
境内はほぼ正方形(40m四方か)で、思った以上に広々としている。
【写真左】境内外周部
恐らく土塁跡と思われるが、明確には残っていない。
当時は恐らく全周囲に土塁と濠を配置していたのだろう。
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