新宮城(しんぐうじょう)
●所在地 広島県三次市志幸町
●別名 志幸山城・新宮山城
●形態 丘城(館跡か)
●築城期 天文年間(1532~55)
●築城者 新宮左衛門(甲斐守)
●高さ 比高5~15m
●遺構 郭・土塁・竪堀
●登城日 2007年12月26日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
前稿「高杉城」の位置から馬洗川を2キロ余り遡った福塩線沿いに築城された城砦である。
【写真左】新宮城近景
北側の国道184号線沿いからみたもので、規模は南北に長く70m×40m程度の小規模な城砦である。
現地の説明板より
“新宮城跡
山城というより館として構築されたと思われます。城主は新宮左衛門・新宮甲斐守といわれています。
尼子氏と大内・毛利氏が激しい戦いを繰り返していた戦国時代、特に両勢力の激突地である三次盆地は、熾烈な状況におかれていました。常に両氏の動向に目を向けながら去就の定まらない日々であったでしょう。
天文22年(1553)4月に新宮氏の属する旗返山城(三次市三若町)主の江田隆連は、尼子氏に味方する甲山城(庄原市本郷町)の山内氏の誘いで、毛利氏を裏切って兵を挙げました。
知らせを受けた毛利元就は、早くも3日後には江田氏と同族の和智氏を押さえるために、両氏の境である三良坂町寄国に進軍し、江田軍を撃破しています。その後、毛利軍は口和町でも尼子軍と戦っていますが、本格的な合戦となったのは、7月の高杉城での戦いで約600人の兵を討ち取るという激しい仕打ちでした。
当然、この新宮城にも毛利軍が押し寄せてきたと思われますが、戦いの詳しい様子は不明です。この戦いで討ち取った兵士の鼻・首・耳を葬った塚で、水田に残るのは鼻塚と伝えられています。また、城主の新宮甲斐守は落城後、三良坂町長田まで逃れ、そこで自殺したと伝えられています。
三次市
三次市教育委員会”
【写真左】新宮城案内図
城域のうち、北側の一部はJR福塩線が敷設されたため、消失しているが、主要な部分は残されている(下図参照)。
【写真左】縄張図
小丘部に造られた城砦で、山城としての機能よりも館跡として、土塁などが残る。
【写真左】鼻塚
北東麓に建立されている。
【写真左】南側から見る
登城進入が可能なのは、南側の道路からで、途中までは雑草が刈ってあるが、奥に向うに従って藪こぎ状態となっていた。
【写真左】入口付近に立つ標柱
「高杉城の支城 新宮甲斐守の居所(後期山城型式)」と銘文されている。
なお、左奥には写真にもあるように、個人の墓地もある。
【写真左】土塁
ほぼ全周にわたって土塁状の高まりがある。この写真は西側のもの。
【写真左】土塁と切崖
主として北面に認められる形状で、土塁を持たせた後、外周には、低い比高の割には角度のある切崖が取巻いている。
【写真左】墓石か
奥の方に見えたもので、五輪塔の一部にも見えるが、供養の意味を込めたものだろう。
【写真左】八幡神社
新宮城より東へ約200m程むかったところに祀られている社で、当社を祀る小丘は新宮城のそれより2倍程度の大きさを持つ。
探訪したとき、最初にこの小丘が新宮城と勘違いしてしまった。
当社の縁起によれば、元亀2年(1569)、双三郡辻村(現吉舎町辻)より、八幡神社建立の勧進があり、天和2年(1616)8月社殿完成、明和4年(1767)8月に拝殿を建立した、とある。
祭神は、呂陀和気命外十二柱神を奉斎している。
新宮城が落城した後、吉舎町辻からの勧進があったということから、おそらく和智氏一族によるものだろう。
●所在地 広島県三次市志幸町
●別名 志幸山城・新宮山城
●形態 丘城(館跡か)
●築城期 天文年間(1532~55)
●築城者 新宮左衛門(甲斐守)
●高さ 比高5~15m
●遺構 郭・土塁・竪堀
●登城日 2007年12月26日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
前稿「高杉城」の位置から馬洗川を2キロ余り遡った福塩線沿いに築城された城砦である。
【写真左】新宮城近景
北側の国道184号線沿いからみたもので、規模は南北に長く70m×40m程度の小規模な城砦である。
現地の説明板より
“新宮城跡
山城というより館として構築されたと思われます。城主は新宮左衛門・新宮甲斐守といわれています。
尼子氏と大内・毛利氏が激しい戦いを繰り返していた戦国時代、特に両勢力の激突地である三次盆地は、熾烈な状況におかれていました。常に両氏の動向に目を向けながら去就の定まらない日々であったでしょう。
天文22年(1553)4月に新宮氏の属する旗返山城(三次市三若町)主の江田隆連は、尼子氏に味方する甲山城(庄原市本郷町)の山内氏の誘いで、毛利氏を裏切って兵を挙げました。
知らせを受けた毛利元就は、早くも3日後には江田氏と同族の和智氏を押さえるために、両氏の境である三良坂町寄国に進軍し、江田軍を撃破しています。その後、毛利軍は口和町でも尼子軍と戦っていますが、本格的な合戦となったのは、7月の高杉城での戦いで約600人の兵を討ち取るという激しい仕打ちでした。
当然、この新宮城にも毛利軍が押し寄せてきたと思われますが、戦いの詳しい様子は不明です。この戦いで討ち取った兵士の鼻・首・耳を葬った塚で、水田に残るのは鼻塚と伝えられています。また、城主の新宮甲斐守は落城後、三良坂町長田まで逃れ、そこで自殺したと伝えられています。
三次市
三次市教育委員会”
【写真左】新宮城案内図
城域のうち、北側の一部はJR福塩線が敷設されたため、消失しているが、主要な部分は残されている(下図参照)。
【写真左】縄張図
小丘部に造られた城砦で、山城としての機能よりも館跡として、土塁などが残る。
【写真左】鼻塚
北東麓に建立されている。
【写真左】南側から見る
登城進入が可能なのは、南側の道路からで、途中までは雑草が刈ってあるが、奥に向うに従って藪こぎ状態となっていた。
【写真左】入口付近に立つ標柱
「高杉城の支城 新宮甲斐守の居所(後期山城型式)」と銘文されている。
なお、左奥には写真にもあるように、個人の墓地もある。
【写真左】土塁
ほぼ全周にわたって土塁状の高まりがある。この写真は西側のもの。
【写真左】土塁と切崖
主として北面に認められる形状で、土塁を持たせた後、外周には、低い比高の割には角度のある切崖が取巻いている。
【写真左】墓石か
奥の方に見えたもので、五輪塔の一部にも見えるが、供養の意味を込めたものだろう。
【写真左】八幡神社
新宮城より東へ約200m程むかったところに祀られている社で、当社を祀る小丘は新宮城のそれより2倍程度の大きさを持つ。
探訪したとき、最初にこの小丘が新宮城と勘違いしてしまった。
当社の縁起によれば、元亀2年(1569)、双三郡辻村(現吉舎町辻)より、八幡神社建立の勧進があり、天和2年(1616)8月社殿完成、明和4年(1767)8月に拝殿を建立した、とある。
祭神は、呂陀和気命外十二柱神を奉斎している。
新宮城が落城した後、吉舎町辻からの勧進があったということから、おそらく和智氏一族によるものだろう。
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