蟻腰城(ありこしじょう)
●所在地 広島県庄原市西城町八鳥字八日市●別名 蟻越城・蟻脇城
●築城者 大永3年(1523)
●築城者 東左衛門尉政幸
●遺構 郭・空堀
●高さ 標高365m(比高20m)
●指定 庄原市指定史跡
●登城日 2010年12月1日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
前稿「大富山城」でも少し触れているが、大富山城の北方3キロの位置に出城として築城された小規模な山城である。
【写真左】蟻腰城遠望
西側を走る国道314号線からみたもの。城域は手前の小山及びその後方の山となっているが、当日は手前付近しか登城していない。
後方の状況については『城郭放浪記』氏が詳細な写真を紹介しているので、ご覧いただきたい。
現地の説明板より
“市史跡 蟻越城跡
指定 昭和51年3月25日
所在地 庄原市西城町八鳥
西城川と八鳥川の合流点に突き出た小山で、後方陣ヶ丸に続く地形から名付けて蟻の腰という。大永3年(久代記)宮氏の重臣・東兵部政幸の居館。政幸はざんげんにより大富山城主景盛に滅ぼされた。
東麓に菩提所極楽寺がある。城の規模は小さいが、東に八鳥川をはさんで、広峰山城、西に西城川をへだてて有田山の館と相対し、南方はひらけて遥かに大富山の本城を望む地の利を得た城構えである。
庄原市教育委員会”
【写真左】極楽寺
東麓に建立されている寺院で、東氏の菩提寺とされている。
東左衛門尉政幸
蟻越城の城主といわれる東左衛門尉政幸は、西城宮氏に属する毛利氏の付家老といわれている。
大永3年(1523)3月29日、毛利元就の命によって大富山城城主であった宮高盛の息女を妻に迎え、この城に入った。
「久代記」によると、知行高2,500石で、大佐・八鳥・高尾・小鳥原(しととばら)・森・川鳥の6ヶ村を領した。有能な武将であったらしく、宮氏の勢威は同氏の力によるところが大きかったという。
【写真左】東政幸の墓
蟻腰城の先端部は当時二の丸があったところだが、現在は写真にあるように墓地となっている。
この一角に城主・東左衛門政幸の墓・五輪塔が鎮座している。
しかし、宮興盛が急死した(天文9年:1540)あとを継いだ弟・景盛になると、家臣や近隣の諸氏と軋轢が生じ始め、説明板にもあるように、東政幸も景盛に滅ぼされたとなっている。
ただ、史料によっては、攻撃されたものの、家臣団の協力によって、政幸の無実が証明された、とするものもあり、確実な記録は不明である。
「大富山城」の稿でも記したように、景盛の代から以降毛利氏との関係は芳しくない。本人の資質もあっただろうが、宮氏累代の名誉を重んじるあまり、毛利氏の麾下となったことへの慙愧や、敵対していた山内氏との処遇などに対する不満が鬱積していたのかもしれない。まして、毛利氏付家老であった東政幸が、大富山城に隣接するこの蟻越城に入っていたことが、景盛からすれば毛利氏による「監視」と思われ、そうした混乱を生じさせていたのかもしれない。
【写真左】二の丸跡付近
写真下段に道路が見えるが、さらに下にある田圃も二の丸の一部だったという。
写真に見える看板は蟻腰城の説明板。
概要
蟻越城の西側には西城川が流れ、東側には八鳥川が流れている。両川が天然の濠であったことがうかがえる。北側から伸びた丘陵状の先端部に築城され、途中で東西に大きく尾根を切り取った大堀切がある。
以下写真を交えて概説する。
【写真左】二の丸跡から本丸方面を見る
南側斜面は御覧の通り、現在は墓地となっている。恐らく当時は下段の二の丸から上段の本丸までの間に数段の小郭が連続していたものと思われ、その跡地がこのような墓地となって残っているのだろう。
【写真左】本丸・その1
22.4m×6mという細い尾根状に構築されている。
この写真の右側には帯郭状の段が伸び、その麓に極楽寺が設置されている。
左側は現在狭い道が走っているが、当時は切崖状となって、西城川が接近していたものと思われる。
【写真左】本丸・その2
本丸跡に祀られている祠
秋葉・愛宕の両社が立つ。
【写真左】本丸跡から南方に大富山城を遠望する。
写真中央奥の山で、少しかすんでいるが、蟻腰山城からは常に大富山城がこのように見えていたようだ。
【写真左】大堀切
左側の小山が蟻腰城で、写真中央にみえるように、最大深さ10mという大きな堀切で、現在この位置には小道が走っている。
なお、前述したように、堀切の右側の山も城跡の一部と思われ、『城郭放浪記』氏が遺構写真を紹介している。
また、手前の田圃の法面は八鳥川の堰堤部。
●築城者 大永3年(1523)
●築城者 東左衛門尉政幸
●遺構 郭・空堀
●高さ 標高365m(比高20m)
●指定 庄原市指定史跡
●登城日 2010年12月1日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
前稿「大富山城」でも少し触れているが、大富山城の北方3キロの位置に出城として築城された小規模な山城である。
【写真左】蟻腰城遠望
西側を走る国道314号線からみたもの。城域は手前の小山及びその後方の山となっているが、当日は手前付近しか登城していない。
後方の状況については『城郭放浪記』氏が詳細な写真を紹介しているので、ご覧いただきたい。
現地の説明板より
“市史跡 蟻越城跡
指定 昭和51年3月25日
所在地 庄原市西城町八鳥
西城川と八鳥川の合流点に突き出た小山で、後方陣ヶ丸に続く地形から名付けて蟻の腰という。大永3年(久代記)宮氏の重臣・東兵部政幸の居館。政幸はざんげんにより大富山城主景盛に滅ぼされた。
東麓に菩提所極楽寺がある。城の規模は小さいが、東に八鳥川をはさんで、広峰山城、西に西城川をへだてて有田山の館と相対し、南方はひらけて遥かに大富山の本城を望む地の利を得た城構えである。
庄原市教育委員会”
【写真左】極楽寺
東麓に建立されている寺院で、東氏の菩提寺とされている。
東左衛門尉政幸
蟻越城の城主といわれる東左衛門尉政幸は、西城宮氏に属する毛利氏の付家老といわれている。
大永3年(1523)3月29日、毛利元就の命によって大富山城城主であった宮高盛の息女を妻に迎え、この城に入った。
「久代記」によると、知行高2,500石で、大佐・八鳥・高尾・小鳥原(しととばら)・森・川鳥の6ヶ村を領した。有能な武将であったらしく、宮氏の勢威は同氏の力によるところが大きかったという。
【写真左】東政幸の墓
蟻腰城の先端部は当時二の丸があったところだが、現在は写真にあるように墓地となっている。
この一角に城主・東左衛門政幸の墓・五輪塔が鎮座している。
しかし、宮興盛が急死した(天文9年:1540)あとを継いだ弟・景盛になると、家臣や近隣の諸氏と軋轢が生じ始め、説明板にもあるように、東政幸も景盛に滅ぼされたとなっている。
ただ、史料によっては、攻撃されたものの、家臣団の協力によって、政幸の無実が証明された、とするものもあり、確実な記録は不明である。
「大富山城」の稿でも記したように、景盛の代から以降毛利氏との関係は芳しくない。本人の資質もあっただろうが、宮氏累代の名誉を重んじるあまり、毛利氏の麾下となったことへの慙愧や、敵対していた山内氏との処遇などに対する不満が鬱積していたのかもしれない。まして、毛利氏付家老であった東政幸が、大富山城に隣接するこの蟻越城に入っていたことが、景盛からすれば毛利氏による「監視」と思われ、そうした混乱を生じさせていたのかもしれない。
【写真左】二の丸跡付近
写真下段に道路が見えるが、さらに下にある田圃も二の丸の一部だったという。
写真に見える看板は蟻腰城の説明板。
概要
蟻越城の西側には西城川が流れ、東側には八鳥川が流れている。両川が天然の濠であったことがうかがえる。北側から伸びた丘陵状の先端部に築城され、途中で東西に大きく尾根を切り取った大堀切がある。
以下写真を交えて概説する。
【写真左】二の丸跡から本丸方面を見る
南側斜面は御覧の通り、現在は墓地となっている。恐らく当時は下段の二の丸から上段の本丸までの間に数段の小郭が連続していたものと思われ、その跡地がこのような墓地となって残っているのだろう。
【写真左】本丸・その1
22.4m×6mという細い尾根状に構築されている。
この写真の右側には帯郭状の段が伸び、その麓に極楽寺が設置されている。
左側は現在狭い道が走っているが、当時は切崖状となって、西城川が接近していたものと思われる。
【写真左】本丸・その2
本丸跡に祀られている祠
秋葉・愛宕の両社が立つ。
【写真左】本丸跡から南方に大富山城を遠望する。
写真中央奥の山で、少しかすんでいるが、蟻腰山城からは常に大富山城がこのように見えていたようだ。
【写真左】大堀切
左側の小山が蟻腰城で、写真中央にみえるように、最大深さ10mという大きな堀切で、現在この位置には小道が走っている。
なお、前述したように、堀切の右側の山も城跡の一部と思われ、『城郭放浪記』氏が遺構写真を紹介している。
また、手前の田圃の法面は八鳥川の堰堤部。
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