2011年8月10日水曜日

尾関山城(広島県三次市三吉町)

尾関山城(おぜきやまじょう)

●所在地 広島県三次市三吉町
●別名 積山城・小丸積山城・三次城
●築城期 戦国時代
●築城者 上里越後上守光
●形態 山城
●高さ 標高202m(比高50m)
●遺構 郭等
●登城日 2010年12月10日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 尾関山城は広島県を縦断する江の川が、南東から流れてきた馬洗川、及び北東から流れてきた西城川と合流する地点で、現在の三次市市街地に築かれた山城である。築城者は三吉氏(上里備後守)といわれている。

三吉氏
佐々木氏流三吉氏


 備後・三吉氏の出自については、初期のものとして、一つは、佐々木氏流三吉氏といわれ、源頼朝が奥州藤原氏第4代当主泰衡を追討した際、佐々木七郎秀綱が功を立て、建久3年(1192)、三次の地に地頭職として補任し、秀綱は当地の三吉(三次)氏の祖となった、というのものである。
【写真左】尾関山城二の丸・本丸付近
 尾関山城は現在公園となっているので、山城としての整備よりも、当該施設の管理が優先され、遺構箇所についての説明標識などはほとんどない。



 秀綱が最初に築いたのが、尾関山城より北東にあった比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)である。

 秀綱の子・秀方の代になって、承久の変が勃発、京方(後鳥羽上皇)に与したため敗死した。しかし、当時秀方の子・高元(2歳)は、難を逃れ伊予国能島で成人し、さらに備前国児島に隠れ住んでいた。そして、建久3年(1192)から承久3年(1221)まで、この佐々木氏流三吉氏が当地に在住していたという。

 ただ、『日本城郭大系第13巻』によれば、比叡尾山城の構造・遺構を検証すると、当城の築城期がその当時(鎌倉初期)のものではなく、むしろ鎌倉期後半から室町期前期のものであるということから、佐々木氏流三吉氏が最初に居城としたのが、当城とするのは疑わしいとしている。
【写真左】北麓部の駐車場付近に設けられた配置図
 尾関山城の北側には道路を挟んで、鳳源寺という三次藩の藩祖浅野長治が建立した寺があり、そこから北の山に登ると比熊山城がある。



藤原姓三吉氏

 後期の三吉氏としては、藤原姓の三吉氏である。前段の佐々木氏流三吉氏が承久3年までとしているのに対し、この三吉氏は承久の変後、当地にやってきたというものである。

 承久の変後であることから、恐らく論功行賞によるものと思われ、初代兼範から始まり、その子兼定の代になって、三吉大夫と称し三吉氏を名乗った。以後、3代兼家・4代信兼と受け継がれ、次第に領地を拡大、5代秀高のとき、後醍醐天皇に、またその後足利直冬に従ったという。

【写真左】本丸北麓部
 傾斜部になっているので、郭段ではないが、非常に広々としている。








戦国期

 さて、その後の三吉氏については、比熊山城(広島県三次市三次町上里)でもとりあげているが、本稿の「尾関山城」が築城されたのは戦国期である。

 戦国期の三吉氏が拠った居城は、前掲した「比熊山城」であるが、尾関山城はその出城として築城された。当時当城の城守は、神主で三吉氏の信任の厚い上里越後守守光(丸山城(広島県尾道市御調町丸門田)雲雀城(広島県尾道市御調町市)参照)であった。
【写真左】三吉台と呼ばれる郭
 尾関山城の主だった郭には、「石見台」「発蒙台」「三吉台」「福島台」「上里台」「因幡台」「望巴台・迎陽台」など固有の名称のつくものがある。

この写真はそのうちの三吉台といわれるもので、本丸北にある80m×12mの規模のものである。


 慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、毛利氏が防長に移封されると、他の毛利氏配下の備後国人領主がそうであったように、時の比熊山城城主・三吉広高は領地没収され、流浪の身となった。

 あくる年、福島正則が安芸・備後に入り広島城に入城すると、三次の守りには、重臣尾関石見守正勝が2万石の城主として当城に入り、城名も彼の名をとって、尾関山城と呼ばれた。
【写真左】本丸
 石見台といわれているもので、60m×70mの規模を持つ。
【写真左】発蒙台
 本丸よりさらに4m高くなった櫓跡で、15m×38mの規模を持つ。現在は写真にみえるように展望台が設置されている。






三次藩・浅野氏

 以前にも述べたように、福島正則はその後徳川幕府から意図的な改易を受け、後任には和歌山から浅野但馬守長晟(ながあきら)が広島に入城した。そして三次には支藩として5万石を設け、長子因幡守長治を置き、尾関山東方に館を設けた。
【写真左】浅野神社
 本丸・二の丸・三の丸のある丘陵部とは別に北西部に鞍部を隔てた小丘がある。この北側一角に浅野神社が祀られている。
【写真左】二の丸
 因幡台といわれ、70m×25mの規模を持つ。


【写真左】三の丸
 望邑台・迎陽台といわれている三の丸で、120m×20mの規模を持つ。

【写真左】浅野神社付近から北に比熊山城を遠望する。
【写真左】本丸から北東に比叡尾城を遠望する。
【写真左】本丸から南麓に江の川を見る
 この写真の左下付近には西城川が流れ、馬洗川と合流し、すぐに江の川と合流している。
 左は三次の市街地。
【写真左】本丸から北西方向に浅野長治公墓のある山を遠望する。
 浅野氏の墓については、一旦尾関山城を下り、北側の鳳源寺西方の山道から入っていく(下の写真参照)。
【写真左】浅野長治墓
 現地の説明板より

浅野長治
 浅野長治(1614~75)は、寛永9年(1632)広島本藩から分家した三次支藩5万石の初代藩主です。
 彼は三次町の周囲を流れる川を天然の堀とし、町全体を一つの城郭にみたて、城下町三次を建設しました。


 長治は学問を好み、尾関山に天文を観測する発蒙閣を建てたり、庶民の日常道徳を説いた「教導書」を自ら書きました。


 臨済宗鳳源寺は、長治が父長晟及び先祖の菩提を弔うために、また日蓮宗妙栄寺は母のために建立した寺院です。
 延宝3年(1675)、江戸で62歳の生涯を終えた彼の遺体は、はるばる三次の町を見下ろすこの地へ運ばれました。
 彼は死後も「名君」としてながく庶民から慕われました。
  三次市”
【写真左】浅野長治墓地から尾関山城を遠望する。

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