三子山城・その2
●所在地 広島県庄原市比和町三河内
◆解説
今稿では三子山城主であった三河内氏の菩提寺といわれている慶雲寺、および麓にみえた城砦遺構などについて紹介したい。
慶雲寺
三子山城本丸から南西麓をみた写真を前稿でも紹介したが、その地域に建立されている。
【写真左】祥光山・慶雲寺
当院は南側に広がる三河内の田園地帯を眺めるように建っている。
現地には縁起・由緒等記したものはないが、創建は三河内氏の菩提寺であることを考えると、恐らく戦国期だろう。
【写真左】境内から南東方向に三子山城を遠望する。
訪れたのが、2010年12月10日であるが、御覧の通りの積雪で、如何にも備北の山間部という印象を持った。
【写真左】墓石群
当院に三河内氏の墓所があるということだったが、同氏の墓はこの写真にある五輪塔ではなく、別のものらしい。
自然石で造られた墓石ということだが、標識らしくものがなく確認できなかった。
【写真左】栂家累代之塔
境内には三河内氏とは別に、この塔が建立されている。
栂(とが)家累代、とあるので三河内氏の家臣あたりだろうか。
栂(とが)氏
ところで、「栂」という珍しい名字を持つ一族は、実は管理人の同級生でも一人いたが、同氏の祖がこの地であったのではないかと最近考えるようになった。
さらに全く確証はないが、この栂氏は元は京都栂尾の出身ではないかとも考えている。
元亨3年(1323)すなわち鎌倉末期、この地の南方河北村に記録された「備後国恵蘇郡河北村替銭宿記文并」等の史料によれば、当時この地方では多くの鉄が産出され、それを領家であった京都栂尾高山寺などへ年貢として、現物ではなく、「為替」による送金が行われていた。
おそらく、このときこの為替(替銭)を、河北村(地毘荘)から京都へと往来する役目を担った取次人が京都栂尾の出身で、その後地頭の進出によって消滅し、そのまま河北村へ永住し、出身地の栂尾から一字をとり、栂氏を名乗り、戦国期に至り北隣りの三河内に進出していった、と推測されるのだが、どうだろう。
【写真左】慶雲寺シラカシ林
境内奥にあるもので、庄原市天然記念物(1990年指定)となっている。
現地の説明板より
“シラカシ林は、モミ-シキミ群集においてモミやツガと混生し、標高400m以下の温暖帯域ではモミを伴わないシラカシの純林が見られるようであるが、慶雲寺の場合、標高580mの高所にあってシラカシの純林が形成されているという点で植生的に珍しい例であり、県北地の北限である。”
【写真左】境内に設置された「新比和音頭」の歌碑
恐らく地元の方が作詞作曲されたものと思われるが、「尼子」のことも綴られている。
歌詞の内容
“新比和音頭
平成13年 詩・曲 新田得三郎
月の尼子を迎えて破る
武士は大膳三つ河内
茂るシラカシ葉越しの雨が
泣いて降るよな 慶雲寺
ヤートコセーで 手をたたき
ヨーイヤナーで 比和音頭”
三子山城北麓の遺構
ところで、西側の三河内から当城へ向かう道、すなわち西城比和線という大変に狭い古道を登っていくと、途中でつづら折りの箇所がある。
最初の頃はあまり気にも留めていなかったが、2度目に通ったとき、その箇所だけが異質な景観になっており、車を停めて(といっても対向車が来た段階ですぐに移動しなければならないが)撮った写真が下掲のものである。
【写真左】道路北側にみえた高まり
三子山北麓部の傾斜面にこうした人工的に造成されたものがある。
【写真左】道路付近
道路が横断しているため、分かりづらいが、左側は土塁のような形状を残し、その奥は全体に切崖状が多い。
【写真左】道路南側のくぼ地と後背の高まり
写真手前が平坦地で、その奥は山の斜面を利用した壁状の囲繞遺構
【写真左】竪堀か
規模は大きくはないものの、南側斜面には竪堀状のものが見える。
考察
現地は曲がりくねった細い道の位置であることや、杉林で全体に暗く、明瞭な確認はしていないが、結論からいって「城館跡」の遺構に近似している。
三子山城の大手は西側となっているので、この北麓に城館を設置していることは整合性がないが、これだけ人工的な造成遺構があることを考えると、三河内氏のもう一つの屋敷跡地ということも考えられる。
あるいは、現在と同じく当時の西城方面に抜ける場所であったから、「陣所」的施設であったかもしれない。
なお、前稿で紹介した同氏の初期の居城「二本松城」は、小丘に築城されたとあるので、この場所ではないだろう。
●所在地 広島県庄原市比和町三河内
◆解説
今稿では三子山城主であった三河内氏の菩提寺といわれている慶雲寺、および麓にみえた城砦遺構などについて紹介したい。
慶雲寺
三子山城本丸から南西麓をみた写真を前稿でも紹介したが、その地域に建立されている。
【写真左】祥光山・慶雲寺
当院は南側に広がる三河内の田園地帯を眺めるように建っている。
現地には縁起・由緒等記したものはないが、創建は三河内氏の菩提寺であることを考えると、恐らく戦国期だろう。
【写真左】境内から南東方向に三子山城を遠望する。
訪れたのが、2010年12月10日であるが、御覧の通りの積雪で、如何にも備北の山間部という印象を持った。
【写真左】墓石群
当院に三河内氏の墓所があるということだったが、同氏の墓はこの写真にある五輪塔ではなく、別のものらしい。
自然石で造られた墓石ということだが、標識らしくものがなく確認できなかった。
【写真左】栂家累代之塔
境内には三河内氏とは別に、この塔が建立されている。
栂(とが)家累代、とあるので三河内氏の家臣あたりだろうか。
栂(とが)氏
ところで、「栂」という珍しい名字を持つ一族は、実は管理人の同級生でも一人いたが、同氏の祖がこの地であったのではないかと最近考えるようになった。
さらに全く確証はないが、この栂氏は元は京都栂尾の出身ではないかとも考えている。
元亨3年(1323)すなわち鎌倉末期、この地の南方河北村に記録された「備後国恵蘇郡河北村替銭宿記文并」等の史料によれば、当時この地方では多くの鉄が産出され、それを領家であった京都栂尾高山寺などへ年貢として、現物ではなく、「為替」による送金が行われていた。
おそらく、このときこの為替(替銭)を、河北村(地毘荘)から京都へと往来する役目を担った取次人が京都栂尾の出身で、その後地頭の進出によって消滅し、そのまま河北村へ永住し、出身地の栂尾から一字をとり、栂氏を名乗り、戦国期に至り北隣りの三河内に進出していった、と推測されるのだが、どうだろう。
【写真左】慶雲寺シラカシ林
境内奥にあるもので、庄原市天然記念物(1990年指定)となっている。
現地の説明板より
“シラカシ林は、モミ-シキミ群集においてモミやツガと混生し、標高400m以下の温暖帯域ではモミを伴わないシラカシの純林が見られるようであるが、慶雲寺の場合、標高580mの高所にあってシラカシの純林が形成されているという点で植生的に珍しい例であり、県北地の北限である。”
【写真左】境内に設置された「新比和音頭」の歌碑
恐らく地元の方が作詞作曲されたものと思われるが、「尼子」のことも綴られている。
歌詞の内容
“新比和音頭
平成13年 詩・曲 新田得三郎
月の尼子を迎えて破る
武士は大膳三つ河内
茂るシラカシ葉越しの雨が
泣いて降るよな 慶雲寺
ヤートコセーで 手をたたき
ヨーイヤナーで 比和音頭”
三子山城北麓の遺構
ところで、西側の三河内から当城へ向かう道、すなわち西城比和線という大変に狭い古道を登っていくと、途中でつづら折りの箇所がある。
最初の頃はあまり気にも留めていなかったが、2度目に通ったとき、その箇所だけが異質な景観になっており、車を停めて(といっても対向車が来た段階ですぐに移動しなければならないが)撮った写真が下掲のものである。
【写真左】道路北側にみえた高まり
三子山北麓部の傾斜面にこうした人工的に造成されたものがある。
【写真左】道路付近
道路が横断しているため、分かりづらいが、左側は土塁のような形状を残し、その奥は全体に切崖状が多い。
【写真左】道路南側のくぼ地と後背の高まり
写真手前が平坦地で、その奥は山の斜面を利用した壁状の囲繞遺構
【写真左】竪堀か
規模は大きくはないものの、南側斜面には竪堀状のものが見える。
考察
現地は曲がりくねった細い道の位置であることや、杉林で全体に暗く、明瞭な確認はしていないが、結論からいって「城館跡」の遺構に近似している。
三子山城の大手は西側となっているので、この北麓に城館を設置していることは整合性がないが、これだけ人工的な造成遺構があることを考えると、三河内氏のもう一つの屋敷跡地ということも考えられる。
あるいは、現在と同じく当時の西城方面に抜ける場所であったから、「陣所」的施設であったかもしれない。
なお、前稿で紹介した同氏の初期の居城「二本松城」は、小丘に築城されたとあるので、この場所ではないだろう。
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