黒岩城(くろいわじょう)・その1
●所在地 広島県庄原市口和町大月●別名 大月山城
●築城期 永正・大永年間(1504~28)
●築城者 和泉三郎左衛門久勝(三郎左衛門尉信正)
●遺構 郭・井戸・空堀等
●高さ 標高456m(比高110m)
●指定 庄原市指定史跡
●登城日 2010年12月10日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
黒岩城は旧比婆郡といわれた口和町の大月山に築かれた山城で、現在当城の東麓には数年後に完成予定の中国横断自動車道尾道松江線の工事が行われている。
【写真左】黒岩城遠望
南東部から見たもので、中央横に見えるのは工事中の中国横断自動車道尾道松江線の盛土。
口和町大月は、西方の「しんぎょう峠」を超えると君田町につながり、神野瀬川を下ると西城川に合流し、前稿の尾関山城(広島県三次市三吉町)のある三次市へと向かう。
また、北に進むと高野町につながり、王貫峠を越えると出雲国(奥出雲町仁多)に出る。この付近には黒岩城以外のものとして、北東部にかけて10数カ所の城砦が確認されているが、これらは殆ど北方出雲国の尼子氏との関連で築城されたものが多い。
【写真左】松岳院跡
登城口はこの南麓にある松岳院跡地で、駐車場を兼ねている。ここに向かうには、東麓を走る39号線(三次高野線)から分かれる枝線から入っていく。この箇所は、現在高速道路工事によってトンネル状になっており、そこを抜けて南に向かうとこの場所につながる。
現地の説明板より
“庄原市史跡
黒岩城址
平成4年2月17日指定
黒岩城は中世戦国期の大永より文禄年代(1521~92)、すなわち16世紀前半から後半にかけて、当地方を支配した和泉氏の山城である。領主については諸説があるが、和泉氏3代にわたったと伝えられている。
中世城郭の分類形式により、形態を規定すると
●築城期 永正・大永年間(1504~28)
●築城者 和泉三郎左衛門久勝(三郎左衛門尉信正)
●遺構 郭・井戸・空堀等
●高さ 標高456m(比高110m)
●指定 庄原市指定史跡
●登城日 2010年12月10日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
黒岩城は旧比婆郡といわれた口和町の大月山に築かれた山城で、現在当城の東麓には数年後に完成予定の中国横断自動車道尾道松江線の工事が行われている。
【写真左】黒岩城遠望
南東部から見たもので、中央横に見えるのは工事中の中国横断自動車道尾道松江線の盛土。
口和町大月は、西方の「しんぎょう峠」を超えると君田町につながり、神野瀬川を下ると西城川に合流し、前稿の尾関山城(広島県三次市三吉町)のある三次市へと向かう。
また、北に進むと高野町につながり、王貫峠を越えると出雲国(奥出雲町仁多)に出る。この付近には黒岩城以外のものとして、北東部にかけて10数カ所の城砦が確認されているが、これらは殆ど北方出雲国の尼子氏との関連で築城されたものが多い。
【写真左】松岳院跡
登城口はこの南麓にある松岳院跡地で、駐車場を兼ねている。ここに向かうには、東麓を走る39号線(三次高野線)から分かれる枝線から入っていく。この箇所は、現在高速道路工事によってトンネル状になっており、そこを抜けて南に向かうとこの場所につながる。
現地の説明板より
“庄原市史跡
黒岩城址
平成4年2月17日指定
黒岩城は中世戦国期の大永より文禄年代(1521~92)、すなわち16世紀前半から後半にかけて、当地方を支配した和泉氏の山城である。領主については諸説があるが、和泉氏3代にわたったと伝えられている。
中世城郭の分類形式により、形態を規定すると
- 全体が自然の山地を利用して構築された典型的山城である。
- 城郭は大小10余の郭が階段状に連接して構成された多郭階段式山城である。
海抜456m、城郭部分の面積は約3ha、頂上からは東に向かって脚下に大月集落、及び雲伯路に向かう向泉集落や、大合戦橋が見下ろされ、遠くには釜峰山をはじめ、中国山地の連峰が望見できる。
現在の駐車場は、大永年間に城主が開基した「松岳院」跡にあり、その前方約20mに参詣路の両側が幅約3mの切割りとなり石垣が残っており、松岳院の山門跡と推察されるが、黒岩城の大手口も、このあたりと考えられる。
山頂には「アベマキの巨木」が林立し、その途中には「矢竹」の群生地もあり、山城らしい山容を示している。また「シラカシ林」は分布的には、県最北端部に位置しており、「ヤブツバキ・ベニシダ・ヤマツヅジ」が群生し、自然美の宝庫でもある。
今は廃寺となった「松岳院」跡に昭和30年代に建立した「収蔵庫」があり、松岳院の本尊や松岳院に安置されていた城主の位牌や、古文書等々、黒岩城にまつわる宝物が収納されている。
また、付近に「八十八箇所札所地蔵」や、「六地蔵」もある。なお、北東側に「犬走り」(腰郭)跡があり、これを保存し、さらに史跡を後世に伝えるため、要所に石柱による標識を建立してある。
平成19年3月
庄原市教育委員会”
【写真左】南方に工事中の中国横断道を見る
登城道は比較的整備されているため、歩きやすい。また途中で写真にあるように麓の景色が見える箇所もあるため、退屈しない。
この写真では奥に向かうと三次市方面につながる。
【写真左】南方に工事中の中国横断道を見る
登城道は比較的整備されているため、歩きやすい。また途中で写真にあるように麓の景色が見える箇所もあるため、退屈しない。
この写真では奥に向かうと三次市方面につながる。
和泉氏
和泉氏の出自は不明だが、説明板にもあるように黒岩城の城主として3代続いた。
黒岩城主第2代となった信行は、尼子から離れ毛利氏につくことになったが、天文20年(1551)陶晴賢による大内義隆殺害によって、戦況は大きく変わり、備後国内においても少なからぬ動揺が走った。
特に高杉城(広島県三次市高杉町)でも述べたように、尼子氏に属した江田氏の一族祝氏は、天文22年(1553)毛利氏の攻撃を受けるが、このとき尼子氏は江田氏救援のため富田城を出発し南下した。これに対し、毛利氏は備後の北の入口であるこの黒岩城に拠って尼子氏と戦火を交えた。
【写真左】三の丸
南郭を過ぎると三の丸が控える。30m×21mの規模。
なお、この付近には「矢竹の群生」という標識があり、弓矢で使用されたのだろう。
この戦いは、のちに「和泉合戦」と呼ばれた。尼子・毛利の陣構えは次の通り。
【尼子方】
【毛利方】
双方はこの構えで黒岩城東方の苧瀬の橋を挟んで対峙し、合戦が始まった。互角の戦況のうち大雨が降りだし、尼子方は川を渡ることができず、結局撤収したといわれている。
【写真左】井戸跡
三の丸の東北隅に設置されているもので、2m×2.5mの開口部を持つ井戸。
ところで、苧瀬という地区は萩瀬とも記録されているので、「高杉城」の稿ではその場所を比定していなかったが、恐らくこの場所は、和泉合戦において対峙した橋、すなわち黒岩城東麓の「大合戦橋」(写真参照)と呼ばれた場所と思われる。
また、この和泉合戦の時期は天文22年(1553)とあり、『新裁軍記』によれば、
「同年5月20日、毛利元就、尼子晴久の兵を備後国萩瀬に破る」
とあり、この記録が和泉合戦の事と思われる。
さて、この合戦の功によって和泉信行は、笠野山城(別名笠城山城:三次市糸井町)を元就から与えられた。
また、3代久正は三吉氏の所領近くの三次市上里(あがり)に福谷山城を築き、完全に三吉氏の家臣となって行ったようである。
【写真左】二の丸
10m×30mの規模で、三の丸の約半分の大きさである。鳥居が建っている。
【写真左】石積み
二の丸の奥にあるもので、おそらく和泉氏等を供養した石碑が建っていたのかもしれない。
なお、三の丸より西奥に城主の墓と伝えられているものがあるということだったが、当初この石積みが墓と勘違いしてしまい。件の墓には向かっていない。
【写真左】二の丸から北に本丸を見上げる。
二の丸から本丸までの高低差は約9mある。全体に郭段の構成など施工精度が良好で、切崖も見ごたえがある。
【写真左】本丸・その1
35m×20mの規模で、休憩小屋のような建物が建つ。
【写真左】本丸・その2
口和町内山城分布図
冒頭でも述べたように、この付近には小規模な出城・城砦が点在している。
この図は、本丸に設置された分布図で、写真では文字が小さくて読みにくいかもしれないが、町内山城の配置が分かりやすく描かれている。
参考までに、記載されている山城名は、北から順に下記の通りとなっている。
【写真左】本丸から東麓の苧瀬(おがせ)(大合戦橋)を見る。
写真中央を横に流れる川は竹地川で、やや右に大合戦橋がある。その西岸には正専寺が建つ。
黒岩城およびこの東麓部苧瀬において、天文22年和泉合戦が行われた。
【写真左】太刀洗い池の標識
本丸から約300m向かったところに当該池があったと記されているが、当日はそこまで行っていない。
【写真左】北の丸
本丸から少し北に向かうと小郭が3,4か所連続して構成されている。
このコースは搦手となるもので、史料では後期に施工されたものではないかとされている。
この郭は最初のもので、「北の丸」といわれたもの。
【写真左】搦手側郭からみた切崖
北の丸から3,4段の郭段が構成されているが、この写真は特に見ごたえのある切崖である。
【写真左】犬走り
搦手から大手につながるもので、東麓部を走る。
和泉氏の出自は不明だが、説明板にもあるように黒岩城の城主として3代続いた。
- 初代 久勝(信正)
- 2代 信行(信正嫡男)
- 3代 久正
そのころから、義父になる三吉宗隆は、台頭著しい毛利氏の勢いを看過できず、再三にわたって信正に毛利氏に属するよう誘った。しかし、信正はその誘いに対し断り続けていた。
城主である信正のこうした態度に対し、毛利氏に与することが得策と考えた、原勘兵衛・同但馬・間鍋五郎左衛門・秋山伊勢守など主だった家臣らは、謀議の結果、大永6年(1526)6月13日、城主・信正を殺害した。
そして、出雲月山富田城に人質として送られていた嫡男信行を第2代黒岩城主とした。その際、信行の替わりの人質として、家臣石田尾張守の嫡子孫三郎が送られた。
和泉合戦
黒岩城主第2代となった信行は、尼子から離れ毛利氏につくことになったが、天文20年(1551)陶晴賢による大内義隆殺害によって、戦況は大きく変わり、備後国内においても少なからぬ動揺が走った。
特に高杉城(広島県三次市高杉町)でも述べたように、尼子氏に属した江田氏の一族祝氏は、天文22年(1553)毛利氏の攻撃を受けるが、このとき尼子氏は江田氏救援のため富田城を出発し南下した。これに対し、毛利氏は備後の北の入口であるこの黒岩城に拠って尼子氏と戦火を交えた。
【写真左】三の丸
南郭を過ぎると三の丸が控える。30m×21mの規模。
なお、この付近には「矢竹の群生」という標識があり、弓矢で使用されたのだろう。
この戦いは、のちに「和泉合戦」と呼ばれた。尼子・毛利の陣構えは次の通り。
【尼子方】
- 先陣:尼子詮久(晴久)・卯山(宇山)・米原・疋田の2,000騎
- 二陣:尼子敬久・牛尾・桜井の1,000騎
- 後陣:尼子国久(新宮党)の2,000余騎
【毛利方】
- 先陣:吉川元春・熊谷・香川・飯田各氏の国人衆2,000騎、及び和泉入道父子(和泉三郎五郎信行・同三郎久正)
- 後陣:毛利元就・隆元の2,000余騎
【写真左】井戸跡
三の丸の東北隅に設置されているもので、2m×2.5mの開口部を持つ井戸。
ところで、苧瀬という地区は萩瀬とも記録されているので、「高杉城」の稿ではその場所を比定していなかったが、恐らくこの場所は、和泉合戦において対峙した橋、すなわち黒岩城東麓の「大合戦橋」(写真参照)と呼ばれた場所と思われる。
また、この和泉合戦の時期は天文22年(1553)とあり、『新裁軍記』によれば、
「同年5月20日、毛利元就、尼子晴久の兵を備後国萩瀬に破る」
とあり、この記録が和泉合戦の事と思われる。
さて、この合戦の功によって和泉信行は、笠野山城(別名笠城山城:三次市糸井町)を元就から与えられた。
また、3代久正は三吉氏の所領近くの三次市上里(あがり)に福谷山城を築き、完全に三吉氏の家臣となって行ったようである。
【写真左】二の丸
10m×30mの規模で、三の丸の約半分の大きさである。鳥居が建っている。
【写真左】石積み
二の丸の奥にあるもので、おそらく和泉氏等を供養した石碑が建っていたのかもしれない。
なお、三の丸より西奥に城主の墓と伝えられているものがあるということだったが、当初この石積みが墓と勘違いしてしまい。件の墓には向かっていない。
【写真左】二の丸から北に本丸を見上げる。
二の丸から本丸までの高低差は約9mある。全体に郭段の構成など施工精度が良好で、切崖も見ごたえがある。
【写真左】本丸・その1
35m×20mの規模で、休憩小屋のような建物が建つ。
【写真左】本丸・その2
口和町内山城分布図
冒頭でも述べたように、この付近には小規模な出城・城砦が点在している。
この図は、本丸に設置された分布図で、写真では文字が小さくて読みにくいかもしれないが、町内山城の配置が分かりやすく描かれている。
参考までに、記載されている山城名は、北から順に下記の通りとなっている。
- 熊谷城
- 古屋敷山城
- 信木山城
- 釜峰山城(広島県庄原市口和町湯木)
- 竹山城
- 信安城
- 茶臼山城
- 山崎城
- 御所陣山城
- 大仙山城
- あいが城
- 迫城
- 貴船山城
- 工(たくみ)ケ原城
写真中央を横に流れる川は竹地川で、やや右に大合戦橋がある。その西岸には正専寺が建つ。
黒岩城およびこの東麓部苧瀬において、天文22年和泉合戦が行われた。
【写真左】太刀洗い池の標識
本丸から約300m向かったところに当該池があったと記されているが、当日はそこまで行っていない。
【写真左】北の丸
本丸から少し北に向かうと小郭が3,4か所連続して構成されている。
このコースは搦手となるもので、史料では後期に施工されたものではないかとされている。
この郭は最初のもので、「北の丸」といわれたもの。
【写真左】搦手側郭からみた切崖
北の丸から3,4段の郭段が構成されているが、この写真は特に見ごたえのある切崖である。
【写真左】犬走り
搦手から大手につながるもので、東麓部を走る。
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