2020年2月9日日曜日

但馬・万場城(兵庫県豊岡市日高町万場字城山)

但馬・万場城(たじま・まんばじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市日高町万場字城山
●形態 丘城
●高さ 360m(比高30m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明
●遺構 竪堀・堀切等
●登城日 2016年12月12日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、HP『山城攻略記』等)

 兵庫県豊岡市の南西部日高町にある神鍋高原は、スキーやキャンプ、トレッキングといった一年中楽しめるリゾート地として多くの観光客が訪れる場所である。

 特にスキー場は昭和32年、関西初となる「第12回国民体育大会冬季大会スキー競技会」が開かれ、一流のスキー場として全国的にも知られるようになった。そして、この地区には最盛期になると、6ヶ所のスキー場が開設されたが、その後スキー人口の減少に伴い、現在では神鍋ファミリースキー場、北神鍋スキー場、及び万場スキー場などが営業をしている。

 今稿で取り上げる万場城は、その中の万場スキー場に隣接する丘陵地先端に築かれた小規模な山城である。
【写真左】万場城遠望
 下段で述べているように、城域の位置を間違えてしまい、手前の丘陵部を散策してしまった。
 奥には万場スキー場が見える。





踏査地点を間違えた?

 登城したこの日、いつものようにHP『城郭放浪記』氏の資料をコピーして向かったのだが、残念ながら、踏査地点が実際よりずれたところだったようで、アップした写真は城域とは別の場所だったことを最初にお断りしておきたい。

 管理人が踏査したのは、万場城の手前の丘陵地だったようで、万場城は写真にもあるようにこの場所から更にスキー場側へ上った位置に在った。
【写真左】天神社
 万場城に向かう途中に祀られている神社で、旧名は中古天満宮又は、的場大明神とも称した。
 創建年は未詳。

 祭神は菅原道真

 明治3年(1870)天神社と改称され、同6年に村社に列する。


縄張の状況

 当城については先述したHP『城郭放浪記』氏のものがすでに紹介されているが、これとは別にHP『山城攻略記』氏のものがある。当HPでは縄張図が添付されていて、当城の概要を知ることができる。

 これによると、西側から伸びてきた尾根筋に設けられ、東西200m×南北50~70mほどの規模で、中央部に東西に30mほど伸びた郭(主郭)を置き、東側には腰郭や畝状竪堀群が尾根先端部に配置されている。中央部主郭の西側の尾根には堀切が配置されている。
【写真左】天神社のトチノキ
 天神社の脇には兵庫県指定天然記念物の「天神社のトチノキ」が生えている。

 樹高30m、胸高周囲7.6mで県内随一の大きさという。
 平成17年3月18日指定


垣屋氏

 当城の築城者・築城期などについては史料がないため、はっきりした事は分からない。
そこで、推測の域を出ないが、中世但馬日高地方の領主として考えられるのは、宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)で紹介した垣屋氏である。

 当稿でも述べているように、垣屋氏が山名氏に従って最初に下向したのが神鍋高原付近といわれている。
 同氏はその後次第に稲葉川沿いを下って日高町中心部へと移ることになる。因みに、神鍋高原地域には当城のほか、近くに名色城(なしきじょう)、大田城、南山城といった中小の城郭が点在しているが、これらも垣屋氏又はその一族が関わったものと思われる。
【写真左】勘違いした丘の先端部
 万場城はこの場所からさらにスキー場に向かった位置だったが、この丘陵部が城域だと思い込んでしまった。
【写真左】この辺りから登ることにする。
 万場城の遺構がある箇所でないため、以下の写真は当然ながらほとんど関連性はないが、それでも城域とさほど離れていない場所なので参考までに掲載しておきたい。
【写真左】尾根にたどり着く。
 比高がさほどないため簡単に尾根にたどり着いた。
【写真左】尾根
 上の写真とほぼ変わらないが、自然地形とはいえ尾根幅が広く、しかもフラットな面が多い。
 まるで郭のような印象を持つ。
【写真左】東端部の谷
 尾根の東側へ向かうと、登った側の傾斜とはだいぶ違う険阻な谷が見える。
【写真左】万場城方面を見る。
 この位置から万場城の中心部まではおよそ300mほど離れている。
 この尾根を奥に進むと、途中で谷を介して南から延びてきた別の尾根先端部に万場城が所在する。

 従って、直接の関連性はないが、当時万場城の南麓部には万場スキー場を跨いで、西側の村岡方面に向かう街道があったことから、この付近も万場城を補完する施設があったのかもしれない。
【写真左】万場城側から流れる川
 上記した谷から流れてきているもので、おそらく濠の役目をしていたのだろう。

 
 

2020年2月7日金曜日

真浄庵土居屋敷(広島県三原市久井町羽倉)

真浄庵土居屋敷(しんじょうあん どいやしき)

●所在地 広島県三原市久井町羽倉
●築城期 不明
●築城者 不明(末近氏か)
●遺構・遺物 土塁
●備考 羽倉城、殿様墓
●登城日 2016年12月7日

◆解説
 真浄庵土居屋敷は広島県の旧御調郡久井町に所在した中世の館跡である。現在当地域は2005年に三原市に合併され、所在地は三原市久井町羽倉となる。
【写真左】真浄庵土居屋敷遠望
 南西側から見たもので、手前には末近信賀供養塔が見える。






久井

 真浄庵土居屋敷(以下「土居屋敷」とする。)の所在する久井(クイ)という地名は、もともと杭と呼ばれ、平安時代から牛馬の売買が盛んな市場となっていた。

 その繁盛ぶりは衰微することなく、江戸時代の延宝8年(1680)になると、広島藩の公認を受け、近畿・九州・北陸など遠方からも多くの牛馬商人(博労等)が集まり、豊後の「浜の牛馬市」、伯耆の大山(大仙)の牛馬市と並んで日本三大牛馬市の一つとして広く知られるようになった。
【写真左】久井稲荷神社
所在地:三原市久井町江木1-1

 古伝によれば、往古山城国(京都)伏見稲荷神社の神田(社領地)があり、天慶元年(938)に現在地に遷座。
 戦国時代になると毛利元就が弘治3年当社本殿を造営し、3年後の永禄3年小早川隆景が社殿を造営したとある。


 しかし、昭和に入り農業機械化の発達により、昭和39年に千年以上続いたこの牛馬市はその歴史の幕を閉じることになる。
 
 久井の地域がこうした牛馬を中心とした盛んな農耕地を有していたことから、おそらくその時代ごとに当地を支配していた領主もまたそれらを積極的に支援してきたものと思われる。
【写真左】久井町歴史民俗資料館前に建つ「杭の牛市跡」を紹介した説明板
 所在地:久井町下津1397





羽賀城

 ところで、この土居屋敷付近は、現在近年の圃場整備事業に伴い、整然と区画化された田んぼが広がっているが、土居屋敷から北西方向へおよそ200mほど向かうと、その圃場整備された田圃の中に「羽賀城」という平城があったことが知られる。
 伝承では当城は末近氏の居館といわれている。末近は地元では「セジカ」と呼称している。
【写真左】羽賀城のあった方向を見る。
 御覧の通り圃場された田園風景で、遺構は田圃の下に隠され、まったく見ることはできない。



 規模は54m×44m、周囲には幅8~11m、深さ2.5~3.0mの水濠を巡らし、北側には幅5.7mの土塁が設けられ、特徴的なのはその土塁上部に5m間隔で、ピットが確認されている。このピットが柱穴とすれば、土塁の上に柵を設けていた可能性もある。

 発掘調査後圃場整備がなされ、城址部分は遺構上部に約2mの盛土を行い、その後圃場(水田)となっているので、すでに現地はその面影を残していない。
【写真左】羽賀城付近
 上の写真とは別の箇所から見たもの。
 おそらく当時は不定形で小規模な田圃が棚田状になっていたのだろう。




殿様墓

 さて、土居屋敷の話に戻るが、この付近の南東部に数体の墓石(五輪塔・宝篋印塔)が祀られ、これらを「殿様墓」と呼んでいる。そして傍らには末近左衛門尉信賀の顕彰碑が建立されている。
 この奥には写真でも紹介しているように、土塁上の段や庵(屋敷)の時代に盛土されたような跡が残る。
【写真左】殿様墓
 写真の左から2番目にある石柱に「殿様墓」と刻銘されたものがあり、そのまわりに五輪塔や宝篋印塔などが並んでいる。




末近左衛門尉信賀

 天正10年(1582)6月4日、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松) を攻めた秀吉は、毛利方と講和を結んだが、そのときの条件として高松城主・清水宗治に自刃を求めた。巷間伝えられているのは、自刃したのは宗治一人だったというイメージが強いが、実際には彼に殉死した武将が複数いたことが知られる。

 具体的には、宗治をはじめ、宗治の兄・月清入道、宗治の弟・難波宗忠、そして末近左衛門尉信賀と合わせて4名である。
【写真左】供養塔
 殿様墓と並んで右側には近年建立された供養塔が併設されている。

 供養塔には
「大圓鏡智為 備中高松城天正之陣 水攻め講和四百年年忌 羽倉城主末近信賀自刃追善供養塔」
 とあり、右面には
「奉斎 岡山市高松城址保興会 萩市郷土文化協会」
と筆耕されている。


 末近左衛門尉信賀(以下「末近信賀」とする。)は、セジカ(又はスエチカ)ノブヨシと呼称する。信賀の父は内蔵助で、このころから小早川家の家臣であったという(別説では、これ以前の沼田小早川氏、すなわち隆景が養子に入る前からの小早川氏の被官であったという)。(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1 参照)

 信賀はこの当時隆景の家臣となっていた。信賀が当地に羽倉城を築いたのは、元亀元年(1570)といわれている。領地経営に意を注ぎ、水路開削や水田開発を積極的に行ったという。

 信賀が自刃したのは、この年(天正10年)隆景から備中高松城の軍監として派遣されていたことから、その責を負ってのことだろうが、清水宗治一族のみの自刃では秀吉が納得しなかったのかもしれない。
 信賀が自刃したあとの同月18日付で、小早川隆景から信賀の子・光久宛てに感状が出されている。
【写真左】信賀辞世の句
 近くには信賀の辞世の句が刻まれた石碑が建つ。







”君がため
  名を高松にとめおきて
      心は帰る 故郷の方”


【写真左】五輪塔群
 手前の墓石とは別に奥にも小規模な五輪塔群が見える。
 このあと奥の方に向かってみる。
【写真左】段のある箇所。
 土居屋敷が真浄庵という名前を付記していることを考えると、末近氏に近い一族が当地に屋敷にを構え、その後出家した僧がこの場所で庵を営んだというような経緯が考えられるが、史料がないためはっきりしない。
【写真左】土塁
 上の段に上がり、少し奥に向かうと小規模だが土塁の痕跡が認められる。
【写真左】切岸
 周辺部が圃場整備されているため、土居屋敷との境目が当時どのような状態だったのか分からないが、この個所はかなり高低差を残しているので、切岸だったと思われる。
【写真左】遠望・その1
 土居屋敷は写真の右側に当たり、手前の墓は地元の民家のもの。
【写真左】遠望・その2
 上の写真から更に南西方向に移動した位置から見たもので、手前の田圃から見ると意外と高低差がある。

 この田圃の畔がカーブを描いていることから、当時はこの付近も土居屋敷(真浄庵)の関連した建物などがあったのかもしれない。

2020年2月3日月曜日

石見・稲積城(島根県益田市水分町)

石見・稲積城(いわみ・いなづみじょう)

●所在地 島根県益田市水分町
●高さ 78.9m(比高70m)
●築城期 暦応3年・興国元年(1340)
●築城者 日野邦光
●城主 日野氏、益田氏
●遺構 郭その他
●備考 稲積神社
●登城日 2016年12月2日

◆解説(参考資料 『益田市誌・上巻』、『日本城郭体系』等)
 石見・稲積城(以下「稲積城」とする。)は、益田市水分町の稲積山に築かれた小規模な山城で、当城から東に1キロ余り向かうと益田氏の居城七尾城が所在する。
【写真左】稲積山城遠望・その1
2010年9月12日登城した益田氏の居城・七尾城から見たもの。
【写真左】稲積山城遠望・その2
南麓の机崎神社側から見たもの。









石見の南北朝期

 南北朝時代における石見の動きについてはこれまでも高津城(島根県益田市高津町上市)の稿などでも再三触れてきたように、 当国でも南朝方と北朝方が激しく戦った。

 稲積山城に関わるものとしては、七尾城・その2(島根県益田市七尾) の稿で少し述べているが、興国年間(1340~)に日野邦光が稲積山城に拠って、南朝方の三隅城主・三隅兼連らと呼応し、北朝方の益田兼見の七尾城と対峙したといわれる。
【写真左】途中から直登
 登城口が分からず、たまたま南側に手摺のようなものが見えたので、そこから向かったが、結局墓地に向かう道で、その先はまったく道がなく、このあたりから直登することになった。


日野邦光

 日野邦光は藤原北家真夏流日野家の出で、日野資朝の子である。資朝は鎌倉幕府を倒そうとしたが、六波羅探題に察知され、同族の日野俊基らと共に捕縛され、佐渡島に流罪された公卿である。
 邦光は幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、15歳のとき佐渡島に渡り、父の仇討ちを成し遂げた逸話を持つ。延元4年・暦応2年(1339)石見国司として新田義氏と共に同国へ下向した。
【写真左】畑地跡
 ひたすら尾根を目指してたどり着くと、割と解放された場所に出た。城域より大分西に来ているようだ。
 後述するように、先の大戦中食糧確保のため畑として開墾された跡だろう。


 このころ石見では南朝軍が劣勢に陥り、士気が停滞していたが、邦光は地元の南朝方高津長幸(高津城(島根県益田市高津町上市) 参照)・三隅兼連・内田致景(神主城(島根県江津市二宮町神主) 参照)らと相呼応し、稲積山に砦を築いて立て籠り、北朝方(益田兼見・虫追政国・乙吉十郎・領家公恒ら)と対峙し牽制しあった。

 稲積城の記録が現れるのは暦応4年(1341)正月28日で、三隅兼連(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅) 参照)が当城の食糧欠乏を知って、籐三(とうぞう)という家臣に命じてその護送に当たらせていたところ、益田三宅の袴田で益田方の軍勢に発見されて戦いを交えたというものである。そして、籐三は討死したが、食糧の一部を城内に搬入した。しかし、その年(暦応4年)2月18日、高津城と共に落城し、城主日野邦光は三隅城に落ち延びたといわれる。
【写真左】主郭方面を確認する。
 持参した地形図と磁石を頼りに方向を確認すると、この先から城域になるはず。登り勾配となっている。



 これに関連する記録としては、次のようなものが残る。
  • 前年(暦応3年・興国元年)8月27日、益田兼見が上野頼兼に従い、13日の豊田(内田)致員の城(豊田城か)での戦い、18日の日野邦光・高津長幸との戦いの軍忠状を提出する(『益田家文書』)。
  • さらに2月には、益田兼躬(おそらく兼見のことと思われる)、上野頼兼に従い、昨年8月19日以来須古山(須子山)に陣取り、18日に高津・稲積両城を攻め落としたとする軍忠状を提出する(『益田家文書』)。
【写真左】切岸
 西側から緩やかな登り勾配が続いてきたが、ここで切岸に遭遇。明らかな郭段の様相を呈してきた。
 密集していない樹木の間をかき分け、上に向かって這い上がる。











 しかし、邦光はその後も石見南朝方を鼓舞すべく、彼らを率いて都を恢復しようと遠大な計画を主張したが、石見在地の武士たちから賛同を得られず、国司の立場であった邦光と三隅氏らの間に次第に隙間が生じ、石見を立ち去った。

 邦光は一旦南朝方の本拠・吉野(大和)へ帰還したが、その後も菊池氏らが戦っていた阿蘇(肥後)(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山) 参照)にも赴いたという。

 彼のこうした行動を見ると、いささか他人の意見を聞かず、猪突猛進のタイプにも思えるが、その神出鬼没なフットワークには驚かざるを得ない。

当城周辺部の変遷

 山頂に本丸を置き、北東部には二の丸、西側には三の丸を配置していたが、先の大戦中食糧難のため、本丸から二の丸付近は伐採・開墾がなされ、さらに西側の三の丸側は砕石場となったため、北側の道路から見ても景観が大きく変わった。
 近年では城域内に高圧電線の鉄塔なども建ったことから遺構の残存度はあまり期待できないが、それでも主だった郭の跡はなんとか残っている。

出土品・小札

 ところで、この稲積城跡から甲冑の部品の一つである小札(こざね)が3点発掘されている。土の中からボロボロにさびた鉄製品を発掘した際、以前は同定する術が確立していなかったが、近年はエックス線撮影という技術で解明できるようになった。
 件のものは鎌倉時代から南北朝時代のものであるという。しかもこの時代のものとしてはかなり高価な甲冑だったことから、南朝方の大将クラスのものだったかもしれない。
【写真左】切岸の上から下の畑地跡を見下ろす。
 戦時中の開墾箇所はおそらく切岸の下までだったのだろう。
 従って、当時(南北朝期)は畑地跡も郭段(三の丸か)があったのかもしれない。
【写真左】主郭・その1
 切岸を越えて振り返ると鉄塔が目に入った。当城の最高所(78.9m)の位置で、主郭のあった場所となる。
 こうした工作物が設置されているので、周辺は相当改変されたのか遺構らしきものが見当たらず、変化のない削平地となっている。
【写真左】主郭・その2
 鉄塔付近で三角点を探してみたが見つからなかった。
 鉄塔から北西の方向は藪になっているが、ほぼ同じ高さで少し伸びており、この部分は実際には長径70m×短径40m前後もあり、当時(南北朝期)の状況を考えると、北側(藪側)に主郭としての中心を置いていたのかもしれない。
【写真左】三角点?
 縁の方に見えたもので三角点のような杭が見えるが、→がついているので境杭かもしれない。
【写真左】主郭の南側
 少し盛り上がっているので土塁跡か。


【写真左】東側の段
 主郭から少し東の端に来たところで、郭段の形状が残る。


【写真左】二の丸・その1
 主郭の東側に階段が見えたので、そこから降りてみると御覧の郭段がしっかりと残っている。
 これが二の丸だろう。
【写真左】二の丸・その2
 二ノ丸の北側まで向かったが思った以上に奥行がある。
 また、その先は藪化しているが、上の主郭から帯郭の様相が読み取れたので、北側を囲繞する構図となっていると思われる。


【写真左】二の丸から主郭を見上げる。
 高低差は7m前後はあるだろう。

 このあと、部分的に残る階段を目安に下に向かう。
【写真左】緩やかな斜面
 先ほどのような郭の形状は認められないが、当時は小郭が階段状に設置されていたのかもしれない。
【写真左】七尾城が見えてきた。
 結局東側にあった階段を頼りに降りて行ったが、この階段はどうやら鉄塔の施設管理用に設置されたもののようだ。
 途中で東方に益田氏居城の七尾城(左側の奥の山)が見えてきた。
【写真左】下山口(登城口)
 結局、稲積山城の登城道として利用できるのは東麓部にある鉄塔管理用の道しかないようだ。
 ただ、電柱の右側にあり、冬でも草丈が伸びているので、よほど注意してみないと見過ごすかもしれない。


机崎神社と稲積神社

 既述したように稲積山城が築かれたのは南北朝期である。それ以前には山頂部に稲積神社が祀られていた。当社が創建された時期は聖武天皇の天平年間(729~749)といわれ、最初は稲積山南麓にあった。

現地の説明板より

‟机崎神社説明板

《御祭神》宇迦魂命 大国主命 猿田彦命
《由緒・歴史》


 古伝によれば、この机崎神社は奈良時代、聖武天皇の天平年間(約1200年前)、背後の稲積山に五穀産業海運の祖神である宇迦魂命、大国主命、猿田彦命の三柱の神様を御祭神として奉斎したことに始まります。

 平安時代には稲積山に官柱を新たに造営し、稲積神社と称して、盛んな祭祀を営みました。鎌倉時代初期、益田兼高公が七尾城主となるや、神威は更に増し、南北朝時代初期、興国2年(1341)の争乱の時に山頂の神社を現在地に遷座し、机崎神社と称するようになりました。

【写真左】机崎神社遠望
 稲積山城の東~南を流れる多田川を挟んで南東におよそ100mほど向かった土井町に建立されている。



 その後、益田氏の居城七尾城が建久4年(1193)に築かれると、益田兼高が稲積山山頂を削平し、当社を移転した。それに併せ城下に町割りなどが敷設され、七尾城下と共にこの水分地域も人々が集うことなる。

 春耕・夏耕・秋収・冬蔵それぞれの節目に祭事が行われ、夜間神社境内に大篝を焚き、歌や踊りさらには仮面衣装の男女が出でて、牛馬をも持ち出し賑やかな祭事を行ったという。神事が終盤に差し掛かると、大篝火が燃えつくし、その柱が倒れる。その柱の倒れ方によってその年の豊作の吉兆を占った。
【写真左】机崎神社
 本殿後背には稲積山城が控える。










 稲積神社は南北朝期(興国年間)日野邦光が稲積山に城郭を築くようになって、山頂にあった社を南麓の机崎に遷座することになる。それが現在の机崎神社である。


長州軍陣地

 ところで、稲積山城及び、机崎神社は、時代が下った江戸末期の慶応2年(1866)、長州軍と幕府軍が戦った益田の戦いで長州軍が布陣した場所でもある。

現地の説明板より

《机崎神社 益田戦争長州軍陣地》

 幕府は慶応2年(1866)第二次長州戦争の軍を起こし、四境より戦端が開かれ石州口の戦場となったのが益田でした。幕府軍は浜田藩、福山藩の連合軍で、6月17日の朝、萬福寺と勝達寺(天石勝神社)、医光寺に布陣しました。
 村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍は、幕府軍の動きを読み、16日には扇原関門に迫りました。
【写真左】岸静江国治の墓
所在地:益田市多田町
 机崎神社の前を流れる多田川をおよそ2キロほど遡ったところに建立されている。
 
 岸静江国治は、圧倒的な数の長州軍の来襲を知り、部下や農民らを先に退去させ、一人で仁王立ちして死守したが、長州軍の敵弾を受け、敢え無く絶命した。
 藩命とはいえ、わずか31歳の若さだった。合掌。


 扇原関門の関守は浜田藩士岸静江国治、少数の士卒そして農民兵16名のみです。藩命を遵守した岸静江は開門を迫る長州軍を断固拒絶し、槍を構えた立ち姿のまま銃弾を浴び絶命したといいます。藩境の扇原関門を突破した長州軍は、机崎神社に集結し、指揮を執った村田蔵六が傍らの稲積山で敵情視察をし、幕府軍の動静を探り、作戦を立てたといわれています。

 平成27年2月吉日  益田市観光協会”
※赤字 管理人による。

2020年1月26日日曜日

松前城(愛媛県伊予郡松前町筒井1440)

松前城(まさきじょう)

●所在地 愛媛県伊予郡松前町筒井1440
●別名 正木城、真崎城、松崎城
●指定 松前町指定史跡
●形態 海城
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 合田氏、河野氏、粟野氏、加藤嘉明等
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年11月26日

◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第16巻」、HP 『城びと』、HP『城郭放浪記』等)
 伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) から南西方向へおよそ8キロほど進むと、伊予灘に注ぐ重信川河口付近に松前城が所在する。
【写真左】松前城跡に建つ石碑
 現地は都市化によって大幅に改変され、遺構を残すものはほとんどなく、盛土によってその位置を示すものしかない。


現地の説明板より

”松前(まさき)城址

 この辺りは、古くに松前城があったところで、この碑は、松前城の歴史を後世に伝えるため、大正14年(1925)に建立したものです。題額は旧陸軍大将 秋山好古(よしふる)の書で、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)によるものです。

 松前城の歴史は古く、その起源は平安時代にさかのぼると伝えられていますが、松前城の名が初めて文献にあらわれるのは、大山祇神社文書の「祝安親(ほふりやすちか)軍忠状」による祝氏の軍功報告においてです。それによると、建武三年(1336)、松前城にたてこもる南朝方の合田弥太郎定遠(さだとう)を北朝方の祝氏が攻め落とした旨記されていますので、松前城はすでに南北朝時代には存在していたことになります。
【左図】松前城 想像図
 残された記録から管理人が想像で描いたもので、左側は外堀を介して伊予灘が接し、北側は伊予川(重信川)が西進している。




 松前城に拠った武将も湊川の戦いには北朝側として戦い、楠正成を敗った大森彦七やその大森氏を滅ぼした荏原の平岡氏などが次々に入れ替わりました。

 やがて南北朝時代が終わり、室町時代を経て戦国期になると、松前城は河野氏の居城湯築城の出城として、西方海上防衛の前線基地の役割を果たすこととなり、河野氏家臣の栗上氏が詰めていた頃には、豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻してきたため、松前城では攻防の激戦が幾度となく繰り返されました。
【写真左】西側から遠望
 松前城の西側は県道22号線が南北に走っているが、このあたりはおそらく内堀や外堀があったところだろう。



 天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国平定後は河野氏の当主通直(みちなお)は、夫人の実家のある安芸国竹原に退去し、天正16年(1588)、淡路国志智城(しちじょう)主1万5千石の加藤嘉明が久米、温泉、乃万、伊予の中予四郡6万石の領主として松前城の最後の城主となりました。
 松前城に入城した嘉明は城内にあってこの城の起源と深くかかわってきた性尋寺(しょうじんじ)を金蓮寺(こんれんじ)として、今の西古泉に移したうえ、城郭内外の拡充整備を行いました。同時に松前を乱流していた伊予川とその河口の港の大改修に取り掛かりました。
【写真左】石碑・その1





 慶長2年(1597)には、秀吉の命により、2千4百余の兵を率いて朝鮮に出兵し、その功で10万石に加増されました。秀吉の死後、徳川方として戦った関ヶ原の合戦でも戦功をあげ、20万石に加増され、慶長8年(1603)、新たに築城した松山城に移り、松前城は廃城とされました。

 松前城に使われていた石垣や櫓などの資材は、松山城の築城に使われ、廃城後の松前城は、「古城(ふるしろ)」と呼ばれますが、その跡地は次第に農地化され、明治期に行われた耕地整理により地形は一変しました。唯一、二の丸跡に残されていた龍燈の松も、大正11年(1922)に倒壊し、古城跡は消滅しました。

 この松前城は、龍燈の松があったところで、昭和44年(1969)に史跡として松前町文化財に指定しました。
      松前町教育委員会”

【写真左】石碑・その2
 大正14年に建立されたもので、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)氏のもの。









南北朝期

 松前城の築城期及び築城者については上掲した説明板にも史料がなくはっきりしないとしているが、おそらく源平合戦が行われた平安後期頃であろう。記録として残るのは南北朝期で、『集古文書』(『大山祇神社文書』)によれば、南朝方の合田弥四郎定遠が籠城していて、建武3年(1336)北朝方の河野通治の臣・祝彦三郎安親が攻め、合田弥四郎は由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘) へ敗走したといわれる。

 その後応安元年(1368)当城には北朝方の宍草入道出羽守が守城していたが、河野通直(土居構(愛媛県西条市中野日明) 参照)の攻撃によって落城、以後河野氏の支配となり、同氏の将栗上通宗・宗閑の居城となった。その後、戦国期に至るまで目立った記録がないところを見ると、そのまま河野氏の居城として続いたものと思われる。

粟野秀用

 戦国に至ると、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で当城は小早川隆景の前に開城した。その後、文禄年間(1592~)になると粟野秀用が7万石を領して入城した。

 粟野秀用(あわのひでもち)、余り馴染みのない武将だが、もともと奥州伊達政宗の家臣である。しかし、仔細あって当地で罪を犯し死罪を言い渡されると、これを知って逃亡した。京都に出奔したのち、尾張で豊臣秀吉に仕える機会を与えられ、武功を挙げた。これに対し秀吉は知行一万石を与えた。それを知った政宗は、秀吉に秀用を引き渡すように要求したが、秀吉が拒否したため政宗は秀吉の威光に恐れたのだろう、それ以上追及しなかった。

 その後、上述した四国攻めの際は、再び武勲を挙げ、その功に依ってこの松前城10万石を与えられることになった。その後、秀用は秀吉の命により豊臣秀次(近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町) 参照)に仕え、さらなる加増を与えられていくことなる。
 しかし、文禄4年(1595)6月、突如として秀次に謀反の疑いが掛けられ、この秀次事件に連座して京の三条河原にて斬首された(一説には、大雲院に入って秀次の無罪を訴え自害したともいわれている)。

 秀吉による秀次事件の処罰は常軌を逸したもので、誰も諫めることができなくなった独裁者の典型的な末路であるが、それにしても、犠牲となった秀用をはじめ多くの無実の者たちは、実に憐れとしかいいようがない。
【写真左】歩道側から見る。
 車で走っていると見過ごすほどの小規模なものなので、近くに車を停め、じっくりと歩いて向かった方がいいと思われる。




塙団右衛門(ばん だんえもん)

 さて、粟野秀用が斬首されたその年(文禄4年)、秀用に代わって入部したのが加藤嘉明である。加藤嘉明は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) で紹介したように、七本槍の一人で、のちに伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) を築くことになる。
 その嘉明に仕えていたのが塙団右衛門である。松前城跡には彼の事績を示す石碑が祀られている。

現地の説明板より

❝塙 団右衛門
     (1550頃~1615)

 遠江に生まれたと言われ、名は直之。18歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情径行、独断専行するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒に酔って人を傷つけ追放された。
 その後、加藤嘉明に仕え、各地を転戦し手柄を立てて次第に昇進し、大豪の士として認められるようになった。文禄の役(1592)では、縦横数メートルの旗を背負い活躍したという。
 文禄4年(1595)、嘉明が伊予国松前城に6万石の大名として封ぜられたときには、団右衛門も松前に住んでいたのであろう。
 関ヶ原の戦い(1600年)では、嘉明のとっておきの鉄砲隊を指揮したが、独断で突撃した。
【写真左】塙団右衛門の鎧
 下の写真にある奥出雲可部屋集成館に展示されているもので、普段は下段に紹介している田儀櫻井家(分家)がある出雲市多伎町の文化伝承館に収蔵されている。
 今回(2021年10月~12月5日)秋の企画展において展示された。






 奮戦したにもかかわらず、嘉明に「生涯、人の将たり得ず」とひどく責められた。
 団右衛門は納得できず、「遂に、江南の野水に留まらず、高く飛ぶ東海の一閑鷗」と床柱に墨書し、城を去ったといわれている。
 また、「義農之墓」に並んで後年建てられた、平田東助子爵撰文の「義農頌徳碑」に使われた石は、団右衛門が松前を去る時に振り返った橋に使われていた石であるとして名付けられた「団右衛門見返りの石」という。
 大坂冬の陣(1614)では、嘉明が東軍についたのに対し、団右衛門は豊臣方として本町橋(現、大阪市中央区)での夜襲戦を指揮し、快勝するなど活躍した。夏の陣では勇敢に戦い豊臣方大将の最初の戦死者になったという。
     松前町教育委員会”
【写真左】塙団右衛門の説明板
 現地に設置されている。










可部屋集成館

 ところで、説明板にもあるように塙団右衛門は最期は大阪夏の陣で、和泉国において討死するが、彼の嫡男直胤は母方の姓「桜井」を名乗り、広島の福島正則に仕えた。

 福島正則が改易になると、武士を捨て広島城の北方可部郷に移り、製鉄業を開始した。三世直重の代になると、鉄の鉱脈を求めて奥出雲の上阿井に入り、屋号を「可部屋」とし、以後奥出雲櫻井家として「たたら製鉄」の操業を発展させた。
【写真左】可部屋集成館
 所在地:島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655

 可部屋集成館は雪深い地であることから、毎週月曜日とは別に、12月中旬から3月中旬までは休館日となっている。


 現在当地(奥出雲町)には、その資料等を収めた「可部集成館」があり、奥出雲の三大鉄師(田部家・絲原家・櫻井家)の一人として繁栄を誇った桜井氏累代の資料が展示されている。

 因みに、奥出雲桜井家はその後、江戸時代になると、新たな鉱脈を求めて石見国との境になる神門郡奥田儀村(現:出雲市多伎町奥田儀)へ来住し、以後明治23年(1890)までのおよそ250年間タタラ製鉄を中心として栄えた。
 平成18年には「田儀櫻井家たたら製鉄遺跡」として国史跡に指定されている。
【写真左】田儀櫻井家たたら製鉄遺跡
所在地:島根県出雲市多伎町奥田儀
探訪日:2007年1月20日
写真:櫻井家別荘及び山内従事者の住宅跡に残る石垣。
【写真左】管理人の本家御夫婦と当地を訪ねる。
 探訪日:2007年6月13日
 本家(屋号:鍛冶屋)の先祖は、櫻井家に代々仕えた渡辺(渡部)家の系譜に繋がる。