2018年7月5日木曜日

豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)

豊田氏館(とよたしやかた)

●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷一ノ瀬
●形態 居館
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 豊田氏
●城主 豊田氏
●遺構 ほとんど消滅
●備考 一ノ瀬城
●登城日 2016年2月10日

◆解説(参考資料 『益田市誌』、HP 『城郭放浪記』、『日本城郭体系』等)
 山口県の西部を南北に流れる木屋川(こやがわ)の中流域には豊田町がある。現在下関市と合併しているが、「ホタルと出湯の里」として親しまれている。
 豊田氏館は、その木屋川支流の日野川沿いに築かれた館である。
【写真左】豊田氏館跡・その1
 西側から見たもので、この石碑の奥にある田圃が館跡といわれている。
 現在は土地改良されたため往時の面影はほとんどなくなっているが、この付近にあったといわれる。
 石碑には「豊田大領 豊田氏館跡 昭和41年3月建立」と筆耕されている。

 大領(だいりょう)とは、大宝元年(701)の大宝律令によってできた郡制に基づく郡司の最高職名で、その下には少領・主政・主帳がある。
 因みに、大領の別の呼称としては、「おおみやつこ」というものもあり、管理人の出雲国では延暦17年(798)、同国意宇郡の大領(おおみやつこ)の国造兼任を禁じる、という記録も残されている。


現地の説明板より・その1

“豊田氏の館跡

 豊田氏の2代目の輔平・3代輔行等が一ノ瀬に定住し、豊田郡司となった。
 大内、厚東氏と並ぶ防長の大豪族の一つである。居館のあった「広畠」は城山の東側のふもとの丘陵地で、すぐ上の山谷を「館ヶ浴」といい、隣地を「オビイ屋敷」といった。”
【写真左】【写真左】豊田氏館跡・その2
 同じく西側からみたもので、ここから300m程奥に向かったところには、館ヶ谷があり、椿の名所がある。

 また、写真奥の山を越えると南北朝期に当初長門探題側に属した豊田氏が宮方と戦った大嶺(美祢市)に至る。
【写真左】一ノ瀬城遠望
 豊田氏館の西側には一ノ瀬城が所在する。別名「豊田城」「松尾山城」「長谷山城」ともいい、豊田氏累代の居城といわれている。一ノ瀬は豊浦郡南部との出入口に当たり、現在の城戸といわれる地名もこのときできたものといわれている(後段参照)。
 なお、この日は時間がなく登城していないが、HP『城郭放浪記』氏が当城をアップしておられるので、ご覧いただきたい。


現地の説明板より・その2

“豊田種長追善供養板碑

 関白藤原朝臣道隆4世の孫輔長が土着し是れより豊田を名乗る。
 中世の豪族として、平安の中期より約300余年豊田を本拠として豊浦郡北部・大津郡にわたって勢力を保ち、一ノ瀬広畠に館を構えた11代伊賀守種貞、12代種長、13代種藤の鎌倉中期より南北朝中期の間は豊田氏の全盛であった。
【写真左】豊田種長追善供養板碑
 豊田氏館から少し南に降った位置の道路脇に建立されている。







 本碑は、観応3年(1352)種長が死去し、遺骸は長願寺に埋葬されたのちに供養板碑が建てられ、中央の二文字のキーリック(弥陀)カーマン(不動)の二文字の梵字が刻まれ、下方には人名の痕跡がある15,6人の殉死者の名前らしい。
 豊田氏の文献は、極めて稀な中にあって重要なものである。
 昭和51年3月31日町指定有形文化財に登録された。
  平成12年3月
      下関市教育委員会”

豊田氏

 豊田氏については、残念ながら詳細な記録はあまり残っていない。
 説明板・その2に、関白藤原朝臣道隆4世の孫輔長が当地(豊田)に土着して豊田氏を名乗ったと記されている。関白藤原道隆は平安時代中期の公卿で、藤原北家、摂政関白太政大臣藤原兼家の長男である。冷泉天皇から円融・花山、そして一条天皇の4代を補佐した。
【写真左】追善供養板碑脇の石碑
 板碑脇には筆耕文字が劣化した石碑が祀られていた。劣化していて判読は困難だが、「本堂……」という文字が読めたので、おそらくこの場所は豊田氏に関わった寺院の一つ長願寺跡を示すものだろう。

 因みに、当時一ノ瀬城に向かう道には北・西・南の三方があり、それぞれの道中には、万福寺・明見寺・満願寺(北方側)、勇徳寺・福林寺(西方側)、そして板碑が設置された南方側には、後真院・長谷観音、及び当該地にあった長願寺という寺院が建立されていた。
 そしてこれらの寺院は有事の際、召集した軍兵の屯所に充てられた。


 そして、この道隆の4世の孫が輔長とあるが、傍証となる具体的な史料も残っていないようだ。ただ、出典ははっきりしないものの、輔長が豊田氏を初めて名乗ったあと、2代輔平は豊田・大津両郡の領主となり、3代輔行は豊田大領、4代輔継は豊田惣領、そして5代種継は再び豊田大領とされている。

 次の6代については記録がないためはっきりしないが、『陽明文庫所蔵文書』応安2年(1167)正月21日付の太政官符によれば、豊田種弘が豊田郡大領に補任されていることが記されている。この種弘は輔長から数えて7代目となる。
 
 文永11年(1274)10月、元軍が筑前(九州)に来襲(文永の役)した際、11代伊賀守種貞は、同町一ノ瀬にあった山砦を堅固に修築したといわれている。これが後の一ノ瀬城である。種貞は地元では今でも勇将として語り継がれ、豊田氏といえば、伊賀守がその代名詞となっている。
【写真左】千人塚
 追善供養板碑の反対側(西方)の田圃を見ると、畔の奥に千人塚が祀られている。

 由来などははっきりしないが、おそらく南北朝期のものだろう。
 


 ところで、霜降城(山口県宇部市厚東末信)を本拠とした厚東氏もまた豊田氏と同じく防長の大内氏をはじめとする豪族の一つであった。

 当稿でも少し触れているが、鎌倉執権体制の瓦解にともなって、長門探題北條時直は宮方であった石見の吉見・高津両軍(高津城(島根県益田市高津町上市)参照)からの攻撃を受けることになる。このとき時直は厚東氏及び豊田氏らにその防戦を命じている。正慶2年・元弘3年(1333)3月のことである。
【写真左】追善供養板碑側から一ノ瀬城を遠望する。
 写真右側に追善供養板碑があり、左側の田圃の中に千人塚が祀られている。





 同年3月29日、両軍は大峰(現:山口県美祢市大嶺町)で対峙した。南側に陣した探題側は厚東武実をはじめ、豊田氏の主だった面々には、豊田胤藤(種藤)・種本・種長らがいた。この時の緒戦は吉見軍の活躍で、厚東武実・豊田種藤を敗走させ、その後高津長幸らの熱心な誘いを受けた厚東氏は宮方(後醍醐天皇派)に恭順の意を表した。
【写真左】大峰周辺
 写真は現在の美祢市大嶺町の街並み。

 南北朝期には同町を流れる厚狭川(あさがわ)を挟んで武家方と宮方の激しい戦いがあったものと思われる。



 なお、豊田氏のその後の動きについてははっきりしない点が多いが、種藤もその後河越安芸守・坂田・右田の諸軍とともに宮方に属したとされている。

2018年6月12日火曜日

吉川興経館(広島県広島市安佐北区上深川町)

吉川興経 館(きっかわおきつね やかた)

●所在地 広島県広島市安佐北区上深川町
●形態 居館
●築城期 天文16年(1547)
●城主 吉川興経
●備考 吉川千法師墓・豊島兄弟墓
●登城日 2016年2月5日

◆解説(参考文献 『千代田町史・通史編』等)
 吉川興経の館跡は以前紹介した木之宗山城(広島県広島市安佐北区上深川町)の北東麓に所在する。
【写真左】吉川興経の墓
 吉川興経居館跡に興経の墓が建立されているが、後段でものべているように、居館跡とされる敷地も大変に狭い。




現地の説明板より

“吉川興経居館跡

 吉川氏は鎌倉時代から山県郡大朝町を本拠とした有力武士で、鎌倉時代には、小早川氏とともに戦国大名、毛利氏を支え、山陰地方の支配に当たった。享禄4年(1531)、吉川興経は毛利元就から小河内(現安佐町)などの地を与えられたが、出雲の尼子氏の配下となったため毛利氏と対立した。

 元就は天文16年(1547)、興経をこの地に幽閉し、元就の二男元春を吉川家に入れることに成功した。そして天文19年(1550)、元春を小倉山城(大朝町大字新庄)へ入城させたのち、この居館を襲撃させ、興経とその子千法師を殺害した。興経の遺骨はそのままこの地に葬られ、墓所となっている。

【左図】「吉川 史跡案内図」
 現地に案内図が設置してあるが、大分劣化していたため、管理人によって加筆修正を加えている。
 吉川興経居館跡・墓及び、手島五人兄弟の墓はいずれもJR芸備線の上深川駅の近くにある。



吉川氏と尼子・毛利氏の繋がり

 安芸・吉川氏については、駿河丸城(広島県山県郡北広島町大朝胡子町) の稿でも述べたように、鎌倉時代末期の正和2年(1313)、吉川経高が駿河国(静岡県)から安芸国山県郡大朝町(現北広島町)に下向し、その後小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)に移るまでの凡そ230余年にわたって当地周辺を支配した一族である。
 安芸・吉川氏の祖といわれている経高から数えて9代となる当主が興経である。

 興経の生誕年は永正5年または永正10年(1518)といわれており定かでない。父は元経で、母は毛利弘元(多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)参照)の娘といわれている。すなわち、元就の甥に当たる。
【写真左】吉川氏と毛利・尼子氏の関係
 元春(毛利)が吉川家に養子に入る前の関係図で、興経の母は元就の妹(姉とも)に当たり、元就の妻は興経の祖父・国経の女で、興経の叔母に当たる。



  ところで、説明板にもあるように、興経が享禄年間に尼子氏の配下となって毛利氏と対立した、と記されているが、吉川氏は興経の曽祖父・経基の代には、本国安芸をはじめ、石見、出雲両国の領主たちと積極的に婚姻関係を結んでいる。

 具体的には、本国安芸では、笠間・綿貫・三須・小河内の諸氏、石見国では、佐波・波根の諸氏、そして出雲では尼子氏と多賀氏である。特に注目されるのは、経基の娘(吉川夫人)が尼子経久の正室として嫁いでいることである。
【写真左】腹切石
 居館手前に残るもので、攻撃を受けた吉川興経は奮戦したがかなわず、屋敷内にあったこの石の上で腹を切って自害したと伝えらえている。



 毛利氏と婚姻関係を初めて結んだのは、次の国経の代からで、石見では小笠原・高橋・福屋などがあり、特に小笠原氏とはかなり以前から婚姻関係を結んでいた。そして、国経の娘が元就の正室として嫁いでいる。つまり、興経の叔母が元就の妻である。

 吉川氏が興経に至るまで、大内氏をはじめ、尼子氏や毛利氏とこうした婚姻関係を結びながら命脈を保ったものの、しかし興経の代にると、彼の独断専行や、元就の台頭によって次第にそのバランスは崩れてきた。
【写真左】吉川興経居館跡
 周囲は一般民家の建物に囲まれ、周囲が塀で囲まれている。
 塀で囲まれた跡が居館跡ということだが、中は予想以上に狭く、この中に興経の墓が祀られ、居館跡というより霊廟のような趣だ。

 このことからおそらく当時はもう少し大きく、隣接する民家も居館跡の敷地だったのかもしれない。


興経と吉川家臣団の軋轢

 興経の変転ぶりは激しかった。有田合戦のときは元就と共に戦い、尼子氏による郡山城包囲合戦では尼子方につき、尼子が敗走すると、今度は大内氏につく。そして富田月山城攻めでは、途中から再度尼子方についた。
 こうした興経の行動に対し、大内氏は天文12年(1543)8月、吉川氏の所領全てを没収、これらを毛利氏に与えた。しかし、元就は大内氏に興経の赦免を願い出たため、興経が出雲から帰国できたという(『陰徳太平記』)。
【写真左】居館と興経の墓
 ごらんのように、居館の敷地は石を積み上げた墓のみが残っている。








 このように、当初元就は興経の行動に対し、ある程度寛大な対応をしていた。これは興経が元就にとって甥であったことも働いだのだろう。

 小倉山城に戻った興経であったが、その後彼は大塩右衛門尉という一人の家臣を重用し過ぎ、他の譜代家臣から反感を買い、家臣団との軋轢を深めていった。そしてその施政は横妨極まるもので、ついに叔父の吉川経世をはじめとする面々は、大塩の館を急襲し右衛門尉一家を殲滅させた(『陰徳太平記』)。
【写真左】吉川家系図
 この頃軋轢が生じたのは、同家(吉川家)では伝統的に一族・重臣の発言権が強かったことも影響しているのかもしれない。

 興経が家督を継いだとき、すでに元経は死没しており、祖父国経が後見役を務めていたものの、天文13年(1544)に亡くなると、興経は独断専行し始める。


興経の隠居を巡る毛利氏との交渉

 この後、彼らは興経を隠居させ、元就の二男元春を養子として吉川家の家督を継いでもらうことを元就に申し入れた。元就はこれに対し、当初応じなかったが、叔父の経世をはじめ市川経好・今田経高ら一族の連判起請文が届くと、元就はこれに同意し次男の元春を吉川家に送り込むことを決意した。
【写真左】近くにあった石垣
 居館跡から少し東の方へ向かった、JR芸備線脇に残る石垣。
 上には民家が建っているようだが、この石垣は周辺の民家のものとは大分趣が違う。
 興経居館時代の石垣か、又はそれを再利用したものかもしれない。


 当然この計画は興経には内密で進められ、元春が吉川家を継ぐ前年の天文15年(1546)7月ごろには次のような交渉内容があったとされる。
  1. 興経の子・千法師は元春のもとに引き取る。
  2. 元春に男子、興経に女子が生まれたら二人を結婚させる。
この2点が合意内容の基本となっていた。さらに、経好ら重臣はこれらに加えて、次の6項目を提案している。
  1. 日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)(このころ興経が小倉山城から日野山城に移る準備をしていた)を渡すので、元春殿に登城してもらいたい。
  2. 但し、日野山城を何の代償もなく渡せば、世間では「城を追払われた」などと陰口をたたく者がいるだろうから、興経を隠居させるにあたっては、隠居分の所領を確保してほしい。
  3. 計画が成就した際、以前確約した「与谷城(※)は森脇祐有に与える」との話を今一度確認しておきたい。                         ※与谷城(余谷城:北広島町寺原字狼谷)
  4. 興経の隠居地については、できれば有田にしていただきたい。
  5. 隠居分としては、与谷城に付属する所領を充てていただきたい。これは将来城を持たせるときの備えである。
  6. 寺原へ退去した者も、寺原から当方(経世派の籠る与谷城か)に来た者も、ともにそれぞれもとに帰す(詳細は不明)。
 などとなっている。この後も度々交渉は断続的に行われ、最終的には興経自身も元就をはじめ隆元・元春兄弟に書状を送り、養子契約が成立した礼を述べ(『吉川文書』)、さらに天文16年(1547)2月には、一度は承諾した態度を示している。
【写真左】豊島(手島)兄弟の墓・その1
 興経居館跡の近くには、手島兄弟の墓が祀られている。







現地説明板より

“豊島(手島)兄弟・墓

 天文19年(1550)毛利元就は、熊谷信直・天野隆重に命じて、吉川興経を攻撃させた。不意を突かれた興経勢は、豊島5人兄弟(内蔵充興信、又四郎満武、又五郎弘光、又七郎頼達、又八郎重康)などが奮闘したがかなわず、ことごとく討死、または自害して果てた。

 豊島5人兄弟の墓は、当時は、いまより少し左の方に一つ一つ散在していたが、明治18年5月、第十一世孫岩国豊島諒がここに5人墓として建碑した。
    出展 藝藩通志、ふるさと高陽
    平成26年(2014)2月
    制作者 てくてく中郡古道プロジェクト・狩留家郷土○会
    協賛 株式会社 研創   (以下略)”
【写真左】豊島(手島)兄弟の墓・その2
 駐車場の一角に祀られているが、生垣で囲われているので意外と分かりにくい。





 ただ、興経に与える隠居分を巡って両家(吉川・毛利家)の思惑が一致していなかったようで、その後毛利側は元就・隆元・元春父子の3人の起請文によって次のような提案を伝えている(『古代中世史料編』)。
  1. 興経は毛利領に隠居させる。
  2. 興経に異心がなければ、我々も末代まで違背しない。
  3. 興経に与える隠居分は、興経の死後は子の千法師に与える。
  4. 大内氏から要求されても、興経を渡すようなことはしない。
  5. 興経を備後に送り出して、再び尼子氏と手を結ばせるようなことはしない。
 とあり、とくに3.~5.は吉川氏からの疑念に応えたものである。
 毛利側からのこれら起請文に対し、興経は承諾・誓約した。そして翌閏7月、交渉を担った吉川経世・経好、今田経高の3人も血判起請文を毛利家に提出し、異心無きことを誓った。
【写真左】千法師の墓・その1
 興経の嫡男千法師の墓は居館跡から東へ直線距離でおよそ400m程向かった椎村山の西麓に祀られている。


興経の隠居と
      元春の吉川家相続

 『陰徳太平記』によれば、興経の隠居地は深川(広島市安佐北区)とされ、8月1日(天文16年)、手島内蔵允ら(豊島兄弟)わずかの家臣に伴われて新庄(北広島市)をあとにしたという。そして、興経は新庄から遠く離れた毛利領の深川に幽閉され、元春が吉川家を相続する手続きが完了した。

 最終的に大内氏がこれを正式に承認したのは、天文18年4月(『吉川家文書 430号)とされ、興経が築城開始して間もない日野山城へ元春が入城するのは翌19年2月とされている。
【写真左】千法師の墓・その2
 興経の妻については史料がないため不明だが、興経の嫡男千法師の墓は居館から離れたこの山中に建立されている。
 襲撃を受けたとき、幾人かの家臣らが千法師を引連れ逃亡を図ったものの、この場所で囚われ、殺害されたと考えられる。

 因みに、この千法師と言う名前は、父興経も幼少期に名乗っているもので、殺害されたときはおそらく元服前の年齢だったのだろう。


興経父子の殺害

 結局、興経の隠居場所は、彼が望んでいた有田(吉川領)でなく、毛利氏が提案した深川となっている。実質上興経を拘束したいという毛利氏側の意向が半ば強引に決まったわけである。

 この間の興経の心情を示すものとして、天文16年2月から7月の間に、花押を二度も変えていることが挙げられる。また、退去して間もないこの年の8月17日、興経は元就に下記の書状を送った。
 「…もし私があなたに恨みを抱いて不穏なことを企てているなどという者がいたら、私のもとに送っていただきたい。私の異心のなき本心を言ってやります。…」
 この書状から想像するに、興経は幽閉されたあとも一縷の望みを持っていたのだろう。しかし、毛利氏の対応は次第に厳しくなっていった。
【写真左】中郡古道(なかごおりこどう)
 千法師の墓の脇には中世の古道といわれる中郡古道が横断している。

 この道は、毛利輝元が広島城築城のために、天正17年(1589)白木町に本拠をもっていた井原氏(北田城(広島県広島市安佐北区白木町井原)参照)に命じて、吉田郡山城から広島(城)への資材輸送・連絡道として整備させたもの。


 さて、興経が事実上の幽閉をされた天文16年から3年経った天文19年2月、毛利元春は日野山城に入城、姓を毛利から吉川と替え、吉川元春と名乗った。それから7か月後の同年9月、元就は深川に、元春の舅で高松山城(広島県広島市安佐北区可部町)の城主・熊谷信直、及び財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)の城主・天野隆重らを送り、興経・千法師を殺害した。ここに安芸・吉川氏の正統は断絶した。
【写真左】千法師の墓入口付近から上深川の街並みを遠望する。
 千法師の墓から少し下がった位置の高台には、(株)研創という会社があるが、そこの先端部から見たもの。

 興経館跡の南側にはJR芸備線と並行して県道37号線が走り、北側には三條川が流れ、同川はこの先で太田川に合流し、広島城に繋がる。


 残された記録からだけで興経の心情や、毛利方の対応を詳細に見極めることは難しいが、どちらにしても元就としては、丁度このころ三男の隆景を小早川家に養子として送り込む背景もあったことから、最終的には毛利氏による版図拡大を目指すため、安芸・吉川氏の根を断つ必要があったのだろう。
【写真左】木ノ宗山城遠望
 上深川の興経館跡から南西に目を転ずると、木ノ宗山城(木之宗山城)が見える。

 木之宗山城(広島県広島市安佐北区上深川町)の稿でも紹介しているが、当城の城主として吉川興経や、奥西綱仲の名が古記録に見えるとしている。
 もしも、幽閉されていた興経が実際に当城の城主となっていたなら、これが毛利氏による襲撃・殺害の最大の理由となるだろうが、監視され続けていた者が城を持つことは不可能だろう。


◎関連投稿

2018年5月25日金曜日

白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)

白巣城(しらすじょう)

●所在地 兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑
●別名 三野畑城
●指定 洲本市指定史跡
●高さ H:320m(比高200m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(安宅氏か)
●城主 安宅氏他
●遺構 郭・土塁・竪堀等
●備考 安宅八家衆
●登城日 2016年1月10日

◆解説
 先ごろの市町村合併により淡路島は、北から淡路市、洲本市、そして徳島県と接する南端部の南あわじ市の三つの区分となった。このうち、洲本市は同島の中央部に当たるが、今稿で取り上げる白巣城は、同市にあって旧津名郡五色町に築かれた山城である。
【写真左】白巣城
 西の丸に建立された安宅冬秀の石碑










現地の説明板より

“史跡 白巣城跡 (しらすじょうあと)

 洲本市五色町鮎原三野畑(あいはらみのばた)所在の白巣城は、標高320mの白巣山山頂に位置する戦国時代の山城で、別名「三野畑城」とも呼ばれています。江戸時代の地誌『味地草(みちくさ)』には「険阻にして要害無双の城なり」と記されています。

 永正16年(1519)に淡路守細川家が滅亡後、淡路島は三好氏の勢力下に入り淡路国人衆が台頭する戦国時代がはじまります。国人衆の中で最大の勢力を誇ったのが淡路水軍を率いていた安宅氏(あたぎし)です。

【写真左】案内図
 現地に設置された「白巣山生き物マップ」という案内図で、下方が北を示す。
 白巣城はこの図では左上に配置されている。






 安宅氏は淡路各地に城を構え、その主な城は「安宅八家衆(あたぎはっかしゅう)」の城と呼ばれ、白巣城も安宅八家衆の一つに数えられています。しかしその安宅氏も三好氏の衰退とともに次第に衰えていきます。そして天正9年(1581)、羽柴秀吉による淡路攻めで国人衆は秀吉軍に降伏、淡路国人衆の時代はここに幕を降ろすこととなります。 
【写真左】登城道途中に設置されているゲート
 城域の真下まで車で行けるようになっているようだが、ご覧の通り狭く、次第に急坂道となったので、安全のためこの日は、手前の空き地に駐車し、そこから歩いて向かった。

 因みにこのゲートから城域までは凡そ30分かかる。



 白巣城についての当時の資料は残っておらず、詳細なことはわかっていません。江戸時代の地誌『淡路国名所図絵』によると「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と記されています。他の地誌にも「安宅冬秀」が白巣城主であったと記されており、安宅冬秀城主説が現在最も有力とされています。 
【写真左】白巣城見取図
 北側から見た見取図になるが、説明板にもあるように、本丸を中心に右に西ノ丸を置き、少し下がって立岩、馬責場があり、東に延びる尾根には馬繋ぎ場、米倉、東の丸などがある。





 白巣城は、自然の地形をうまく利用して築かれており、縄張りの大きさは南北350m、東西約300mで戦国時代の淡路島の城の中でも最大級の規模です。 

 「本丸」「西の丸」「東の丸」「馬繋場(うまつなぎば)」「馬責場(うませめば)」「米倉」と呼ばれる曲輪が堀切により独立しており、土塁や竪堀など当時の遺構が今も良好な形で残っています。
 また東は大阪湾、西は播磨灘を望見でき、瀬戸内海や大阪湾を往来する船を監視するには最適の場所です。 

【写真左】この階段を上がる。
 登城道終点地点で、北側に当たるが、数年前までこの周りが崩落していたようで、この日訪れたときには復旧していた。



 秀吉による淡路攻めで淡路国人衆は悉く降伏し、淡路島は3日間で陥落したといわれています。その中で白巣城主は唯一抵抗し、秀吉軍の火攻めにより炎上し落城したと伝えられています。
 「竹の皮合戦」や「黄金の鶏(にわとり)」など落城時の伝説が今も地元で語り継がれています。

 平成24年3月29日に洲本市の史跡に指定され、大切に守り管理しています。”

【写真左】堀切
 階段を上がって少し進むと、さっそく堀切が現われる。









安宅氏(あたぎし)

 白巣城の城主といわれているのが、安宅氏である。安宅氏については以前取り上げた同市小路谷の洲本城でも紹介しているように、紀州熊野水軍の一族・安宅氏の出である。

 淡路に移る前の安宅氏の本拠地は、紀州の日置(ひき)川にあった安宅荘で、紀伊水道の河口周辺には海城を居城としていた安宅本城や、八幡山城などが残っている。
【写真左】西の丸・本丸方面に向かう。
 最初に西側に向かっていく。









 ところで、安宅氏が紀州に下向する前にいたのが、実は阿波国である。鎌倉末期に幕府から熊野海賊制圧の命を受け、阿波から紀州に派遣されたからだといわれているが、阿波国にあった時点で既に水軍領主として一定の勢力を誇っていたのだろう。

 このことから、元々阿波国にあったときは、安宅姓を名乗らず、紀州に下向してから安宅氏を名乗ったことになる。そして後に三好氏(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)から養子を迎えることになるが、同氏(安宅氏)が阿波国を本拠としていた点を考えると、遡れば同国の出である三好氏(阿波守護・小笠原氏庶流)の系譜に繋がっていたかもしれない。
【写真左】本丸と西の丸を連絡する郭
 手前が本丸で後ほど紹介するが、奥に少し高くなった箇所があり、西の丸が控える。
 本丸下の郭で、東側には馬繋場があり、そこから西まで伸びているので、本丸と西の丸を連絡する郭だが、馬繋場の一部としての役割をもったものだろう。


築城期

 当城の築城期についてもはっきりしないが、安宅氏が最初に築城したとされる洲本城とほぼ同じころ、すなわち永正年間(1504~)初頭と思われる。
【写真左】馬せめ場降り口
 さきほどの郭から西に降りていくと、馬せめ場が控えている。

 「馬せめ場」とは「馬攻め」すなわち、調教する場所だが、この日はそこまで向かっていない。見取図を見る限りあまり広くないようなので、実際には上掲の本丸と西の丸を連絡する郭での使用が多かったのかもしれない。


安宅九郎左衛門尉冬秀

 白巣城の城主については、説明板にもあるように「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と書かれている。ただこれは江戸時代の地誌からの引用で、時期についても漠然としておりはっきりしない。

 因みに、三好元長の三男冬康(長慶の実弟)が安宅治興へ養子に入って安宅冬康を名乗っているが、白巣城の城主冬秀は安宅氏嫡流の武将である可能性が高い。
【写真左】西の丸に設置された石碑
 西の丸はさほど大きなものでなく、片隅には「白巣城」と筆耕された石碑が建つ。
【写真左】西の丸から瀬戸内方面を眺望する。
 麓は五色町の街並み
【写真左】立岩
 西の丸から下に降りると馬責場があるが、その途中には郭の隅に縦に長く伸びた岩が見えている。
 このあと、少し下に降りてみる。
【写真左】二条の堀切
 上から見たもので、尾根幅は少し狭くなって、小規模な二条の堀切が確認できる。

 このあと、Uターンして本丸を目指す。
【写真左】本丸途中の段
【写真左】本丸
 本丸はきれいに削平され整備されている。連れ合いが合掌しているのは、左側に祠が祀られているからである。

 このあと、本丸の東南に伸びる郭段に向かう。
【写真左】馬つなぎ場
【写真左】虎口か
 馬つなぎ場の一角には開口部があった。おそらく虎口の一つだろう。
【写真左】土塁
 馬つなぎ場の二辺は土塁が構築されている。そのうち一辺は2m近い幅を持つ。
 また、隅の一角には礎石や列石の一部が残っている。

 このあと東の丸に向かう。
【写真左】米倉
 東の丸に向かう途中には米倉が配置されている。

 この箇所だけ独立した単郭で、周囲より2m前後高くなっている。構造から考えて、米倉と併せ物見櫓的な役割も担っていたのかもしれない。
【写真左】堀切
 米倉の付近にはご覧の堀切がある。
【写真左】東の丸
 この位置から右方向が大阪湾に当たる。
【写真左】東の丸からさらに伸びる尾根
 この尾根先端部からさらに下に降るようになっていたので、降りてみる。
【写真左】竪堀
 見取図には描かれていないが、途中に竪堀が構築されていた。








◎関連投稿

2018年5月15日火曜日

加井妻城(広島県三次市粟屋町上村)

加井妻城(かいづめじょう)

●所在地 広島県三次市粟屋町上村
●別名 青屋城・加伊津女城・飼地城・卑城
●高さ 標高224m(比高60m)
●築城期 永正元年~大永3年(1504~23)頃
●築城者 青屋出羽守友梅、三吉氏一族
●城主 同上
●遺構 郭・堀切・土塁・溝状遺構・集石遺構・建物跡
●登城日 2015年12月13日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 加井妻城は、安芸国では可愛川といわれる江の川と、その支流上村川との合流点に築かれた山城である。
【写真左】加井妻城遠望
 東側から見たもので、北麓を中国自動車道が走り、東麓を流れる可愛川は、北麓を流れる上村川と合流したのち、手前に向かって東進し、三次市街地に入って馬洗川などと合流したのち、江の川となって石見国(島根県)に流下していく。
 
【写真左】加井妻城の鳥瞰図
 『日本城郭体系』にある要図を参考に管理人によって描写したもの。
 この図では描いていないが、現在下方には上の写真にもあるように、中国自動車道が上村川と並行して走っている。可愛川(江の川)では同道の橋脚が掛けられている。



主な遺構

 最初に、上掲した鳥瞰図を基に主な遺構を記しておきたい。

 同図にもあるように、当城は平均的な連郭式山城の形態をなしている。先ず、当城の本丸に相当する郭が①の箇所にあたり、その背後には堀切が配置されている。郭①は48m×20mで、この位置から尾根は次第に細くなっていく。

 ④郭は31m×33mを測るが、この場所から柱穴と見られるものがいくつか検出され、小規模な建物跡の存在が確認されている。さらには、青磁・備前焼・瀬戸焼・鉄滓・釘・飾金具・土錘など多くの遺物が出土している。
【写真左】登城開始
 当城には案内標識などは全く設置されていない。このため、大雑把な地図と、勘を頼りに向かう。

 当城西側の谷から向かうことにした。あとで分かったのが、登城道としてはこの写真の左、即ち⑧、⑨の郭が配置されている尾根突端部の麓に、中国自動車道の点検タラップがあり、ここから向かえば、直ぐに郭段に繋がっていた。

 しかし、管理人が登城してから数日後、このタラップの入口に鎖が掛けられ、道路関係者でないと使えないようになってしまった。




 ⑦郭はご覧のように、当城最大の規模を持つ郭で、58m×40mを測る。この郭からは炭化物・焼土・集石遺構・ピット状遺構・土壙などが検出され、礎石などの石から建物が4,5棟建っていたものとされる。遺物としては、青磁・青花・備前焼・釘・古銭などがあることから、④郭と同じく、当城の中でも重要な場所だったと考えられる。

 西側に伸びる尾根には⑨郭があり、28m×22mの規模を持つもので、少なくとも2棟分の建物があったとされる。当該郭からは鉄蓋(てつぶた)・鋤先(すきさき)・陶磁器・飛石とみられる石や、鉄滓などが検出されたことから、野鍛冶の作業場があったとみられている。

【写真左】道が消滅
 左側が加井妻城の西側斜面に当たるが、険峻であることから、道が消滅していた。さらに奥に進むと、今度は泥濘状となり、足は度々すくわれ、悪戦苦闘。さらに連合いの杖が鳥獣捕獲器トラップにかかり、ついに彼女から登城拒否を宣告される。

 流石に管理人も途中で断念しようと思ったが、尾根にたどり着けば、きっと見ごたえのある遺構があるからと宥めすかしながらなんとか前に進む。


三吉氏

 当城については、前稿安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)でも少し触れているが、大永3年(1523)3月、高橋大九郎久光が当城を三千騎で攻め落城させたが、高橋父子はこの戦いの最中、油断から討ち取られ高橋勢は敗走したといわれる(『陰徳太平記』)。
 そして、この地が高橋氏と三吉氏との領地の境とされ、数年来両者は争っていたといわれた場所でもある。
【写真左】溜め池
 鳥瞰図にも示しているように、辿ってきた谷の最深部にはごらんの溜め池が残っている。
 北側の堤体は大分劣化していたため、漏水していたようだが、それでもいくらか水は溜っている。
 この溜め池は、上述したように当時の野鍛冶で使用されたものかもしれない。

 このあと、谷は二つに分かれ、東側の谷を登っていく。


 
 さて、このときの加井妻城の城主については詳しい記録は残っていないが、もともと比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)を居城としていた三吉氏一族とされ、さらには後段でも紹介している同族の青屋入道友梅ともいわれている。

 高橋大九郎久光の急死によって、三吉勢は逆転に転じ、久代(大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場)参照)・高野山・木梨(鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)参照)・楢崎氏(楢崎城(広島県府中市久佐町字城山)参照)などを味方につけ、5,000騎をもって高橋氏の本城・出羽城まで打ち出た。
 これに対し、高橋氏は当時娘を毛利興元に嫁がせていた関係もあって、毛利氏が加勢し、3,500騎で逆に攻めたてた。

 なお、ここでいわれている出羽城については、石見国の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)と思われる。
【写真左】切崖
 やっとの思いで尾根にたどり着き、南から伸びる尾根を眺めたが、その先には遺構はないようだ。そして、反対側の北を見ると、見上げるような切崖が目に入った。
 どうやらこの位置が当城の南端部に当たるようだ。この切崖も加工されたものだろう。

 ここから尾根伝いに北に向かって下がっていく。


 高橋・毛利の連合軍による反撃により、石見に進攻していた三吉勢は安芸国へ退却、加井妻城には城主青屋入道友梅をはじめとする200騎と、久代・高野山の選兵800余騎の計1,000騎で防戦することとなった。

 追討し加井妻城を取り囲んだ高橋・毛利勢ではあったが、しばらくして山口の大内義興が大軍を率いて安芸国に進攻、尼子氏が手中に収めていた西条の鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)を奪還した。
 これに対し、尼子経久は急遽出雲から西条を目指して南進、元就は経久に参陣するため、加井妻城における戦いは、一旦停止され、高橋・毛利勢の優勢のまま和議を結んだ。
【写真左】最高所の郭
 上図の鳥瞰図には描いてないが、この箇所も郭としての役目があったものだろう。







 因みに、尼子経久、毛利元就両軍が銀山城を攻撃したのは大永4年(1524)の7月から8月のことといわれている(『陰徳太平記』。

 翌年の大永5年になると、大内方の陶興房(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)が尼子方に属していた米山城主・天野興定を服属させ、8月には天野興定は興房と志方荘で尼子経久軍と戦っている。そして、最も注目されるのは、丁度このころから毛利元就は、尼子氏を離れ大内方に帰順していく時期でもある。
【写真左】堀切・その1
 鳥瞰図に示している南端部のもので、上の郭から見下ろしたもの。
【写真左】堀切・その2
 横から見たもの。なお、この堀切の東側には南北に細長い帯郭のようなものも付随している。
 このあと、更に南(左側)に進む。
【写真左】郭①
 堀切を登りきると、郭①に至る。
【写真左】郭②
 鳥瞰図では①と段差を持たせた郭として描いているが、現地は大分崩れたせいか、段差は無くなり、傾斜面で繋がって②に至る。

 奥行は20m程度とされているが、実際に踏査してみるともっと長く感じる。

 なお、①と②の間に礫が2,3段重ねてあるとされているが、この日は確認できなかった。
 このあと下に降りる。
【写真左】切崖
 ③の郭から見上げたもので、高低差がかなりある。
【写真左】郭③の先端部
 郭③は小規模なものだが、その先端部から下を見ると、かなりの高低差をもった切崖となっている。
【写真左】振り返ってみる
 この切崖もさきほどのものと同じ規模を持つ。
 この辺りから尾根は段々と傾斜がつき、尾根幅は狭まってくる。
【写真左】「狩猟」の標識
 下に向かって(北側)に降りていくと、途中でご覧の標識を発見。

 冒頭でも述べたように、中国自動車道関係者のエリアの一部でもあり、また「狩猟」用の罠(トラップ)などがあることから、今後一般人は入山しないほうがいいかもしれない。
【写真左】郭⑦の裏
 鳥瞰図には描いていないが、郭⑥から⑦に向かう途中にはご覧の様な高い土壇の塊がある。
【写真左】土壇
 石積というより、礫石が集積しているように見える。
【写真左】郭⑦
 当城の中でもっとも状態が良い郭。
 このほか、他の郭なども確認できたが、全体に小規模なものが多い。
【写真左】中国自動車道を見る。
 下方のほうで東と西に尾根は別れるが、そのうち西側の尾根を下がっていくと、眼下に中国自動車道が見える。
【写真左】勝山城遠望
 三吉氏が加井妻城が防御に弱いこともあって、のちに対岸にこの勝山城を築いたとされる。