2012年12月22日土曜日

日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)

日野山城(ひのやまじょう)

●所在地 広島県山県郡北広島町新庄
●別名 火の山城・日山城
●指定 国指定史跡
●築城期 天文19年(1550)以前か
●築城者 吉川元春
●標高 705m(比高300m)
●遺構 郭・空堀・土塁・石垣・井戸等
●規模 1,500m×800m
●登城日 2012年10月19日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 毛利元就の次男・吉川元春が築いた山城で、近在ではもっとも大規模なものである。所在地は、以前投稿した日野山城へ移る前の居城・小倉山城から4キロほど南下した日野山に築かれている。
【写真左】日野山城遠望・その1
 北方の小倉山城から見たもの。








現地の説明板より

“日山(ひのやま)城跡

 日山城は吉川興経のあとを継いで毛利氏から入った元春が、1550年に新庄小倉山城から入城して、それまであった山城をより本格的な城塞として整備した。
 1591年に孫の広家が、出雲月山富田城に居を移すまで吉川氏の本城として用いられた山城である。
 城は周辺一帯を見渡すことができる標高705m、比高300mの山頂に造られている。山頂の郭群は、「本丸」を中心に「二の丸」「池の丸」「姫路丸」「馬の段」など数十段の郭を東西約700mの範囲に連ねている。
【写真左】日野山城遠望・その2
 東麓を走る国道262号線から望む。

 登城口はこの道路の西側(中山峠付近)に案内板があり、そこから車で少し向かうと2,3台駐車できる駐車場が設置されている。


 なお居館(吉川元春館跡)は城の西南麓約3kmの海応寺にあり、途中には吉川元長の菩提寺(万徳院跡)が残っている。
 範囲数kmに及ぶ極めて大規模な日山城内には、庭・寺院跡などがあり、それまでの実戦的な中世山城とは様相を異にし、館的な役割も果たしていたと考えられる。
    昭和61年8月28日史跡指定
         北広島町教育委員会”
【写真左】登城道分岐点
 駐車場からしばらく歩いていくと、ご覧の分岐点がある。案内表示などはないが、左側の道を進む。

 なお、この分岐点にはかなり古そうな石積みがある。祠か何かがあったのだろう。




吉川氏累代の居城

 吉川氏の居城として、改めて同氏居城関係を整理しておく。
  • 日野山城    天文19年(1550)、10代元春(毛利元就次男養子)築城。11代元長・12代広家、居城期間約40年
  • 月山富田城(島根県安来市広瀬町)   12代広家移る。
【写真左】登城道
 しばらく谷筋を進むため、途中から渓流を登っていくような箇所が続く。

 登城する時期としては、雨季や夏季などは避けた方がいいだろう。間違いなく藪蚊と湿気で体力を消耗する。





日野山城の築城期

 説明板には築城期を1550年、すなわち天文19年と記してあるが、これより4年遡った同15年7月6日付の『吉川氏宿老手日記』には、

 火野山わたし申候て其まま二郎殿(元春)御座候て可然候事

 という記事があり、実際には山城築城の前から砦などの要塞施設があったものと思われる。ちなみに、元春が吉川氏に養子に入り家督を継ぐのは、天文16年で、併せて元就が家督を長男隆元に譲るのもほぼ同時期である。
【写真左】米蔵段付近の石垣
 渓流沿いのコースから次第に離れ北側の尾根を進んで行くと、「米蔵段」という郭が出てくる。

 登城道から少しそれた箇所にあるもので、文字通り兵糧貯蔵の場所である。

 その上段にはご覧の石垣が確認できる。



 ところで、吉川氏が正和2年から安芸国に来住して以来、居城の位置は次第に南下してきている。これは元春が吉川氏に養子に入ったことにより、さらに安芸国西部(山県郡等)を領有拡大し、併せて山陽・山陰の要所を抑えるために、より要害に適した標高700m余りの日野山を選んだ結果だと考えられる。
【写真左】中城
 大手道から進んで行く場合の最初のまとまった郭群で、「中城」又は「中城口」といわれる箇所。

 後ほど紹介する「大門の原」から比高40m下がった位置にあり、この写真の郭を含め、長さ30~50m前後の郭がこの先に6段連続して配置されている。

 位置的な観点から考えると、いわゆる「出丸」若しくは「前城」としての機能を持つものだろう。


 城の修復

 冒頭でも紹介したように、日野山城は大規模なもので、毛利元就の居城・吉田郡山城と同じく、広島県下では最大のものである。このため、元春が入城した天文19年以降も、修復・増築工事が行われていたようで、例えば永禄9年(1566)霜月(11月)1日付の小早川隆景が石見の益田藤兼に宛てた手紙でも

 “日山普請等被ニ申付一之条、兎角年内者可ㇾ被ニ相延一候”

とあり、10年以上当城の工事が行われていたようである。
 
 また、翌年には同じく益田藤兼の次男・元祥と、吉川元春の女との婚儀成立に対する礼を述べるため、藤兼が安芸吉田郡山城で元春と会う予定にしていたが、元春はこのころ日野山城の西麓に居館を建築中で、その年の出頭は取りやめになったという記録がある。
【写真左】中城から二の丸方面へ向かう。
 前記の中城(群)から二の丸までは、直線距離で250m前後だが、実際には歪な九十九折道を進むため、400m前後はあっただろう。

 当城の中でも最も急峻で、息が切れた箇所である。




遺構の現状

 さて、当城は1986年に国の史跡指定を受けている。
 指定理由は、歴史的価値や規模(遺構数の種類や数)などが抜きんでていることからと思われるが、登城踏査した限り、残念ながら現地の維持管理が定期的に行われていないように見受けられる。

 正直に言えば、小倉山城の整備状況に比べると、日野山城のそれは山城探訪者にとって、不満が残る。
【写真左】「大門の原」入口付近
 先ほどの難所を超えると、ご覧の平坦地が現れる。

 写真左側の切崖を登ると二の丸に当たり、右に進むと「姫路丸」という郭がある。
 大手道から見て左右に配置された郭群となる。

 従って、この位置は「大門の原」の入口に当たり、枡形の形態をなしている。


 しかし、登城してみて感じたことは、広島県下の主だった山城に比べ、登城口から城域に至るまでの道中(登城道)があまりにも険しく、整備するための機材搬入も困難であるからだろう。

 当城の管理主体はおそらく北広島町と思われるが、予算的な制約があって厳しいかもしれないが、せめて遺構箇所に設置されている古い標示板や、劣化して見えないものなどは更新してもらいたい。その際、できれば縄張図を「大門の原」付近に設置していただくとありがたいのだが。
【写真左】姫路丸
 先ほどの「大門の原」入口付近から北に伸びている郭段で、「客殿」と呼ばれる土塁状の郭で区画された北方支尾根上に連なる。

この写真の郭を含め、4段の郭で構成され北に伸びている。ただ、現地は手前の部分のみが踏査可能な箇所で、その先は荒れ原野となっているため、向かっていない。
【写真左】大門の原
 入口付近から50mほど進んで振り返って見たもので、左側に姫の丸、右を登ると二の丸に繋がる。
【写真左】大広間の段
 大門の原を過ぎて、しばらく行くと2m程度高くなり、再び広大な平坦地が出てくる。

 この写真は上側から見下ろしたもので、この場所がもっとも広く、戦いの前など多くの兵士がこの場所に集められたのだろう。

 なお、この先には大広間を囲むように土塁が構築され、そこから西に向かって、本丸、南に向かって二の丸へと繋がる。
 先ず二の丸に向かう。
【写真左】二の丸
 大広間の南側に構築され、西から東にかけて幅5~10m×長さ100m余の規模で、西側の土塁からさらに5m程度高くなった位置にある。
【写真左】二の丸から南方を俯瞰する。
 日野山城の眺望はあまりよくないが、この場所からは南方の千代田方面が確認できる。
【写真左】「下り丸」
 二の丸から再び本丸に向かう。一旦北方向に進み、再びそこから西に折れていくと、最初に大きな郭があり、そこから小規模な郭段が小刻みに西の方へつながる。

 なお、「下り丸」という名称はおそらく本丸から下るという意味から来たもので、個別には別の名称があるかもしれない。
【写真左】三の丸と本丸の分岐点
 下り丸を約100mほど進むと、尾根北側の道で「三の丸」と「本丸」へ向かう分岐点にあたる。
 先に本丸へ向かう。
【写真左】本丸・その1
 手前から見えた本丸の切崖
【写真左】本丸・その2
 標示板は確認できたが…
【写真左】本丸・その3
 全体はご覧の通り。
 2m以上は優にある立派な茅が成長し、まったく遺構の確認は不可能。
 記録では、60m×30mの長方形の平檀を、部分的に石垣で4段に区切っているという。

 そして東南部の広い郭には50cm大の割石による礎石が並んでいるというが、これではどうしようもない。

 この本丸部分は日当たりが良いため、茅の成長も早いのだろう。
 ひょっとして、この茅は本丸に建てられた建物の屋根にも使用されたのかもしれない。
【写真左】三の丸
 先ほどの分岐点まで戻り、北側に下る道を進むと三の丸が控える。

 本丸との比高差は約20m程度あり、北の尾根に向かって3段の構成となっている。
 当城の中では比較的遺構の確認がしやすい状況となっている。

 なお、北端部の郭は西の尾根筋に繋がり、最終的には西方を扼するようだ。


◎関連投稿
 周防・岩国城(山口県岩国市横山3)

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