2012年12月30日日曜日

吉田郡山城・その1(広島県安芸高田市吉田町吉田)

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)・その1

●所在地 広島県安芸高田市吉田町吉田)
●指定 国指定史跡
●築城期 旧本城 建武3年・延元元年(1336)、本城 大永3年(1523)
●築城者 旧本城 毛利時親、本城 毛利元就
●城主 毛利氏
●高さ 旧本城(標高300m/比高100m)、本城(標高400m/比高200m)
●遺構 本丸・二の丸等郭約130か所、堀・居館跡・石垣・土塁・井戸等
●形態 山城(放射状・輪状連郭式)
●登城日 2012年3月10日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今稿は安芸国(広島県)の吉田郡山城を取り上げたい。
 当城については、今さら紹介するまでもない有名な城郭だが、戦国期毛利元就の本拠城で、県下でも最大級の巨大山城である。
【写真左】吉田郡山城・本丸
 本丸櫓台から二の丸を見る。









 当城に最初に登城したのは、10年以上前だったと思う、余りの大きさに戸惑い、一部しか見ていなかったように記憶している。今年の3月久しぶりに登城した。
【写真左】立体的な案内図
 主だった遺構部分は、その都度写真で示す予定だが、この図は南麓部の駐車場に設置されているもので、分かりやすい案内図である。

 なお、この付近は市民の憩いの場としても整備されているようだ。
 ここで車を停めて、上に向かうと登城口の案内板がある。



現地の案内板より

“安芸 吉田郡山城

 郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336)毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。

 郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川の合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は1km四方に広がる。遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸のほか、御蔵屋敷の檀、勢溜の檀、姫の丸の檀など大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られる。
【写真左】洞春寺跡・毛利一族・元就墓所
 先ほどの駐車場からしばらく歩くと、毛利一族の墓所及び、洞春寺跡が見える。


 現地の説明板より

“洞春寺跡

 洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元年(1573)に菩提寺として、孫の輝元が創建し、元就の葬儀の導師であった嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんじ)を開山とした臨済宗の寺跡である。

 輝元の広島移城の際、広島城下に移ったが、毛利氏と共に山口に移転、まもなく萩城下に移された。明治2年(1896)、再び山口市内に移された。
 遺構は、等高線に沿って馬蹄形に6段の平垣面に区切ったもので、墓所のある段を中心に、3段が広く約4,000平方メートル(1,200坪)あり、この地に建物があったと考えられている。
    平成2年3月  吉田町教育委員会”

従って、遺骨などは既にないと思われるが、主だった墓としては、

  1. 元就墓
  2. 興元墓
  3. 幸松丸墓
  4. 隆元夫人墓
  5. 先祖合墓
  6. 百万一心碑
  7. 嘯岳鼎虎禅師墓
などがあった。

 天文9年(1540)9月、尼子晴久が3万の大軍を率いて来攻したが、毛利勢は小勢ながらよく戦い、翌年1月尼子軍を敗退させた。その後、毛利氏はこの城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばした。

 天正19年(1591)輝元の広島城移築後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。

 郡山城は中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。”
【写真左】本丸方面に向かう登山口
 さきほどの境内跡の西側に当たる個所で、ここから城域に向かう。
 





大江広元と毛利氏

 安芸毛利氏の系譜については、説明板にもあるように建武3年(1336)当地に旧本城を築いた毛利時親を始祖としているが、時親以前の系譜についてはおおよそ次の通りである。

 この毛利時親は、曽祖父を大江広元としている。大江広元は鎌倉開幕期の政所別当となった朝臣であるが、彼の子5人のうち、四男季光(すえみつ)が、相模国毛利荘(現神奈川県厚木市)入部し、毛利氏を名乗ったのに始まる。
【写真左】登城道・「本丸まで530m」の位置
 先ほどの登山口から本丸まではおよそ700mぐらいあるが、全体になだらかな道で、巨大山城の割に険峻な箇所は少ない。


 季光は承久の乱などで活躍し、一時は評定衆に列せられるまでになったが、後に鎌倉幕府の内乱「宝治合戦」の際、三浦一族に属して敗北、本人及び長男・次男・三男とも自刃した。

 しかし、四男経光はたまたま、この合戦に荷担していなかった(領地の一つである越後佐橋庄:現新潟県柏崎市にいた)ため許され、毛利荘は没収されたものの、他の所領は残った。従って、この四男経光がもし他の兄弟らと一緒に宝治合戦に参加していたら、この段階で毛利氏は滅びたことになる。
【写真左】登城途中から吉田の町並みを見る。
 吉田郡山城から麓を眺望できる箇所は少ない。
 この写真は唯一登城途中から俯瞰できた箇所。



 さて、からくも命を免れた経光の子には、6人の男子が生まれ、その中の四男時親がのちに安芸吉田荘を治めることになる。
 鎌倉幕府の終焉と南北朝の動乱が始まる頃である。時親には長男・貞親、次男・親元、三男・広顕の3人の男子があった。

 この時期は他の諸族同様、一族延命を担保するため、武家方(北朝)と宮方(南朝)にそれぞれ属させた。時親はかなり長寿であったらしく、最終的に曾孫(貞親の子・親秀衡の子で長男元春)とともに、延元元年(1336)吉田荘に移住し、最初の居城を築いた。これが郡山の南東尾根に築かれた旧本城である。
【写真左】左(釣井の檀・姫丸の檀)、右(本丸)との分岐点(蔵屋敷)
 登城道を登りきると、最初に見える箇所で、下図の「蔵屋敷」の入口付近に当たる。
【写真左】本丸を中心とした配置要図
 この位置から先ず三の丸に向かい、そのあと四方の尾根に構成された曲輪群に向かう。
【写真左】三の丸・その1
 当城の中でも最大の規模を持つ郭で、城兵が度々この場所に集められた場所でもあったと思われる。

 現地の説明板より

“郡山城の三の丸跡

 三の丸は、城内で最大の曲輪である。曲輪内は土塁や、削り出し等によりさらに4段に分かれている。
 二の丸とは、約35m下段にあって、東西40m、南北47mの広さがある。西の段と南の段は石塁で隔て、北の段とも1mとの比高差を持たせて石垣で画している。
【写真左】三の丸・その2
 石塁跡

 この西の段からは二の丸・御蔵屋敷につながる曲輪への通路がのびており、しかも西の段下の石垣や階段がみられるところからみて、登城には御蔵屋敷から南側の帯曲輪を経由し、その階段を上がるとこの三の丸虎口(西の段)に繋がると考えられる。

 西の段は周囲を石垣や石塁で囲まれていることもあり、この部分が郡山城のなかでは最も新しい時期の遺構であったと考えられる。
  平成3年3月
    吉田町教育委員会”
【写真左】厩(うまや)の段
現地の説明板より


“厩の檀跡

 本丸の東南方の長さ約400mにも達する長大な尾根の基部にあって、17mと24mの段から尾根に沿って7段と、それから北に分かれる4段の曲輪からなる。

 最大の曲輪は、尾根の上中央の基部から3番目の曲輪で、約410㎡の広さがあり、それから下方へは帯曲輪状の小曲輪を並べている。北側の4段は基部の曲輪の守りのためと考えられ、いずれも小さい。
【写真左】厩の檀位置図

 なお、基部の曲輪から釜屋の檀へは通路がのび、南側の段へも通路があり、幅3mから5mの付曲輪がある。この南側下の段が馬場と呼ばれているところから、厩の檀には厩舎があったところと考えられる。”
【写真左】厩の檀から釜屋の檀に向かう道
 厩の檀から反時計方向に回って、北東の尾根に築かれた釜屋の段、及び羽子の丸に向かう道で、尾根の下に配置されている。
 この斜面もかなりの切崖となっている。
【写真左】釜屋の檀
 本丸から比高差15mを測り、小規模な郭が5段連続する。
 石垣などは見られない。

釜屋の檀の先端部に進むと、次の「羽子の丸(はごのまる」に進む。
【写真左】堀切
釜屋の檀と羽子の丸の間に構築された堀切で、深さ3m、幅は7m前後だが、当時は相当深かったものと思われる。
【写真左】羽子の丸・その1
 南北に主だった郭が連続して3か所配置され、各々は帯曲輪で連絡し、一部には付郭も加えている。

 最も高い位置の郭は650㎡もあり、独立した城砦としての機能も窺える。
【写真左】羽子の丸・その2
 羽子の丸先端部から北東麓を見る。
羽子の丸は本丸を起点とすると北東方向になり、甲田町方面(三次市方面)を扼する位置である。

なお、説明板には羽子の丸の先端部から北東に下る尾根には何も遺構を示すものは書かれていなかったが、戦略的にはこの位置にも何らかの城砦施設があったのかもしれない。
【写真左】羽子の丸側から振り返って釜屋の檀方面を見る
 振り返ってみると、各郭段の切崖に高い要害性がうかがわれる。
 




次稿では本丸を中心に、残った郭群を紹介したいと思う。

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