2014年7月8日火曜日

財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)

財崎城(さいざきじょう)

●所在地 広島県東広島市志和町志和堀
●築城期 戦国期(天文3~天正6年(1534~78)か
●築城者 天野隆重又は元重
●高さ 標高220m(比高20m)
●形態 居館跡か
●遺構 ほとんど消滅(小学校)
●備考 浄源寺跡
●登城日 2013年12月6日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 財崎城は旧賀茂郡志和町にあった城館で、現在合併に伴い東広島市に所在する。所在地名は志和掘という。

 この付近は四方を山々に囲まれ、谷間を流れる関が東川が合流する地点でゆっくりと北に向かい、太田川の支流三条川へと流れているが、この川は太田川河口とは反対におよそ6キロも北に向かって流れている。初めて当地を訪れた時、下流が北に向かっていることに驚いたものである。
【写真左】財崎城跡に建つ志和掘小学校
 財崎城は居館であったといわれるため、郭が西側に2段程度あり、東側に堀切をつけた程度のものだったといわれている。
【写真左】志和掘り小学校のグランド
   現在の学校正面玄関付近から登り勾配になっているので、校舎及び運動場あたりに館などが数棟建っていたものと思われる。



堀財崎天野氏

 さて、築城者は天野隆重といわれている。時期は天文3年~天正6年(1534~78)といわれている。隆重についてはこれまで、藤ケ瀬城跡・その2小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)横田山城(島根県松江市美保関町森山)でも紹介しているが、父は元貞である。
【写真左】郭段跡か
 運動場の南側から高くなった段があり、現在は石碑(学校関係)が立っているが、おそらくこの辺りに居館などがあったものと思われる。

 このあと、この奥の高くなった墓地方面に向かう。



 『日本城郭大系第13巻』によれば、当城に拠っていた天野氏と、志和東にある米山城を本拠としていた天野氏とは同族であるが、別系といわれ、隆重の父・元貞は、米山城8代興次の弟であったという。

 財崎城主天野氏は、始祖元貞から始まり、隆重・元明・元信・元重と続いた。こちらの方はその後堀財崎天野氏と呼ばれるようになる。
【写真左】浄源寺跡付近・その1
 財崎城(志和掘小学校)の向背は、東から舌陵丘陵が伸びているが、その先端部に天野氏の菩提寺といわれた浄源寺があったという。

 現在寺院など建物はないが、手前に墓地や奥には、垰堂という祠が立っている。
 垰堂は法正院と王子谷の地蔵堂を合祀したものといわれているので、近世のものかもしれない。


 ところで、隆重の子元明は、関ヶ原の合戦後、毛利氏に従って防長へ転出したが、元信は元明の養子として家を継いでいる。元信は慶長10年8月、萩城増築工事に際し、益田元祥と争っている(「五郎太石事件萩城(山口県萩市堀内)参照)。
【写真左】浄源寺跡付近・その2
 北側の先端部は木立があって明瞭ではないが、急傾斜となっている。








 元信はその名前からして、おそらく熊谷元直から偏諱を受けていたのだろう、毛利氏が秀吉と和睦して以来、元直は黒田官兵衛の知遇を得、キリシタンとなっていた。このため、元信もキリシタンとなっていたが、輝元から棄教の命を受けるも拒否、元直ともども死刑に処せられた。
【写真左】垰堂から墓地を見る。
 先ほどの垰堂に上がり、墓地を見たもので、奥の藪を抜けると志和掘小学校がある。

 この墓地付近から浄源寺及び境内があったものと思われる。
 このあと山側の方に進む。
【写真左】宝篋印塔と石碑
 入口から竹林が覆っているが、その一角には近代墓石と並んでご覧の宝篋印塔2基と石碑がある。

  『日本城郭大系第13巻』には、天野隆重の子の墓と伝えられる五輪塔がある、と記されているが、おそらくこの宝篋印塔がそれに当たるかもしれない。
【写真左】本堂跡か
 五輪塔のある段からさらに北にむかってかなり広い削平地がある。この写真でははっきりしないが、その奥にも石碑が見える。

 位置的にこの付近がもっとも高台に当たるので、本堂はこの辺りにあったと推察される。

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