2014年7月1日火曜日

白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)

白旗城(しろはたじょう)

●所在地 兵庫県赤穂郡上郡町赤松
●高さ 標高440m
●築城期鎌倉末期~南北朝初期(建武3年(1336))
●築城者 赤松則村(円心)
●城主 赤松氏
●指定 国指定史跡
●遺構 堀切・郭等
●登城日 2014年5月4日

◆解説
 白旗城は以前紹介した駒山城(兵庫県赤穂郡上郡町井上)の東麓を流れる千種川を挟んで、北東6キロに聳える白旗山に築かれた城砦である。当城は、赤松三城の一つといわれ、もっとも西方に配置されている。
【写真左】白旗城遠望
 北西麓から見たもので、麓にはかなり大きな看板が設置してある。
【写真左】白旗城の各部名称
 麓にある案内板に掲示されているもので、この写真では文字が小さいが、右側から
堀切(伝)、櫛橋丸(伝)、堀切、二ノ丸(伝)、馬場丸(伝)、本丸(伝)、三の丸(伝)、堀切
と標記されている(下段の配置図参照)。


 現地の説明板より

“白旗城跡(赤松・細野・大富・野桑)

 白旗城跡は、標高約440mの白旗山上にある南北朝~戦国時代(14~16世紀)の山城で、建武3年(1336)に足利尊氏に与した赤松円心によって築かれ、新田義貞率いる軍勢による50余日の城攻めに耐えた堅固な城です。
【写真左】案内図
 登城コースは2通りあるようだが、この日登城した北西側からのコースが多いようだ。






 以後、嘉吉の乱(1441年)で赤松氏が一旦滅びるまで、播磨・備前・美作の守護大名赤松氏の本城として固守されました。

 現在のこる縄張の一部は、戦国時代前年までの改修を受けており、長さ約550mに及ぶ尾根上を中心に、本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・馬場丸・侍屋敷・桜門と伝えられる曲輪跡や、堀切・土塁・石積などの防御施設が残っています。
【写真左】配置図(縄張図)
 主だった遺構は、左(西側)から櫛橋丸(第4郭)、二の丸(第2郭)、侍屋敷、馬場丸、本丸(第1郭)、三の丸(第3郭)などが図示されている。



 城跡へは、赤松・野桑の両側から近畿自然歩道を通って登ることができます。
 白旗城跡は、感状山城跡(相生市矢野町)・置塩城(姫路市夢前町)とともに国指定史跡になっています。
【写真左】登城口
 駐車場は特に標記されていないが、手前を流れる川の上手の土手に広いスペースがあるので、ここに停める。

 そこから約50m程歩くと、ご覧のような柵付の入り口がある。猪・鹿除け用のもので、出入りの際はきちっと紐で閉めておく。


白旗城年表
  • 1336年(建武3年)   赤松円心、白旗城を築城。新田義貞の軍勢に対して50余日の籠城戦に耐える。その功により円心、播磨守守護に。
  • 1361年(康安元年)  南朝の軍勢京を占拠。赤松則祐、足利春王丸(後の3代将軍義満)を白旗城に迎える。
  • 1427年(応永34年)  赤松満祐、4代将軍義持と対立して下国。白旗城に籠城準備。後に和解。
  • 1429年(正長2年)  満祐、播磨国の土一揆鎮圧後、白旗城跡に白旗降下の瑞兆を報じ、勅使の下向を乞う。
  • 1441年(嘉吉元年)  嘉吉の乱。赤松氏城山城に一旦滅亡。白旗城も落城か?
  • 1454年(享徳3年)   赤松則尚、播磨奪回を目指し白旗城に陣する。
  • 1499年(明応8年)   守護代浦上則宗とその部将宇喜多能家、白旗城に籠城、浦上村国と合戦。
  • 1520年(永正17年)   播磨守護赤松義村、守護代浦上村宗と対立し、白旗城に陣する。
【写真左】五輪塔群等
 登城口から少し歩くと、左手に「白旗城跡山麓五輪塔群」、「白旗八幡社跡」「栖雲寺(せいうじ)跡」などが見えてくる。
 栖雲寺は、円心の次男・貞範が建立したとされている。

 写真の標柱元には小さな五輪塔群が見える。


赤松円心

 白旗城の築城者とされる赤松円心については、これまで置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも紹介しているように、赤松氏は村上源氏の流れを組み、始祖・家範から数えて4代目となる人物である。本名は則村で円心は後の法名である。
【写真左】登城口から300mの地点
 暫く平坦な道がこの位置まで続くが、ここから登り勾配のガレバ道となる。






 足利尊氏と同様、鎌倉幕府討幕の命を後醍醐天皇から受け、六波羅攻略に活躍したものの、建武の新政において、播磨守護職をはく奪されるなど不遇な扱いを受けた。そして尊氏と行動を共にすることになる。
【写真左】登城道
 谷間の渓流と並行して登る道で、このあたりから風がほとんど吹かない。

 途中で下山してこられた御年輩のご夫婦に出会った。70歳はとうに過ぎておられるだろうご夫婦だったが、実にしっかりとした足取りだ。登山経験豊富な方々なのだろう。

 我々もその年になっても登れるだろうか。
【写真左】最初のピーク
 尾根に到達。ここまで1.1キロで、右に向かうと東側の鞍居バス停まで3.1キロと書かれている。

 ここから尾根筋に0.8キロ向かうと、白旗城に繋がる。
【写真左】堀切
 前半はやや細い尾根で、次第に幅が広くなっていく。
 この堀切は最初に見えたもので、尾根幅が狭いため、効果が高いものだろう。
【写真左】櫛橋丸の横を通る。
 櫛橋丸は尾根筋を進むとたどり着くが、尾根に到着するまでに相当体力を消耗していたため、省略してその脇の道を進んだ。
 この写真は、櫛橋丸北端部で、この先にある二の丸に向かう地点。
 ここまでは尾根の東側にある道を進んだ。
【写真左】二の丸・その1
 このあたりから尾根幅は広くなり、削平された郭が出現する。
 写真は二の丸の一角で、4段の構成となっているが、一番下の段。
 さらに東に進む。
【写真左】二の丸・その2
 最高所の位置で、かなり広々とした郭である。
なお、この位置から南に降りていくと、侍屋敷といわれる郭があるが、余り整備されていないようで、今回は省略した。
【写真左】馬場丸
 二の丸を過ぎると、次第に尾根幅が狭くなるが、長さ約80m前後の馬場丸が控える。

 馬の調練場がこの位置にあることから、厩も近くにあったものと思われる。恐らく、侍屋敷付近にあったのかしれない。


【写真左】桜門
 馬場丸を過ぎると、ここから登り勾配となるが、この付近が桜門と呼ばれていた。
【写真左】本丸・その1
 本丸はさほど大きなものでなく、長径20m×短径10mほどの規模を持ち、周囲に帯郭が取り巻く。
【写真左】本丸・その2
 本丸跡一角にはご覧のような石碑が建つ。
 なお、本丸から南の尾根筋には、およそ150m程の尾根に小郭が構築され、第10郭付郭(群)があるが、かなり急斜面で降った所にあるため、踏査していない。
【写真左】三の丸・その1
 本丸から北に延びる尾根筋に三の丸が配されている。
 

【写真左】三の丸・その2
 本丸との比高差は約5,6m程度下がっている。規模は周囲の小郭を含めると、本丸より規模が大きいかもしれない。
【写真左】土塁
 三の丸の北端部に配置されているもので、高さ2m前後。
 なお、土塁を超えると切崖となっているが、その下にも尾根を分断する堀切が構築されている。
【写真左】本丸付近から北東部を俯瞰する。
 白旗城からの眺望はあまりよくないが、北東部と西側の千種川沿いを少し見ることは出来る。
【写真左】松雲寺
 上段で紹介した赤松貞範建立の栖雲寺(せいうじ)を継承する寺院で、北西麓赤松に建てれれている。
【写真左】赤松三尊像
 白旗城の北西・河野原宝林寺境内にあるもので、円心館の建物に安置されている。
赤松円心・赤松則祐(円心の三男)・別法和尚(雪村友梅説もある)・覚安尼(則祐の娘千種姫)の木座像を、赤松三尊像という。

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