2022年5月2日月曜日

安芸・星ヶ城(広島県広島市安佐北区白木町大字市川)

 安芸・星ヶ城(あき・ほしがじょう)

●所在地 広島県広島市安佐北区白木町大字市川
●高さ 279m(比高152m)
●形態 山城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 井上元兼、市川経好
●遺構 土塁、郭、井戸、堀
●指定 なし
●登城日 2017年11月7日

解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 前稿安芸・生城山城(広島県東広島市志和町志和東)より県道46号線を北におよそ11キロほど向かった安佐北区白木町市川に築かれたのが安芸・星ヶ城(以下「星ヶ城」とする)である。

【写真左】星ヶ城遠望
 東麓の小越側の谷から見たもの。









 生城山城の西麓を流れる関川は、星ヶ城の南麓で北方から流下してきた三條川と合流し、JP芸備線と並走しながら南下し、深川で太田川と合流する。この手前の上深川には以前紹介した吉川興経館(広島県広島市安佐北区上深川町)がある。
【写真左】登城開始
 登城口は西麓を南北に走る県道37号線沿いから東に入る農道があり、そこの行き止まり地点にある。ただ、目立たない標識なので分かり辛い。
 写真は墓地の脇にある登山道入口。


現地の説明板より

”星ヶ城展望台
<地名の由来>
 白木町市川の地名由来は貞和元年(1345年)ごろ、三田郷地頭に市川助行がいて、同郷の年貢を抑留し幕府の咎を受けています。
 三田郷と市川氏とを結んで考えると、市川氏が三田郷に住んでいて地名が「市川」となり、近世の市川村に繋がると推測されます。
【写真左】鳥獣対策用の扉を開ける。
 しばらく行くと、御覧の扉がある。鹿や猪などが出るようだ。





<星ヶ城の歴史>
 星ヶ城はこの吉井山山頂(標高:278m、比高:158m)にありました。
 天文の初めまで市川氏がいたとされ、市川氏は武田氏(佐東銀山城)の一族で、市川村は当時武田氏の所領であり、この星ヶ城を拠点とした城主が武田氏か市川氏かは全く不明である。

 天文3年(1534年)頃、毛利氏(吉田郡山城)と武田氏の井原:般若谷の合戦で市川氏は滅亡する。その後、毛利氏の家臣:井上元兼が入城したと思われるが、この井上一族は強大な勢力を持ち、主君:元就を侮辱し寺領の押領や公領の妨害などの横暴を極めたとし、天文19年(1550年)7月、毛利元就により一族もろとも粛清される。
【写真左】第1休息地と標記された郭
 登城口から尾根ピークに達すると、そこから左折し、部分的な階段を使いながら北進する。
 途中で井戸跡らしき窪みがあったが表示されたものはなかったので、おそらく自然地形のものだろう。
 写真のものは南端部にある小郭。


 井上元兼が誅死した後、毛利氏の家臣:市川経好が星ヶ城に入る。
 経好は山県郡新庄小倉の城主吉川国経の孫で、毛利元就の次男:元春を吉川家に迎え入れるにあたり尽力したので、市川村と小越村との境にある小田城を守ることとなる。その際、吉川から市川に改姓した。

 市川経好は元就の命を受けた幾多の戦いに功績を立て、またその行政手腕が認められ、1557年周防山口奉行として高嶺城を預けられた。
 経好は天正12年(1584)没し、二男元好が継いだが、封を出雲に移された。星ヶ城最後の城主と思われる。
 歴史は今から4~5百年前、戦国時代(1467~1590)のことである。
    -広島市「白木町史」より引用-
    星ヶ城展望台整備:森づくり・夢づくり‟白木” ”
【写真左】堀切
 鞍部が埋められ歩きやすくなっているが、当時はかなりの深さがあったと思わせる堀切。

 当城の中では二番目に大きなものかもしれない。


武田市川氏

 説明板にもあるように、毛利氏が侵攻し始める前の天文年間初期、星ヶ城は佐東銀山城主・武田氏の一族市川氏(前期市川氏)であったと記されている。佐東銀山城とは当時の地名安芸国佐東郡にあったことからこの名称となっているが、近世以前は金山城と記されている。

 当城については、すでに銀山城(広島市安佐南区祇園町)の稿でも紹介しているように、承久の乱後その戦功により甲斐守護職であった武田信光が安芸守護職に任命され、鎌倉末期までに武田山に築かれた城郭である。
【写真左】竪堀・その1
 堀切を過ぎて少し進むと右手に竪堀が見える。
 因みに当城の竪堀が配置されているのは東側のみで、小越地区からの攻撃を意識している。


 この武田氏は室町期には度々大内氏と激闘を繰り返しているが、このころの同氏の勢力範囲は東麓を流れる太田川の上流域である支流の三條川沿い、すなわち現在の白木町三田・市川まであった。因みに、隣接していたのが、当時の三入荘の地頭熊谷氏(伊勢ヶ坪城(広島市安佐北区大林町)参照)で、太田川を巡る川船の通行税などをめぐって度々争っている。
【写真左】竪堀・その2
 先ほどの竪堀の延長部で、予想以上に長い規模だ。
【写真左】竪堀・その3
 中に入る。深さも相当ありそうだ。








 さて、星ヶ城の初期の城主とされる市川氏は、説明板にもあるように、南北朝時代に地頭として当地を治めていた武将とされる。戦国期に至り井原:般若谷の合戦で滅亡したという。
 井原というのは星ヶ城が所在する市川の北隣の地区で、以前紹介した北田城(広島県広島市安佐北区白木町井原)や鍋谷城などがある。
【写真左】第2休息地
 要所にこうした休息地を確保している所は以外と少ない。

 登城道が延々と木立に遮られ、腰を降ろす場所もないような山城は体力的にも、気分的にも疲れやすいものだが、こうした場所を提供していただくと大変ありがたい。


市川経好

 毛利元就が天文年間に市川氏(前期)を滅ぼした後、家臣の井上元兼を当城に入れたが、その16年後横暴な井上一族を元就は粛清し誅滅させた。このことについては阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)の稿で述べているのでご覧いただきたい。

 そのあとに入ったのが市川経好である。星ヶ城の麓から南西に降る三條川沿いにある吉川興経館(広島県広島市安佐北区上深川町)の稿ですでに紹介しているが、改めて経好を含む当時の吉川家の系図を示しておきたい。
【左図】吉川家系図
 星ヶ城城主となった経好は、吉川経世の嫡男で、その弟経高は、大内氏(毛利氏)によって滅ぼされた武田氏、並びに山県氏一族の今田氏に入った。



 系図にも示しているように、吉川経好が星ヶ城に入ったあと、姓を吉川から、市川と改めた。(後期市川氏)

 市川に入った経好が最初に築いたのが、星ヶ城と同じ尾根筋で先端部にある小田城である。この城については残念ながら踏査していないが、星ヶ城と同じく市川と小越の境に築かれた標高200m余りの城郭である。
【写真左】前方に本丸が見えだした。
 この手前にも竪堀があり、さらに進むと前方にコブのような形で本丸が見えた。



 また、経好が居館としていたのが、西麓を流れる三條川の西岸にある「伝市川氏居館跡」で、現在の順経寺に当たる。

 その後、弘治3年(1557)4月、山口の大内氏最後の当主・義長が自刃したあと、毛利氏はこの市川経好を高嶺城(山口県山口市上宇野令)の城番として置いた。
【写真左】堀切
 本丸に向かう手前にもう一つ大きな堀切が介在している。
 この堀切は最初に紹介したものより深さ・幅とも大きく、なかなか見ごたえがある。
【写真左】本丸手前の郭
 堀切を過ぎると傾斜がきつくなり、さらに尾根幅は狭まる。
 写真の郭は南郭と呼称され、幅は狭いが長さがある。
【写真左】志和口の町並み
 南郭から眺望したもので西麓に当たる。右側に三條川や白木中学校の建物が見える。
【写真左】土塁
南郭の右側(東)には大分劣化しているが土塁が残る。
【写真左】本丸直下の看板
 この先に本丸があるが、その上り口には冒頭の説明板が設置してある。
【写真左】案内図
 説明板には御覧の案内図がついている。遺構の名称などは付記してないが、位置関係は良く分かる。
【写真左】本丸に向かう。
 登城道の脇にはいろいろな桜の木が植えられている。
【写真左】本丸南端部
 本丸に辿り着く。整備され眺望もよさそうだ。
【写真左】本丸南端部から登ってきた方向を眺望。
 本丸の直下が南郭となる。
 右側(西)に三條川やJR芸備線、左側に生城山城から流れてきた関川が見える。
【写真左】少し東に移動してみる。
 先ほどから東に移動し、切岸の状況を見る。険峻だ。
【写真左】本丸北東部
【写真左】土塁
 本丸の北側先端部付近で、かなり低くなっているが土塁の痕跡が認められる。
【写真左】北端部から南方を振り返る。
 前郭から見上げた時はさほどの広さはないと思われたが、以外と奥行があり広い規模だ。
 このあと西側の腰郭方面に降りてみる。
【写真左】西側の腰郭
 腰郭というより帯郭といったほうがいいかもしれないが、西側を囲繞している。
【写真左】井戸跡
 帯郭の北端部に残るもので、井戸跡としての残存度は高い。

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