2015年11月14日土曜日

中津城・城井神社(大分県中津市二ノ丁)

中津城・城井神社(なかつじょう・きいじんじゃ)

●所在地 大分県中津市二ノ丁

(中津城)
●指定 市指定史跡
●別名 丸山城・扇城・小犬丸城
●形態 平城
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 黒田孝高(官兵衛)
●遺構 石垣・堀

(城井神社)
●創建 天正19年(1591)
●城井大明神 開創 黒田長政
●城井大権現(城井神社) 宝永2年(1705) 小笠原長円

●登城・参拝日 2014年10月19日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 中津城については、中津城(大分県中津市二ノ丁)ですでに紹介しているが、当稿でも述べているように、この時は全くの観光気分で訪れたものである。そして、実際に登城したのは2005年10月なので、今回10年ぶりの再訪となった。
【写真左】中津城
 北側から見たもので、後段でも紹介するように、模擬天守を支える石垣は築城期の黒田氏時代、およびその後入封した細川氏時代のものとで構成されている。













 再訪の動機は、この年(2014年)のNHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」の放映がきっかけであるが、今回は官兵衛はもとより、黒田氏に葬られた宇都宮氏にも興味があったため、築上町の史跡(城井ノ上城・大平城など)を探訪したあと、再び中津城を訪れた。
【写真左】江戸期の中津城配置図
 後段でも述べるように、この図は細川氏から小笠原氏へと城主が変わったころ確定した頃のものだろう。




中津城

 馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)でも少し述べているが、黒田官兵衛が当城を築城する直前まで居城としていたのが馬ヶ岳城である。秀吉が九州征伐のため、馬ヶ岳城に入ったのが天正15年(1587)3月29日とされている。そして5月8日に島津氏の降伏を受け、翌月の7日、博多筥崎に諸将を集め、九州諸大名の封域を定めている。
【写真左】南側から見た中津城
 10年前訪れた時は観光客もまばらだったが、この日は朝早くから観光バスなどで訪れる人が多くいた。
 官兵衛関係のコーナやグッズなども販売されていた。大河ドラマによる宣伝効果はやはりすごい。



 官兵衛が中津城の築城を開始したのは、翌天正16年の正月からといわれているが、もともとこの場所には応永年間(室町初期)に、中津江太郎の拠った小規模な城砦(大塚山土塁か)があったといわれている。

 中津江太郎は応永4年(1397)に大友氏鑑に随い田川郡・規矩郡に攻め入っているが、これはその5年前になされた南北朝合一後、山口の大内氏が豊前守護職を得て、豊後の大友氏と対立したことからしばらく続いた戦いである。

 そのあとと思われるが、この辺り(本丸付近)には二重の溝に囲まれた館があったという。それを裏付けるものとしては、最大径1.6m、厚さ70cmの大型礎石やタイル状の瓦が大量に出土し、建物種別としては寺院跡であったといわれている。

中津城の石垣

 中津城の石垣については、現地の説明板に特記されているように、黒田氏時代のものと、細川氏時代のものと二つ残っている。

現地の説明板より

“黒田本丸の石垣と細川時代の石垣

 右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。
 両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
【写真左】黒田時代の石垣案内表示板
 北側にある薬研堀の中央部から西側の塀一帯が黒田氏時代のものといわれている。
 下段写真参照。



 中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。

 軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要害の地であった。同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。

 孝高は、闇無浜(くらなしはま)から自見(じみ)・大塚一帯を含む大規模な築城に取り掛かったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いなどの功によって筑前52万石への加増転封し中津を去った。
【写真上】黒田氏時代と細川氏時代の石垣境界部
 三の丸側の方から見たもので、遠くからでも目地が違うので分かる。


 黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東・速見二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。

 元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残置が決まった。
【写真左】黒田時代の石垣
 写真は西側の中津川沿いにあるもので、ほとんど黒田氏時代のもの。
 細川氏時代と比べると、石積のすき間が大きい。


 元和6年(1620)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌7年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二ノ丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。

   中津市教育委員会
   中津の郷土史を語る会”
【写真左】椎木御門付近
 東南部隅にある個所で、二ノ丸から本丸に向かう入口に当たる。
 細川氏時代以降のものだろう。なお、この手前には「長福寺」という寺院が建っていたとされる。


唐原山城

 ところで、黒田氏が築城する際に用いられた石垣は、西側を流れる山国川を遡ったところの唐原山城(とうばるやまじょう)から移設したものといわれている。この唐原山城は現在の上毛町にある古代山城(唐原神籠石:とうばるこうごういし)で、直方体の一辺が断面L字型に削られている石が特徴とされている。

 この古代山城が発見されたのは最近のようで、さきごろ開通した東九州自動車道の「唐原山城トンネル」の真上に当たる。機会があれば、いずれ探訪してみたいものだ。
【写真左】西側を流れる中津川
 右に見える川が中津川で、旧名高瀬川といわれた。この川は南方から流れてきた本流山国川が途中で中洲(小祝)を挟んで分岐したもので、河口である周防灘までわずか1キロ余りの短い河川である。


歴代城主

 中津城の歴代城主は前述した南北朝期の中津氏を別枠とすれば、築城者であった黒田氏(官兵衛)から始まり以下三氏の名が残る。

(1)黒田氏(官兵衛・長政)
        天正15年(1587)~慶長5年(1600)

(2)細川氏(忠興・忠利・三斎(忠興))  
         慶長5年(1600)~寛永9年(1632)

(3)小笠原氏(長次・長勝・長胤・長円・長邑)
         寛永9年(1632)~享保元年(1716)

(4)奥平氏(昌成から始まり昌遭まで9代)
         享保2年(1717)~慶應4年(1868)
 このことから、中津城主としてもっとも長く施政を布いたのは最後の城主であった奥平氏で、150年余と長期にわたり、近代まで事実上の主であったようだ。
【写真左】武家屋敷跡
 二ノ丸の北側に残るもので、中津城の最後の城主奥平氏の家臣・竹下氏のものといわれている。

 「江戸家中分限帳」(享和3年(1803))によれば、竹下義兵衛は「一高十人扶持」と記されている。
 建物は茅葺箇所が桁行9.756m、梁間4.98mの寄棟造りで、入口には土塀と門があったという。


城井神社

 中津城の西側には宇都宮氏一族を祀る城井神社と、扇城神社が建立されている。
【写真左】二社入口付近
 なお、この付近にはこのほか、奥平神社、中津神社、金比羅宮なども併設されている。






現地の説明板より

“城井神社

 御祭神  宇都宮鎮房

 城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代、およそ400年の間豊前国守(くにのかみ)として徳政を布いた。
 天正15年(1587)5月、豊臣秀吉は九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(12万石)移封の御証判を与えた。

 鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。
 そこで秀吉は孝高と謀り、所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
【写真左】城井神社本殿
 ここにも大河ドラマ「軍師 官兵衛」で宇都宮鎮房役が村田雄浩さんに決定したと記された看板が添えてあった。




 天正16年(1588)4月20日、鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
 天正19年長政は深く感ずる処があって、城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。
 宝永2年(1705)小笠原長円(ながのぶ)は、小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度からの変遷の後、城井神社として改められた。

  中津市
  中津の郷土史を語る会”

“扇城神社(せんじょうじんじゃ)
   宇都宮鎮房公従臣四十五柱

 天正16年(1588)宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の間に生まれた)の合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。
 異変を知った家臣群は次々に城中へ駆け入り、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は19人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い、広津広雲寺まで切り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い、遂に庫裡にて討死、その他はことごとく討死した。
【写真左】扇城神社の看板
 境内末社のため、本殿は祠程度の小規模なものがこの看板の後ろに建立されている。






 家老渡辺右京進は、7,8人を薙ぎ伏せたという。松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ、城内乾の上段、この地に埋葬された。

 宝永2年(1705)、小笠原長円(ながのぶ)公は、広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。その後変遷。城井神社再興後、大正9年(1920)4月20日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。

  中津市
  中津の郷土史を語る会”
【写真左】中堀の土塁 ~おかこい山~
 ところで、中津城の南側には南部小学校があるが、この付近にかつて数か所の土塁があったという。地元ではこれを「おかこい山」と呼んでいる。
 写真に見える歩道には、その箇所を薄い緑色で示している。
【写真左】おまけ・中津城のネコ
 城井神社から少し南の方を散策していたらご覧のネコちゃんと遭遇。ネコ好きの家内、さっそく近寄ってスキンシップ。

 ヒト慣れしているせいか、愛嬌がいい。そういえば、こんな光景、広島の尾道でも見た覚えがある。


◎関連投稿

2015年11月6日金曜日

合元寺(大分県中津市寺町973)

合元寺(ごうがんじ)

●所在地 大分県中津市寺町973
●別名 赤壁寺
●創建年 天正15年(1587)
●開創 黒田孝高(官兵衛)
●開山 空誉上人
●宗派 浄土宗西山派
●参拝 2014年10月19日

◆解説
 本稿では宇都宮鎮房及び、黒田氏(官兵衛)などが関わった中津市街地に点在する幾つかの寺院を取り上げたい。

寺町

 下段の寺町周辺マップでも示されているように、当時の中津城の城域ともいえる総曲輪の中で、特に東側に寺町としての町割りができている。
 主だった寺院を時系列的に整理すると以下のようになる。

1、黒田氏入封以前のもの
   地蔵院・安随寺

2、黒田氏入封時のもの
   合元寺・大法寺・円応寺・西蓮寺

3、細川藩時代のもの
   普門院・宝蓮坊・本伝寺

4、小笠原藩時代のもの
   圓龍寺・浄安寺

5、奥平藩時代のもの
   松厳寺

※赤字は本稿で紹介しているもの。



合元寺 

 城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)で、天正16年4月、宇都宮鎮房が中津城において黒田長政によって謀殺されたことを紹介したが、そのとき鎮房と共に中津に出向いていた家臣たちも誅滅された。その殺害された場所が号元寺といわれており、通称「赤壁寺」とも呼ばれている。
【写真左】合元寺山門
 ご覧の通り通りに面した塀や山門付近も朱色で染まっている。








現地説明板より

“赤壁 合元寺(ごうがんじ)

 通称「赤壁」といわれるこの寺は、浄土宗西山派開山空上人が天正15年(1587年)黒田孝高(如水)に従って姫路から中津に移り来た。
 その後天正17年4月、孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘致したとき、その従臣らが中津城を脱出し、この寺を拠点として奮戦し最期をとげた。
【写真左】寺町周辺マップ
 合元寺を含めたこの辺りは寺町と呼ばれ、数多くの寺院が建ち並んでいる。
(後段参照)

 合元寺は右下に記されているが、なお、黒田氏居城の中津城は西側の中津川河畔に築城されている。


 以来門前の白壁は、幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった。
 当時の激戦の様子は現在も庫裡の大黒柱に刀痕が点々と残されている。また戦死した宇都宮家の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。

 その空誉上人は、宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ、慶長16年黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀史を秘めた寺である。
寺内には、三浦梅園・倉成龍渚の師・儒学者藤田敬所(藤貞一)の墓がある。後のお堂は経蔵である。

中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会
”
【写真左】号元寺に面した通り














円応寺 浄土宗 鏡智山


【写真左】浄土宗 鏡智山 円応寺












当院縁起より

“円応寺

 天正15年(1587)に黒田官兵衛の開基によって建立された浄土宗の寺院です。
 開山は真誉(しんよ)上人見道大和尚。
 慶長5年(1600)、見道和尚は黒田氏に従って福岡に移り、同名の円応寺を開きました。

 円応寺の境内に河童の墓と呼ばれる五輪塔があります。『下毛郡誌』によるとこの墓は、宇都宮鎮房が誘殺された時、鎮房に一の太刀をあびせた野村太郎兵衛祐勝の墓だとされています。野村太郎兵衛は黒田二十四騎の一人です。
   中津市教育委員会”



圓龍寺(えんりゅうじ) 浄土宗 岡谷山


【写真左】浄土宗 圓龍寺












現地説明板より

“閻魔(えんま)さんのお寺
  岡谷山(おかやさん) 圓龍寺

當山は寛永年間に、小笠原長次公が播州龍野(7万石)から中津藩主として入国したとき、専譽(せんよ)上人を開山として開いた。阿弥陀如来を本尊にまつる。

 山門を入って左手に観音堂、閻魔堂があり、子安観世音菩薩、右手奥に閻魔さまと葬頭河婆(そうず かのうば)(奪衣婆(だつえば))が安置され、老若男女から恐れられ、親しまれ大衆を仏心へ導いてくださるという民俗信仰が伝承されている。
 また、境内の墓地には小笠原、奥平家の家臣や水島銕也(てつや)、南画の片山九畹(きゅうえん)の墓がある。
   中津市
   中津の郷土史を語る会”



西蓮寺 浄土真宗本願寺派 


【写真左】浄土真宗本願寺派 西蓮寺
 当寺は黒田官兵衛の末弟・市右衛門がのちに出家し、官兵衛を慕って中津に入国し建立したものとされている。





 説明板より

“黒田官兵衛孝高(黒田如水)公 ゆかりの寺

浄土真宗本願寺派

 寶池山(ほうちざん) 西蓮寺(さいれんじ)

 西蓮寺は、天正16年(1588)に光心師によって開創された。光心師の俗名は「黒田市右衛門」であり、黒田孝高公の末弟で父・黒田美濃守職隆公の逝去時に出家した。

 黒田孝高公が播州より豊前中津に入国の際に兄・孝高公の御徳を慕い共に中津に入り、寺町に西蓮寺を建立し、初代住職となったのである。
 以来420年以上の長きに亘り、現20代住職までこの地で法灯を伝えている。
【写真左】西蓮寺 本堂











 現在の本堂は、天保14年(1844)に再建されたもので、金剛棟札を見ると、発起人は8才の童子「播磨屋助次郎」とある。

 この童子が山国川から小石を運び、立派な本堂を建てる用意をしていることを聞き、総代・小畑親民(ちかたみ)は深く感激し再建に尽力した。
 この本堂は、再建当時藩主であった第8代奥平昌服(まさもと)公が、度々お茶会を催した場所でもある。”

2015年11月2日月曜日

月光山 天徳寺(福岡県築上町本庄361)

月光山 天徳寺(げっこうさん てんとくじ)

●所在地 福岡県築上町本庄361
●創建 正慶元年(1332)
●開山 蔵山融澤大和尚(泉福寺二世)
●開基 宇都宮頼房(五代当主)
●宗派 曹洞宗
●山号 月光山
●参拝日 2014年10月18日

◆解説(参考資料 HP『月光山 天徳寺』等)
 前稿宇都宮氏館(福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷)でも述べたように、同氏館跡から4キロほど城井谷を登っていくと、宇都宮氏菩提寺とされた天徳寺が建立されている。
【写真左】城井宇都宮公霊廟
 天徳寺境内に建立されているもので、併せて地蔵菩薩も祀られているようだ。






現地説明板より

“月光山 天徳寺 縁起

 正慶元年(1332年)に5代当主宇都宮頼房公が建立した寺です。
 豊前国衙在庁職の頼房公は、築城郡木庄に若山城を築き、豊後国東の泉福寺二世蔵山融澤和尚を迎えて「香火院月光山天徳寺」を開山し持仏寺とした。
 のちに天徳寺は宇都宮氏の菩提寺となった。
【写真左】天徳寺と本庄城の位置図
 天徳寺の位置は左図のとおりだが、当院の南側に聳える標高315mの山には、明応10年(1501)豊後大友氏と周防の大内氏の戦いにおいて、当時大友氏に属していた城井直重が大内に攻められ落城した本庄城(別名若山城)がある。



 時代は遡り鎌倉時代の初期、源頼朝の御家人職であった宇都宮信房公(初代豊前宇都宮氏)が、頼朝の命で九州に入国した広大な所領を得て、豊前最大の豪族として土着し栄えた一族で、その活動範囲は九州全域に及ぶ、それゆえ鎮西宇都宮氏とも云う。
【写真左】宇都宮鎮房公墓所の案内標識
 宇都宮氏の墓所は当院の麓にある。








 時は流れて、18代鎮房公の代、豊臣秀吉の天下統一に際しては、所領を失い新参大名黒田氏と敵対し、ついには謀計の涯て天正16年(1588)4月、長甫・鎮房・朝房・つる姫・家臣共々無念の生涯を綴じた。

 しかれども、お家断絶の機に遭うも宇都宮氏の血は絶える事なく徳川時代(慶長~元和)細川・小笠原両家の御加護にて当寺も復興し、宇都宮氏菩提寺として現在に至る。

一、天徳寺本尊     釈迦如来座像
一、宇都宮氏霊廟仏  聖観世音菩薩像

    平成21年吉辰   天徳寺31世 秀光清徹 記
                仝    32聖 大徹浩久 記”
【写真左】墓所入口付近
 この墓所は現在の檀家墓も混在しているようだが、城井氏関係は写真の左側に配置されている。






豊前宇都宮氏(城井氏)系譜

 さて、これまで同氏の主だった事績を述べてきたが、あらためてその系譜を見てみたい。以前にも紹介したように、豊前宇都宮氏の租は藤原宗円の次子・中原宗房が豊前国仲津郡城井郷に地頭職として下向したことに始まるが、その嫡男・信房が実質上の開祖となる。

 信房以降については次のように記録されている。なお、説明板では鎮房を18代としているが、本稿では便宜上、初代信房を初代としているため、鎮房は16代と数える。
【写真左】城井氏(宇都宮氏)一族の墓石群












豊前宇都宮氏系図

初代 信房(1156~1234)
 信房弟・重房は野仲重房と名乗り、下毛郡野仲郷を分与され豊前・長岩城(大分県中津市耶馬渓町大字河原口)を築城

2代 景房
3代 信景
4代 道房

5代 頼房(?~? 鎌倉・南北朝時代)
 月光山 天徳寺建立(正慶元年・元弘2年:1332)

6代 冬綱(?~? 南北朝時代)
 下野国(栃木県)宇都宮氏の貞綱(1266~1316)の子
 主君足利尊氏・義詮
 冬綱弟・豊房は伊予へ下向し、伊予宇都宮氏(大洲城(愛媛県大洲市大洲)参照)の祖となる。

7代 家綱(?~? 南北朝時代)
 下野国宇都宮氏の公綱(1302~56)の子(冬綱の甥)

8代 直綱  
9代 盛綱
10代 家尚
11代 盛直
12代 秀房
13代 興房

14代 正房(1478~1561)
 主君大内義興・義隆  


15代 長房(1506~88)
 別名・長甫 妻:大内義興娘
 天正16年(1588)4月、鎮房謀殺後、豊後に落ち延びる途中追討され殺害(異説あり)。

【写真左】宇都宮長甫(長房)公墓
 法謚(ほうし) 霊岸院殿徳全長甫大居士








16代 鎮房(1536~88)
 天正16年4月、中津城にて黒田氏により謀殺さる(中津城・城井神社(大分県中津市二ノ丁)参照)。

【写真左】宇都宮鎮房公墓
 法謚 天徳寺殿久岸宗栄大居士










17代 朝房(1571~88)
 天正16年4月、鎮房謀殺後、官兵衛刺客により肥後国木の葉で暗殺さる。
【写真左】宇都宮朝房公墓
法謚 徹正院殿傑宗道英大居士










18代 朝末(1588~?)


釈迦如来像と三足蟇香炉

 冒頭でも紹介したように、当院には本尊である釈迦如来像と三足蟇香炉が秘蔵されている。実物は拝見できなかったが、説明板に添付されているものを紹介しておきたい。
【写真左】釈迦如来像

説明板より(抜粋)

“…本尊は釈迦如来で鎌倉時代の作。また寺宝に、宇都宮氏の祖となった宗円が前九年の役(1053)の功績により、後冷泉天皇より下賜されたと伝えられる金銅「三足蟇香炉(さんぞくがまこうろ)」がある。

 境内には宇都宮氏末期の当主である長甫、鎮房、朝房の墓や、室町時代に活躍した城井俊房の宝篋印塔などがある。
 春から夏にかけて、境内はツツジやアジサイで彩られる。”
【写真左】三足蟇香炉













◎関連投稿
豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)

2015年10月31日土曜日

宇都宮氏館(福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷)

宇都宮氏館(うつのみやしやかた)

●所在地 福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷
●別名 城井取手屋敷・城井鎮房の隠居の宅
●形態 居館跡
●規模 150m×120m
●遺構 空堀・土塁・建物跡・柵列
●登城日 2014年10月18日

◆解説(参考資料 HP「ふるさと歴史発見-築上町」等)
 前稿大平城のある本庄から城井川をおよそ12キロほど下っていくと、次第に谷間が広がり、松丸という地区に入ると、ほぼ中央にこんもりとした丘が見える。これが後期宇都宮氏の居館跡とされている。
【写真左】宇都宮氏館跡遠望
 南側から見たもので、周囲は平坦になっているが、この箇所だけ独立した小丘となり、周囲は植林された樹木で囲われている。


貝原益軒

 元禄7年(1694)4月の初め、福岡藩主黒田家より命を受けた儒学者貝原益軒は、豊前・豊後国の史料調査に出かけた。

 同月6日、城井谷に入った益軒は、城井氏の菩提寺「天徳寺」方面に向かうが、その手前の谷間に差し掛かり、

 「松丸村の上、道東の側に城井鎮房が隠居の宅にせんとて構えたるところあり、方六十間ばかり、まわりに小土手つき、から掘あり。されど爰にはいまだ住せず。一説には此の処も城井が取出の塞なりと云う。」

  と『豊国紀行』に記している。これがおそらく今稿の「宇都宮氏館」といわれた箇所であろうといわれている。
【写真左】南側から向かう。
 同氏館跡とされる区域はほぼ民有地となっており、「関係者以外立ち入り禁止」の札がたっていたため、とりあえず、その外側の道を進む。
【写真左】土塁か
 南側一部は墓地になっており、しかもその周囲は雑草に覆われていて遺構の確認が困難だが、右側は土塁のような高まりが残る。
【写真左】これも土塁のような
 館跡の周囲は植林され、しかも私有地であるため、これ以上踏み込めなかったが、中の殆どは畑地となっている。
 耕作地となっていることから屋敷跡として残っていたであろう建物の礎石などはおそらくほとんどないと思われる。
【写真左】遠望
 東側から見たもので、屋敷跡地のみ小高い丘となっている。
【写真左】宇都宮氏館跡から城井谷上流部を見る。
 細長い城井谷だが、館跡から南に遡ると、大平城、城井ノ上城などがこの写真の奥に控える。
【写真左】宇都宮氏館跡位置図
 左が北を示す。

 宇都宮氏館跡からさらにおよそ4キロほど登った所には宇都宮氏の菩提寺天徳寺がある。当院については次稿で紹介したい。



岩戸見神社と熊谷氏

 宇都宮氏館跡の近くには岩戸見神社が祀られている。当社は宇都宮氏が関東より勧請したといわれので、鎌倉初期に創建されたものだろう。
【写真左】岩戸見神社の鳥居













 のちに城井谷11カ村の氏神と定め、祭礼に神楽が奉納された。
 城井谷には少なくない神楽団が存在しているが、特に当社に残る「伝法寺岩戸神楽」は町の指定無形民俗文化財とされている。

 きっかけは明治7年に当社宮司熊谷房重氏が地元氏子に伝授したたといわれている。

 ところで、この伝授した宮司熊谷氏の名前から想像するに、同町の宇留津城(福岡県築上郡築上町大字宇留津)に残る須佐神社が、管理人の住む出雲の高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)で紹介した熊谷氏と関係があるのではないかと指摘したが、この岩戸見神社の宮司も熊谷氏を名乗っていることを考えると、やはり豊前宇都宮氏が滅んだあと、毛利氏麾下であった熊谷氏の一部が神官として当地に残ったのではないかと思わざるを得ない。

【写真左】正光寺と岩戸見神社の案内・石柱

2015年10月27日火曜日

大平城(福岡県築上郡築上町大字寒田)

大平城(おおひらじょう)

●所在地 福岡県築上郡築上町大字寒田
●高さ 480m(比高250m)
●築城期  不明
●築城者 宇都宮氏(城井氏)
●城主 宇都宮氏
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2014年10月19日

◆解説(参考サイト『築上町歴史散歩HP』、『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
 大平城は前稿城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)からおよそ4キロほど北東に向かった位置に所在する。
【写真左】大平城遠望
 登城口付近に設置された説明板に添付された写真で、北側から見たもの。

 写真の右側に向かうと城井ノ上城に繋がる。
 なお、大平城の東方には「求菩提(くぼて)山(標高782m)」が聳えているが、この山も英彦山と同じく、往古修験道の山として知られ、福岡・大分の県境に位置する。


 
現地の説明板より

“大平城址(おひらじょうし)

 天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州国分けで豊前六郡は黒田孝高に与えられ、城井重房は伊予国転封を命ぜられた。しかし鎮房はこれに従わず、一時は赤郷柿原(あかごうかきばる)に身を寄せたが、大村助右衛門からここ大平城を奪還し、黒田氏に反乱をおこした。

 ここは越崎平(えっさきべら)といい、本丸、二ノ丸、馬場を備えた宇都宮後期の山城で、城台、石蔵、水の手などの地名が残る。
  築城町・築城町教育委員会”
【写真左】大平城縄張図
 大平城は全周囲が切り立つ形の山に構築されている。

 小規模な山城だが、主郭付近とは別に南側にも頂部が控えているが、この箇所も櫓的な機能を有していたのかもしれない。


秀吉の島津征伐と宇都宮氏の動き

 秀吉が九州征伐を行った際、宇都宮氏は秀吉に対し積極的な態度を示していない。それまで宇都宮氏は大友氏に属していたが、大友氏の衰退によって同氏を離れ、敵対していた島津氏に秋月氏らとともについていた。

 その後、秀吉の圧倒的な大軍を率いて九州に入ってくると、秋月氏は直ちに秀吉に恭順を示した。宇都宮氏も一応与同の態度を示したが、鎮房自身は病気を理由に息子朝房を代理に立てて、わずかな兵を出したにすぎなかった。
【写真左】登城口
 大平城を囲むように県道「犀川豊前線」が走っているが、この道は急坂急カーブが多く、この日東側の豊前市から来たため、登城口を見過ごしてしまい、途中でUターンしてたどり着いた。

 ここから登り始めるが、しょっぱなから急傾斜の直登となる。



 天正15年(1587)5月8日、島津義久は剃髪して秀吉に降伏した。1ヶ月後の6月7日、秀吉は筑前筥崎(福岡市)で、諸将を集め、九州諸大名の封域を定めた。これがいわゆる九州国分けである。
【写真左】眼下に犀川豊前線を見る
 登城途中、眼下に犀川豊前線が見える。









 この九州国分けによって豊前六郡は黒田官兵衛に与えられ、鎮房はそれによって押し出された形となった。

 その結果、鎮房に対して発給された朱印状には伊予に転封という断が記された。その内容は、驚くことに今治で12万石と伝えられている。転封とはいえ破格の加増石高である。
 このため、別の説では伊予でなく、同じ九州の上筑後に200町というものがあるが、常識的にみればこちら(後者)の方が事実だろう。しかし、どちらにしても鎮房はこれを拒んだ。
【写真左】東側の郭段
 尾根筋を直登していくと、やがて傾斜は緩くなり、東側尾根に配置された郭段が見えだす。

 ここから主郭までおよそ100mほどの距離になるが、尾根幅はさほど変化はなく、このまま主郭に向かう。


 宇都宮氏にとって、豊前は鎌倉時代から400年もの長い間営々と築き上げた土地である。名族としての誇りもあったのだろう。

 秀吉から嫡男朝房宛てに発給されたこの朱印状を鎮房は突き返した。このため、秀吉の逆鱗に触れることなり、宇都宮氏一族の処遇は宙に浮いたままになった。
【写真左】切崖
 これも東側郭段の途中から見たもので、尾根の北側は険阻な傾斜となっている。








佐々成政の検地と肥後国衆

 ところで、宇都宮氏に発給された秀吉による朱印状は、同氏だけでなく、他の在地国人領主たちに対しても行われている。その内容は、九州征伐の際、秀吉に途中から協力した者も含め、概ねその石高は減じられたものの、旧来の領地の安堵を保証したものだったといわれている。

 特に、肥後国については、この朱印状は島津氏討伐を急ぐあまり、その通過点である当地の国衆(国人領主等)に対しては、無用な混乱を避けるため発給されたものだった。
【写真左】東尾根郭群の一段下がった箇所
 東尾根の郭群は尾根軸線とは別に、南側の方にも細長い郭が付属している。

 因みに、この尾根と西側の尾根に囲まれた谷はやや緩やかな傾斜となっている。


 肥後国は秀吉が九州討伐に入る直前に、島津氏が占領下に置いていたが、もともとこの地域は一人の戦国大名による統治ではなく、50から60前後の中小の地侍的な国人が地域ごとに独自に治めていた。

 そのため、彼らは島津氏が秀吉に降服した段階でも、件の朱印状によって所領安堵されたものと理解していた。
【写真左】主郭
 三方の尾根が交差する位置に構築されているが、全体に西方向の尾根にシフトして延びている。

 長径50m×短径20mの規模
 ここから先ず西の尾根に延びる郭群に向かう。


 天正15年(1587)秀吉の国分けが終わった6月末、秀吉の命を受けた佐々成政が隈本城に入った。

 肥後国に佐々成政が赴いたのは、前述したように中小の国衆が治めている状況を整理し、最終的には地主的役割をもった彼ら国衆を廃止する目的があった。さらには肥後国衆たちは、成政の家臣として仕えなければならないという計画があったとされている。
 
 そして、肥後国衆の廃止の先には、「本百姓体制」という制度が描かれ、これらを具体的にならしめるために行われたのが「代官」佐々成政による検地だった。いわずもがな、この検地は秀吉の「太閤検地」のいわば九州版ともいえるものである。
【写真左】西尾根の郭群
 主郭から西に降っていくと、次第に尾根幅が狭くなるが、長さ約50mほどの郭が連なる。

 写真は、西端部から主郭を見上げたもの。


肥後国衆の反乱と宇都宮氏

 秀吉によるこうした検地の内容が次第に分かるにつれ、肥後国の国衆たちに不安と動揺が広がった。
 そして、先祖代々受け継いできた国衆たちにとって、土地を手放さざるを得ない状況が分かりかけると、一気にその不満は成政に向けられた。この年の8月に既に一部地域で武装蜂起があったとされるから、成政入国からわずか2か月の間に起きたことになる。
【写真左】土塁
 西尾根郭群には北側に高さ約2mほどの土塁が残る。

 北側(道路側)は大分崩落しているが、主郭西端部を始点として約30mほどの長さの規模を持つ。


 さて、この年(天正15年)こうした肥後国による反乱が勃発してから約2か月後の10月、豊前宇都宮鎮房らは前稿でも述べたように、転封による不服を動機として蜂起している。

 宇都宮氏らのこうした反乱も、上述したような肥後国衆らの蜂起がきっかけの一つとも言われている。
【写真左】南側の郭段
 東西尾根の郭群に比べて、南側の方は3,4段の小さな郭があるのみで、長さは30m弱と短い。






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