庭瀬城(にわせじょう)
●所在地 岡山県岡山市庭瀬
●築城期 室町時代末期
●築城者 三村元親
●城主 戸川肥後守達安、板倉氏
●別名 芝場(こうげ)城
●形態 平城、沼城
●遺構 郭・堀・礎石
●登城日 2010年11月21日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
岡山市の西端庭瀬にある平城で、西方を流れる足守川からとりいれた堀などを利用した城砦である。
この付近は全体に沼地のような低い冠水地帯で、梅雨時にはかなり水害に悩まされるだろうと思われるような場所である。
【写真左】庭瀬城跡に設置された石碑
現地の説明板より
“庭瀬城跡
岡山市庭瀬
室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は、備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝場(こうげ)城とも呼ばれた。
一帯は泥沼地で非常な難工事であった。その後、宇喜多の重臣戸川肥前守達安(みちやす)が入り、1602年古城を拡げ城下町を整えた。
元禄12年(1699)板倉氏の居城となり、明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。
寛政5年(1793)板倉勝喜は、城内に清山神社を建て、板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り、歴代の遺品を収蔵した(遺品は現在吉備公民館に収蔵)。”
【写真左】庭瀬城と撫川 城などを示した現地の地図
写真右隅にJR山陽線の庭瀬駅が示されている。
庭瀬城は図中の真ん中にあり、そこから西に2、300mほど歩くと「撫川城」が図示されている。
「撫川 城」については、次稿で取り上げる予定。
三村元親
当城の築城期は、説明板にもあるように三村元親が最初の築城者とされている。
三村元親は、宇喜多氏に対する遺恨(宇喜多氏による父・家親の暗殺)と、支援者であった毛利氏が宇喜多氏と結びついたため、やむなく織田信長と手を結んだ。そして最期は、備中松山城に拠って、毛利方と奮戦するも、天正3年(1575)6月2日、城下の松蓮寺にて自害した。
辞世の句
人といふ 名をかる程や
末の露 きえてぞかへる もとの雫に
さて、三村元親が庭瀬城の築城に取り掛かったのは、おそらく父・家親が宇喜多直家に暗殺された永禄9年(1566)以降と思われる。ただ、この当時の庭瀬城の状況は、現在残る遺構とはだいぶ趣の違った沼城だったと思われ、おそらく軍船を停泊させるための港、もしくは船着場的城砦だったと考えられる。
【写真左】堀と清山神社
手前の濠などはおそらく当時の形状を残したものだろう。
戸川肥前守達安
江戸期に入って当城の城主となったのが、戸川肥前守達安である。達安の父は、前稿「常山城」で紹介した戸川秀安である。
達安は、関ヶ原の戦いで徳川方に属し戦功をたてたので、備中国都宇(つう)・賀陽両郡のうち、29,200石を与えられ入部した。
【写真左】西側部分
立っている位置はおそらく、当時の「内屋敷」というところだったと思われる。
めまぐるしい藩主の交代
4代・安風には嗣子ができず、戸川家は断絶、そのあとは、めまぐるしい藩主の交代が続く。
天和3年(1683)、そのあと久世重之が下總関宿から入部、貞享3年(1686)になると、久世氏は丹波亀山に移封された。そして元禄6年(1693)、大和興留の松平信通が入るも、同10年には出羽上山へ転封された。
そして、最後に板倉重高が2万石を与えられ、元禄12年に上総高滝から当地に入り、以後明治維新までつづくことになる。
【写真左】大賀一郎博士と大賀ハスの説明板
千葉県の検見川の泥炭層から、2000年前の古代ハスの実を発掘し、その発芽に成功させた大賀一郎氏の名をとって、「大賀ハス」と呼んだ。
そして、「大賀ハス」はこの庭瀬城の濠にも開花させることができたという。
江戸期の概要
安政4年(1857)に作成されたといわれる絵図によると、庭瀬城は亀甲型の切り石を積み上げた外堀と内堀に囲まれ、表御門を北にとり、参勤交代や山陽道に面した物資流通の効率化を図っているとのこと。
表御門を入って行くと、以下「家中屋敷」「番所」「中屋敷」「御蔵」「作業場」「馬屋」、そして家屋6軒からなる「御殿」があり、それ以外の付属施設としては、「勤番部屋」「馬場」などがあったという。
城域は東西南北約200m四方の規模だったという。
●所在地 岡山県岡山市庭瀬
●築城期 室町時代末期
●築城者 三村元親
●城主 戸川肥後守達安、板倉氏
●別名 芝場(こうげ)城
●形態 平城、沼城
●遺構 郭・堀・礎石
●登城日 2010年11月21日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
岡山市の西端庭瀬にある平城で、西方を流れる足守川からとりいれた堀などを利用した城砦である。
この付近は全体に沼地のような低い冠水地帯で、梅雨時にはかなり水害に悩まされるだろうと思われるような場所である。
【写真左】庭瀬城跡に設置された石碑
現地の説明板より
“庭瀬城跡
岡山市庭瀬
室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は、備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝場(こうげ)城とも呼ばれた。
一帯は泥沼地で非常な難工事であった。その後、宇喜多の重臣戸川肥前守達安(みちやす)が入り、1602年古城を拡げ城下町を整えた。
元禄12年(1699)板倉氏の居城となり、明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。
寛政5年(1793)板倉勝喜は、城内に清山神社を建て、板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り、歴代の遺品を収蔵した(遺品は現在吉備公民館に収蔵)。”
【写真左】庭瀬城と撫川 城などを示した現地の地図
写真右隅にJR山陽線の庭瀬駅が示されている。
庭瀬城は図中の真ん中にあり、そこから西に2、300mほど歩くと「撫川城」が図示されている。
「撫川 城」については、次稿で取り上げる予定。
三村元親
当城の築城期は、説明板にもあるように三村元親が最初の築城者とされている。
三村元親は、宇喜多氏に対する遺恨(宇喜多氏による父・家親の暗殺)と、支援者であった毛利氏が宇喜多氏と結びついたため、やむなく織田信長と手を結んだ。そして最期は、備中松山城に拠って、毛利方と奮戦するも、天正3年(1575)6月2日、城下の松蓮寺にて自害した。
辞世の句
人といふ 名をかる程や
末の露 きえてぞかへる もとの雫に
さて、三村元親が庭瀬城の築城に取り掛かったのは、おそらく父・家親が宇喜多直家に暗殺された永禄9年(1566)以降と思われる。ただ、この当時の庭瀬城の状況は、現在残る遺構とはだいぶ趣の違った沼城だったと思われ、おそらく軍船を停泊させるための港、もしくは船着場的城砦だったと考えられる。
【写真左】堀と清山神社
手前の濠などはおそらく当時の形状を残したものだろう。
戸川肥前守達安
江戸期に入って当城の城主となったのが、戸川肥前守達安である。達安の父は、前稿「常山城」で紹介した戸川秀安である。
達安は、関ヶ原の戦いで徳川方に属し戦功をたてたので、備中国都宇(つう)・賀陽両郡のうち、29,200石を与えられ入部した。
【写真左】西側部分
立っている位置はおそらく、当時の「内屋敷」というところだったと思われる。
めまぐるしい藩主の交代
4代・安風には嗣子ができず、戸川家は断絶、そのあとは、めまぐるしい藩主の交代が続く。
天和3年(1683)、そのあと久世重之が下總関宿から入部、貞享3年(1686)になると、久世氏は丹波亀山に移封された。そして元禄6年(1693)、大和興留の松平信通が入るも、同10年には出羽上山へ転封された。
そして、最後に板倉重高が2万石を与えられ、元禄12年に上総高滝から当地に入り、以後明治維新までつづくことになる。
【写真左】大賀一郎博士と大賀ハスの説明板
千葉県の検見川の泥炭層から、2000年前の古代ハスの実を発掘し、その発芽に成功させた大賀一郎氏の名をとって、「大賀ハス」と呼んだ。
そして、「大賀ハス」はこの庭瀬城の濠にも開花させることができたという。
江戸期の概要
安政4年(1857)に作成されたといわれる絵図によると、庭瀬城は亀甲型の切り石を積み上げた外堀と内堀に囲まれ、表御門を北にとり、参勤交代や山陽道に面した物資流通の効率化を図っているとのこと。
表御門を入って行くと、以下「家中屋敷」「番所」「中屋敷」「御蔵」「作業場」「馬屋」、そして家屋6軒からなる「御殿」があり、それ以外の付属施設としては、「勤番部屋」「馬場」などがあったという。
城域は東西南北約200m四方の規模だったという。
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