天神山城(てんじんやまじょう)・その1
●所在地 岡山県和気郡和気町田土
●城郭構造 連郭式山城
●築城年 享禄5年(1532)
●築城者 浦上宗景
●廃城年 天正5年(1577)
●標高/比高 338m/310m
●遺構 郭・土塁・石垣・空堀・侍屋敷等
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2008年12月17日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
前稿「三石城」でも紹介したように、浦上政宗の弟・宗景によって築かれた山城である。
天神山城は、備前国の中でも特にその規模の大きさや遺構の多さなど、戦国期の山城として見るべきものが多く、西国の山城の中でも最高クラスのものだろう。
このため、三石城以上にサイトや史料で多く紹介されている。
【写真左】天神山城遠望
西麓からみたもので、右下には吉井川が流れる。
所在地は三石城より北西へ10キロ程度向かった吉井川の東に聳える天神山に築かれている。
前稿でも記したように、この場所は北方の美作国に向かう位置でもあるが、当城麓の地理的社会条件からすれば、吉井川両岸はそそり立つ山並みに覆われ、けっして良好な地どりとはいえない。
浦上宗景
築城者である浦上宗景は、前稿でも紹介したように、兄政宗と不和になり、備前国東部の有力国人を引き連れて分立し、天神山に拠った。
【写真左】登城口付近
この脇には 天石門別神社が建立されている。
天神山城を築いたのは、享禄5年(天文元年:1532)頃といわれている。宗景はその後天正5年(1577)に宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)に攻略され落城するまでの45年間、この城に在城した。
つまり、天神山城は一代限りの城主となったまれな城である。
ところで、度々参考にしている「日本城郭大系 第13巻」(新人物往来社編)の「岡山編」記述は非常に内容の濃いものだが、天神山城についても詳細な説明がなされている。これによると、天神山城はその経緯から整理すると、3期に分けられるという。
【写真左】天神山城跡配置図
この図でいえば、左下のところに登山口があり、西端から尾根伝いに登って行くコースが描かれている。
なお、この図にはないが、登山コースはこの外に、北側から向かうコースもあるようで、こちらの方が体力的には負担が少ないようだ。
また、この図の左端に「浦上与次郎墓」が描かれている。彼は宗景の嫡男で、宇喜多直家の娘を妻とするものの、直家に毒殺された。享年29歳。
【写真上】天神山城鳥瞰図
上の配置図と併せてご覧いただきたいが、この図は、天正初年頃を想定して描いたもので、各所に建屋(構造物)も再現している。
第1期は、兄政宗から分立し、直後にこの天神山に築城を開始した天文元年頃(1532年)。
第2期は、天文10年代から末年(1541~54)で、宗景が戦国大名として成長し、併せて当城の城郭形成期をなした頃。
第3期は、永禄年間(1558~)から天正5年(1577)の落城までのもので、最盛期には備前国をはじめ、美作・播磨国の一部まで所領を拡大し、元亀2年(1571)には上洛して織田信長に謁見したころである。
【写真左】下の段
西端部最初の郭で、「五十騎一備の枡形」とある。
宇喜多直家の攻略
しかし、急激な成長の後に待っていたのは、徐々に台頭しだした家臣・宇喜多直家による造反だった。家臣が主君を追い落とすいわゆる下剋上の事例は、直家に限ったことではないが、その策謀の陰湿さから、後に斎藤道三・松永弾正と並んで、三悪人と呼ばれた。
天神山城が宇喜多直家によって落とされたのは、天正5年(1577)のこととされているが、実際にはそれ以前にすでに天神山城を奪われていた。
そのあと、再び宗景は旧家臣であった坪井・馬場氏などを引き入れ、天神山城に拠った。ところが、このときも直家らの策略によって、宗景派から内応者が出始め、ついに落城した。追われた宗景の遁走先は不明だが、口伝では筑前に逃れ後に出家したといわれている。
【写真左】下の段から西の段を見る。
段差は約10m程度ある。西の段の先端部には櫓台が設けられている。
現在は展望台が設置され、眼下に吉井川が見える(下の写真参照)。
【写真左】西の段より吉井川を見る。
南方をみたもので、この川を下ると、児島湾・播磨灘にそそぐ。
【写真左】三の丸
説明板より
“三の丸
三の丸とは通常、二の丸と同様に城主の館、もしくは重臣(家老格)の屋敷が置かれていた。
城本来の機能的構成部分の外郭に相当する。
虎口は、他の郭と比べて厳重を極めている。”
【写真左】三の丸から東方を見る
このあたりから次第に規模が大きな郭が見え始める。
【写真左】鍛冶場
説明板より
“城の拡幅工事に必要な器具の製造・修理・武具・武器の確保のため、鍛冶職人を常に置いていた”
これまで他の山城も見てきたが、明確に「鍛冶場」と表記されたところは管理人の知る限りこの城砦が初めてだ。
天神山城の規模がいかに大きいか、こうした設備によって改めて知ることができる。
【写真左】百貫井戸跡
残念ながら当該井戸には足を踏み入れていない。
この写真から150mほど下がったところにあったようだ。
名前からして、相当大きな井戸のようだ。
【写真左】桜の馬場その1
現地の説明板より
“連郭式山城最大の曲輪、両側面には帯曲輪・腰曲輪・犬走りなどがある。
中央北側に大手門があり、西隅に鍛冶場があった。”
【写真左】桜の馬場その2
御覧の通り当城最大の郭で、長大である。
【写真左】長屋の段を見る
長大な「桜の馬場」を過ぎると、一旦下がり、次に見えるのが「長屋の段」である。
この場所には、倉庫があり、鉄砲櫓、食糧櫓・武器櫓があったという。
【写真左】二の丸及び本丸直近
長屋の段を過ぎると、二の丸が控える。二の丸を過ぎると、いよいよ本丸の西端部が見えてくる。
【写真左】空堀
二の丸と本丸の間にあるもので、現在は大分浅くなっているが、当時は相当深く掘り下げられていたのだろう。
【写真左】本丸
西端の下の段から相当歩いてやっと本丸にたどり着く。
距離にすると、約600m程度になる。
この後、さらに東方に向かって遺構が残るが、それらについては次稿で紹介したい。
●築城年 享禄5年(1532)
●築城者 浦上宗景
●廃城年 天正5年(1577)
●標高/比高 338m/310m
●遺構 郭・土塁・石垣・空堀・侍屋敷等
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2008年12月17日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
前稿「三石城」でも紹介したように、浦上政宗の弟・宗景によって築かれた山城である。
天神山城は、備前国の中でも特にその規模の大きさや遺構の多さなど、戦国期の山城として見るべきものが多く、西国の山城の中でも最高クラスのものだろう。
このため、三石城以上にサイトや史料で多く紹介されている。
【写真左】天神山城遠望
西麓からみたもので、右下には吉井川が流れる。
所在地は三石城より北西へ10キロ程度向かった吉井川の東に聳える天神山に築かれている。
前稿でも記したように、この場所は北方の美作国に向かう位置でもあるが、当城麓の地理的社会条件からすれば、吉井川両岸はそそり立つ山並みに覆われ、けっして良好な地どりとはいえない。
浦上宗景
築城者である浦上宗景は、前稿でも紹介したように、兄政宗と不和になり、備前国東部の有力国人を引き連れて分立し、天神山に拠った。
【写真左】登城口付近
この脇には 天石門別神社が建立されている。
天神山城を築いたのは、享禄5年(天文元年:1532)頃といわれている。宗景はその後天正5年(1577)に宇喜多直家(乙子城(岡山県岡山市乙子)参照)に攻略され落城するまでの45年間、この城に在城した。
つまり、天神山城は一代限りの城主となったまれな城である。
ところで、度々参考にしている「日本城郭大系 第13巻」(新人物往来社編)の「岡山編」記述は非常に内容の濃いものだが、天神山城についても詳細な説明がなされている。これによると、天神山城はその経緯から整理すると、3期に分けられるという。
【写真左】天神山城跡配置図
この図でいえば、左下のところに登山口があり、西端から尾根伝いに登って行くコースが描かれている。
なお、この図にはないが、登山コースはこの外に、北側から向かうコースもあるようで、こちらの方が体力的には負担が少ないようだ。
また、この図の左端に「浦上与次郎墓」が描かれている。彼は宗景の嫡男で、宇喜多直家の娘を妻とするものの、直家に毒殺された。享年29歳。
【写真上】天神山城鳥瞰図
上の配置図と併せてご覧いただきたいが、この図は、天正初年頃を想定して描いたもので、各所に建屋(構造物)も再現している。
第1期は、兄政宗から分立し、直後にこの天神山に築城を開始した天文元年頃(1532年)。
第2期は、天文10年代から末年(1541~54)で、宗景が戦国大名として成長し、併せて当城の城郭形成期をなした頃。
第3期は、永禄年間(1558~)から天正5年(1577)の落城までのもので、最盛期には備前国をはじめ、美作・播磨国の一部まで所領を拡大し、元亀2年(1571)には上洛して織田信長に謁見したころである。
【写真左】下の段
西端部最初の郭で、「五十騎一備の枡形」とある。
宇喜多直家の攻略
しかし、急激な成長の後に待っていたのは、徐々に台頭しだした家臣・宇喜多直家による造反だった。家臣が主君を追い落とすいわゆる下剋上の事例は、直家に限ったことではないが、その策謀の陰湿さから、後に斎藤道三・松永弾正と並んで、三悪人と呼ばれた。
天神山城が宇喜多直家によって落とされたのは、天正5年(1577)のこととされているが、実際にはそれ以前にすでに天神山城を奪われていた。
そのあと、再び宗景は旧家臣であった坪井・馬場氏などを引き入れ、天神山城に拠った。ところが、このときも直家らの策略によって、宗景派から内応者が出始め、ついに落城した。追われた宗景の遁走先は不明だが、口伝では筑前に逃れ後に出家したといわれている。
【写真左】下の段から西の段を見る。
段差は約10m程度ある。西の段の先端部には櫓台が設けられている。
現在は展望台が設置され、眼下に吉井川が見える(下の写真参照)。
【写真左】西の段より吉井川を見る。
南方をみたもので、この川を下ると、児島湾・播磨灘にそそぐ。
【写真左】三の丸
説明板より
“三の丸
三の丸とは通常、二の丸と同様に城主の館、もしくは重臣(家老格)の屋敷が置かれていた。
城本来の機能的構成部分の外郭に相当する。
虎口は、他の郭と比べて厳重を極めている。”
【写真左】三の丸から東方を見る
このあたりから次第に規模が大きな郭が見え始める。
【写真左】鍛冶場
説明板より
“城の拡幅工事に必要な器具の製造・修理・武具・武器の確保のため、鍛冶職人を常に置いていた”
これまで他の山城も見てきたが、明確に「鍛冶場」と表記されたところは管理人の知る限りこの城砦が初めてだ。
天神山城の規模がいかに大きいか、こうした設備によって改めて知ることができる。
【写真左】百貫井戸跡
残念ながら当該井戸には足を踏み入れていない。
この写真から150mほど下がったところにあったようだ。
名前からして、相当大きな井戸のようだ。
【写真左】桜の馬場その1
現地の説明板より
“連郭式山城最大の曲輪、両側面には帯曲輪・腰曲輪・犬走りなどがある。
中央北側に大手門があり、西隅に鍛冶場があった。”
【写真左】桜の馬場その2
御覧の通り当城最大の郭で、長大である。
【写真左】長屋の段を見る
長大な「桜の馬場」を過ぎると、一旦下がり、次に見えるのが「長屋の段」である。
この場所には、倉庫があり、鉄砲櫓、食糧櫓・武器櫓があったという。
【写真左】二の丸及び本丸直近
長屋の段を過ぎると、二の丸が控える。二の丸を過ぎると、いよいよ本丸の西端部が見えてくる。
【写真左】空堀
二の丸と本丸の間にあるもので、現在は大分浅くなっているが、当時は相当深く掘り下げられていたのだろう。
【写真左】本丸
西端の下の段から相当歩いてやっと本丸にたどり着く。
距離にすると、約600m程度になる。
この後、さらに東方に向かって遺構が残るが、それらについては次稿で紹介したい。
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