2011年4月14日木曜日

両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)

両児山城(ふたごやまじょう)

●所在地 岡山県玉野市八浜町八浜
●別名 八浜城・二子山城
●築城期 天正年間(1580年頃)
●築城者 宇喜多基家(戸川秀安)
●形態 山城
●標高 53m
●遺構 空堀・土塁
●登城日 2011年4月13日

◆解説(参考文献「サイト岡山とその周辺地域のお城と武家屋敷などの古い町並みや名所・旧跡」等)
 両児山城は、別名八浜城とも呼ばれ、現在の児島湖の南端部八浜にある両児山(ふたごやま)に築かれた。
【写真左】両児山城遠望

 西麓の玉野光南高校のグランドから見たもの。
 独立した丘陵で、二つの峰がラクダのコブのように繋がっている。
 城砦遺構は、この写真の右(南側)に残っている。


八浜合戦 

 前稿「常山城」の「八浜合戦」で紹介した山城で、天正9年(1581)、宇喜多基家が当城に拠って毛利軍と激戦を重ねた。
この合戦で基家は討死したが、戸川秀安などが奮戦し、毛利側の猛攻を凌いだといわれている。
なお、この八浜合戦の前哨戦として知られるのが、八浜の西方に聳える「麦飯山城」における戦いである。
 天正4年(1576)、当地において毛利方指揮官・穂井田元資は、宇喜多基家と戦っている。
【写真左】南の両児山城西側切崖

 当城の西側は現在崖崩れの個所が多く残っているが、このことは当初から天然の要害であったことを示し、下段の写真にある土塁は西側にほとんど必要なかったことが分かる。
【写真左】八濱城址とかかれた石碑
 付近には、墓地が点在しているが、この写真の位置が最も高い所で、主郭があったところと思われる。

【写真左】土塁及び塹壕・その1
 上記したように、土塁と塹壕が付設してあるのは南面から東面にかけてである。

【写真左】土塁と塹壕・その2
 南北にわたって約100m弱、東西20m程度の規模を持つ。
【写真左】土塁と塹壕・その3
 現在は大分埋まっているが、当時は最低でも2m程度の深さがあったものと思われる。
【写真左】本丸跡付近
 遺構部分は芝が植えられ、展望休憩施設などの建物が建つ。
【写真左】外郭に設置された土塁
 散歩道として整備されているため、当時の面影が大分改変されているが、東側の外周部にも一部土塁や塹壕跡が確認できる。
 長さは約20m程度ある。
【写真左】竪堀
 西側に比べ、東側には部分的に緩斜面がある。このため、竪堀跡が認められる。
【写真左】東方に金甲山を遠望する
 両児山の二つの頂の中央部は低くなって、平坦部があるが、その個所から東方を望むと、玉野市の最高峰・金甲山(H403m)が見える。
 歴史のある山で、近年まで観光コースだったらしいが、現在はすたれてしまっているようだ。
 残念ながら、当山が山城であったという記録はない。
【写真左】八浜八幡宮など
 北側の峰には、八浜八幡宮、御崎神社、快(こころよし)神社など複数の神社がまつられている。

 戦国期もおそらく合戦の場となったであろうが、現在は社関係の施設が建っているため、当時の遺構はほとんど確認できない。


◎関連投稿
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