2011年4月3日日曜日

富田松山城(岡山県備前市東片上)

富田松山城(とだまつやまじょう)

●所在地 岡山県備前市東片上
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 浦上国秀、浦上景行
●標高/比高 200m/200m
●遺構 郭・土塁・堀切等
●形態 輪郭式山城
●登城日 2010年2月23日

◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
 前稿まで紹介した三石城(岡山県備前市三石)天神山城(岡山県和気郡和気町田土)と同じく、浦上氏の居城とされた山城である。
 所在地は、岡山県備前市にあって、播磨灘から奥行きの長い片上湾の東麓に聳える富田松山に築かれている。

 海に面していることもあって、山城の形態と海城の機能を併せ持った城砦と思われる。この付近には、片上湾を基点に、東方に富田松山城を置いて、西方には茶臼山城、及び田井山城と呼ばれる城砦もあったことから、瀬戸内から攻めてくる防御も設計構築されていたと思われる。
【写真左】富田松山城遠望
 片上湾南岸から見たもので、写真左側に備前市役所はじめ同市の中心市街地がある。



現地の説明板より

富田松山城址について
 富田松山城址は、東片上、南岸、海抜209mの頂(いただき)にあって、残礎等はほぼ旧態を追想するに足る。

 また、眺望よく戦国時代に相応しい山城であった。播州と備前東南部を扼する浦上氏は、本城を三石に置く関係から、備中の雄・松田氏に対して西方面を固める城砦として築いたものであろう。

 文明、若しくはそれ以前から天正年間に至るまで、約100年の間、代々浦上氏の居城であった。
 城主のうち、浦上近江守国秀から「片上年寄中」宛ての書状(享禄末?)2通が現存している。
   以上  平成元年2月建立 ”
【写真左】登山口
 当城の東麓、東片上の品川白煉瓦グランド付近に駐車スペースがあり、ここから歩いて行く。
 


 
 築城期は明確ではないが、当地・備前の代名詞といわれる備前焼が室町期に隆盛を誇り、それらが当時最大の産業として大きな利益を生んだことから、必然的に海上交通の軍事的城砦が併せて造られていったものと思われる。

 当時の支配勢力図は、備前国守護職であった赤松氏及び、当守護代の浦上氏が当地を押さえ、西方には、備前松田氏が備中・備後勢と組み、互いに覇を競った。
【写真左】富田松山城址縄張略測図
 登城口付近の説明板に付記されている図で、全体の構成がよくわかる。









福岡合戦

 文明15年(1483)、吉井川沿い築かれた備前・福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に拠る浦上則宗(赤松氏守護代)に、金川城(岡山県岡山市北区御津金川)を本拠とする松田元成が攻撃(福岡合戦)、翌年当城は堕ちた。
 
 勢いづいた松田氏は、次に浦上氏の本城・三石城を攻めて行ったが、反撃にあい遁走中に元成は自刃した。

 富田松山城は、こうした経緯から浦上氏の本城・三石城の西のかためとして、本格的な城砦が築かれたものと思われる。

 従って、今月投稿した三石城の中で、浦上国秀が当城を構えた、と記しているが、富田松山城の築城期は、戦国期よりさかのぼった文明年間に既に築城されていたと考えられる。
【写真左】登山道分岐点
 富田松山城の登山ルートは今回の東麓側と、西麓側の2コースあるようだが、西麓側には駐車場が確保されていないようで、一般的には東麓側からのほうが多いようだ。

 写真は東麓側からのものだが、途中で分岐点となるところ。右は北側から入る短距離コース、左は南側から回って入るコース。今回登りは右をとり、下山は左側のコースをとった。



浦上国秀の出自

 さて、このときの城主である浦上国秀については、三石城の稿でも付記しているように、父・村宗の子、すなわち長男・政宗、二男・宗景、そして三男・国秀とする説もあるが、別の史料では、国秀だけは、これらの兄弟ではなく、長男・政宗の後見人であったとするものもある。
【写真左】最初のピーク
 東方の峰に向かう尾根筋で、「東出丸」といわれるところの稜線部分。





 名前だけで判断するのは、よくないが、浦上兄弟の名前からして、父村宗のそれぞれの一字をとった長男・政宗、二男・宗景に対し、国秀のみが村宗の字を戴くものとなっていない。

 こうしたことから、管理人としては、国秀はやはり村宗の三男ではなく、政宗の後見人であったとするほうが事実ではないかと思われる。
【写真左】雨乞い峠と富田松山城の分岐点
 この辺りになると、ほとんどピークの延長線上で、左に向かうと、もうひとつの下山コース(雨乞い峠)となり、右に向かうと富田松山城(本丸まで300m)に繋がる。



 国秀が富田松山城に在城したのは、天文年間(1532~55)であったという。その後一時城主がだれであったか不明で、14年後の永禄12年(1569)には、浦上景行だったという。

 そして、前稿「天神山城」でも紹介した宇喜多直家砥石城・その1(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)参照)が、やはり天神山城と同じく、天正5年(1577)頃、当城・富田松山城も攻め落としたといわれている。
【写真左】東出丸
 本城の東方200mにあるもので、長径30m、短径15m程度の郭となっている。
 大分侵食され低くなっているものの、ほぼ全周囲にわたって土塁が構成されている。

【写真左】東出丸から富田松山本城を遠望する。
 東出丸から一旦下がり、途中の堀切を右に見て南側斜面から向かうと本城にたどり着く。
【写真左】堀切
 富田松山城には明確に残る堀切はこの個所が唯一で、長さ50m、深さは20~50m程度もあり、規模が大きい。

 なお、撮影場所は本城に向かう南側の搦手ルートで、この後最初の段が控え、さらに三の丸が設けられ、そのあと本丸が控えている。
【写真左】三の丸
 本丸東方に設置されているもので、長径30m×短径20mの規模。
 なお、この北方の個所から直接大手筋に向かう道が設置されている。
【写真左】本丸・その1
 長径60×短径38mで、卵型をなし、周囲を上幅2m、高さ1mの土塁が囲む。
【写真左】本丸・その2・土塁
 本丸の全周囲を土塁が囲むものは他の城砦でも見受けられるが、これだけ綺麗に整備されているところは珍しいほうだろう。

【写真左】本丸から二の丸・大手筋に向かうところ
 本丸の西側には下段の二の丸に降りる開口部がある。この道はそのまま、二の丸、小郭(2段)、及び大手曲輪、大手腰曲輪の脇を通り、最後は大手筋に繋がる。

【写真左】二の丸
 長径50m、短径15mの規模で、搦手・大手の両側を扼する位置に設置されている。
 なお、二の丸の南方にも下に3,4カ所の郭段が控えている。
【写真左】大手曲輪
 中間部の郭段で、南側からぐるっと二の丸下を周り、北西端から本丸北中央部まで、200~250mの長さを誇る。幅はほぼ10m程度。

【写真左】井戸跡
 大手腰曲輪エリアにあったもので、搦手側に近い。
 当城の山の地質から考えると、相当深い井戸だったと思われる。
【写真左】片上湾を望む
 本丸からの眺望もよいが、さらにいいポイントは、東出丸から本城に向かう途中の搦手コースからの眺めは必見である。

 写真に見える橋は、片上湾の東端にある岡山ブルーラインの片上橋。その奥には播磨灘が控える。

 風景写真に興味がある方には特にオススメと思われる。

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