常山城(つねやまじょう)
●所在地 岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川
●築城期 文明年間(1467~87)
●築城者 上野土佐守か
●形態 連郭式山城
●標高/比高 307m/305m
●城主 上野氏、戸川秀安、伊岐真利
●廃城年 慶長8年(1603)
●遺構 郭・石塁・堀切・井戸等
●指定 玉野市指定史跡
●登城日 2007年11月30日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
常山城は岡山県児島半島の付け根北側に設置された山城で、東の備中から備前の南部に侵攻をする際、迂回コースとなることから、中世・戦国期には重要な要衝となったという。
【写真左】常山城遠望
北側から見たもの。
撮影日 2016年8月19日
北に伸びる4,5段の郭(北二の丸・三の丸、及び青木丸・栂尾丸など)に植えられている。
現地の説明板より
“玉野市指定史跡
常山城跡
指定 昭和39年6月25日
所在地 玉野市字藤木・用吉・木目及び灘崎町迫川
「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高307m)の山頂一帯に、「常山城跡」はあります。城郭は山頂の本丸を中心に合14 の曲輪で構成される「連郭式山城」です。
築城の時期は、戦国時代のはじめと推定され、上野氏・戸川氏・伊岐氏等の城主が知られています。
【写真左】本丸跡
写真右に建立されているのは、城主・上野隆徳の碑。
常山城に残る郭は全体に幾何学的に角形が多いが、この本丸も東西37m、南北50mの長方形となっている。
後ろに見えるのはテレビ塔施設
女軍の戦いは、1575(天正3)年のことで、この戦いで当時の城主上野氏は、毛利氏によって滅ぼされました。
その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが、毛利氏の築城技術といわれる竪堀や、堀切の遺構は発見されていません。おそらく、毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと思われます。
【写真左】常山城の略測図
左図では、下方が北になる。本丸を中心にV字の縄張構成をなし、左の郭段(東二の丸・三の丸など)は、全長約200m、右の栂尾丸までの郭段は全長約250m余りある。
なお、この図の栂尾二の丸に駐車場が示されているが、登城したこの日(2007年11月30日)は、途中の道路が崩落していたため、通行止めで、麓から徒歩で登った。スタート地点がほぼ海抜(0m)なので、文字通り常山城の標高307mを登ったことになる。
東側の郭段から周り、本丸を経由して栂尾丸にたどるコースをとった。
常山城は、児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点でしたが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、1603(慶長8)年に廃城となりました。
城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられています。
平成6年1月29日
玉野市教育委員会”
【写真左】登山口付近
常山城の北東麓にあり、その近くには下段写真に示す友林堂がある。
城主・上野氏
この説明板には、下段に当城の「小史」として、ときの城主名及び事項が列記してある。これによると、明応元年(1492)時、城主は、上野土佐守・同肥前守とあり、常山城に拠って児島の支配を始めた、とある。
ただ、冒頭に示したように、当城の築城期が文明年間(1467~87)、すなわち応仁の乱の勃発期とされているので、前記した上野土佐守などは、それらの乱が一応収まった後の城主と考えられる。ちなみに、上野一族としてはこの外に、豊前守・三河守の名が残る(「備前軍記」)。
その後、同氏は備前国南部を中心として、児島北東部を掌握していたとされる。
【写真左】腹切岩
本丸跡にあるもので、城主上野隆徳がこの岩の上で自害したといわれている。
児島の地勢
ところで、説明板にもあるように、中世初頭までの児島地域の地勢を見てみると、常山城を含めた一帯は文字通り瀬戸内に浮かぶ島(児島)で、東に浮かぶ小豆島より少し大きい島だった。
現在のように西側から完全な地続きになったのは、元和4年(1618)、すなわち江戸期に入ってからである。
【写真左】本丸跡
全体に均されているが、植樹された木々が並んでいる。
こうしたことから、戦国期には児島がある程度西側から本土と繋がり始めたころで、例えば、当時の児島湾の西岸位置は、現在の岡山市南区を走る宇野線(早島~茶屋町~備前片岡駅)あたりまでと思われ、常山城は、児島湾対岸の本土を真北に見据える位置となる。
従って、常山城の形態としては山城でもあるが、実際の軍事的活動の拠点としては、城下の麓を軍港的施設とする海城機能を併せ持った城砦ではなかったかと考えられる。
【写真左】本丸跡から瀬戸内方面を見る・その1
眺望は一部を除いて良好である。
地形的にも現在の南東部麓にある用吉付近残る「舟元」という地名などは、おそらく当時の港があったことを物語る。
なお、常山城の出城として記録に残るのは、西岸の水島灘を監視するために造られた湊山城(倉敷市児島通生)がある。
【写真上】本丸跡から瀬戸内方面を見る・その2
南西方向には瀬戸内大橋が望める。
戦国期
天文23年(1554)頃、常山城主上野隆徳は、備中の三村家親の娘・舞姫を妻に迎え、三村氏と連合した。当時、三村氏は宿敵宇喜多直家と争い、備前南東部の支配を争っていた。その後、毛利氏が東進してくると、一時三村氏は毛利氏と与同していたが、宇喜多氏の影響もあって、毛利氏に反旗を翻した(備中兵乱)。
【写真左】舞姫・城主一族を祀った墓石
本丸下の「北二の丸」に設置されたもので、昭和12年(1937)、城主隆徳や舞姫など女軍の冥福を祈って建立された。
常山城合戦・舞姫の最期
天正2年(1574)、毛利氏は三村氏討伐の兵を起こし、次々と三村氏の所領を奪い、最後にのこった常山城を明くる3年(1575)、大軍で攻撃した。この年の6月2日、三村元親が自刃、5日後の7日、城主上野隆徳は当城で自刃し、常山城は落城した。
この戦を「常山合戦」と呼び、説明板にも紹介されているように、城主隆徳の妻・舞姫を中心とした侍女たち34人も槍を持ち戦ったが、最期は本丸で自らその命を絶ったといわれている。(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)
常山城が落城した直後、毛利氏は山本四郎左衛門・渡辺伊豆・冷泉元満などを一時的な城番とした。明くる天正4年(1576)、毛利氏は宇喜多直家に当城を与え、直家は家臣の戸川秀安を城主に命じた。
ところが、3年後の天正7年(1579)、毛利方だった宇喜多氏は離反し、織田信長に属した。当然、毛利氏は宇喜多氏を攻めるが、背後に織田軍が支援していることもあって、逆に撃退され、一旦帰陣した。
【写真左】友林堂(玉野市指定文化財)
常山城主・戸川秀安(友林)の位牌を安置する霊廟。
江戸時代(文化2年)に、地元戸川四氏(撫川・早島・帯江・妹尾)によって建立されたという。
八浜合戦
天正9年(1581)、織田方の中国征討計画を知った毛利軍は、先手を打つべく、児島北東部に軍をすすめ、常山城の東方麦飯山に陣を敷いた(麦飯山城・H232m)。
これに対する宇喜多直勢のうち、直家はすでに病死していたらしく、直家の舎弟の子・基家を大将として、戸川秀安と併せ、両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)に出陣した。
合戦はこの八浜付近で行われ、宇喜多基家は討死したが、残った戸川秀安などの奮戦もあって、毛利氏側を撃退させた。
廃城までの経緯
その後、織田信長の本能寺の変などがあり、秀吉と毛利氏が和睦を結んだことにより、天正13年(1585)、児島全域が宇喜多氏の所領となった。戸川秀安は宇喜多氏の家臣となり、そのまま常山城に在城することになるが、秀安死去(慶長2年:1597)後、あとを継いだ子の達安は、慶長3年(1598)に起こった宇喜多家騒動において、主君宇喜多秀家と対立、徳川家に預けられた。
関ヶ原の合戦(1600)により、宇喜多家は滅亡し、備前国の領主となった小早川秀秋は、家臣の伊岐真利を城主とした。慶長8年(1603)、秀秋病死後、池田忠継(代理利隆)は、常山城を廃城とした。
●所在地 岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川
●築城期 文明年間(1467~87)
●築城者 上野土佐守か
●形態 連郭式山城
●標高/比高 307m/305m
●城主 上野氏、戸川秀安、伊岐真利
●廃城年 慶長8年(1603)
●遺構 郭・石塁・堀切・井戸等
●指定 玉野市指定史跡
●登城日 2007年11月30日
◆解説(参考文献「日本城郭大系 第13巻」等)
常山城は岡山県児島半島の付け根北側に設置された山城で、東の備中から備前の南部に侵攻をする際、迂回コースとなることから、中世・戦国期には重要な要衝となったという。
北側から見たもの。
撮影日 2016年8月19日
東麓の用吉側からみたもの
【写真左】常山城の紅葉北に伸びる4,5段の郭(北二の丸・三の丸、及び青木丸・栂尾丸など)に植えられている。
現地の説明板より
“玉野市指定史跡
常山城跡
指定 昭和39年6月25日
所在地 玉野市字藤木・用吉・木目及び灘崎町迫川
「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高307m)の山頂一帯に、「常山城跡」はあります。城郭は山頂の本丸を中心に合14 の曲輪で構成される「連郭式山城」です。
築城の時期は、戦国時代のはじめと推定され、上野氏・戸川氏・伊岐氏等の城主が知られています。
【写真左】本丸跡
写真右に建立されているのは、城主・上野隆徳の碑。
常山城に残る郭は全体に幾何学的に角形が多いが、この本丸も東西37m、南北50mの長方形となっている。
後ろに見えるのはテレビ塔施設
女軍の戦いは、1575(天正3)年のことで、この戦いで当時の城主上野氏は、毛利氏によって滅ぼされました。
その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが、毛利氏の築城技術といわれる竪堀や、堀切の遺構は発見されていません。おそらく、毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと思われます。
【写真左】常山城の略測図
左図では、下方が北になる。本丸を中心にV字の縄張構成をなし、左の郭段(東二の丸・三の丸など)は、全長約200m、右の栂尾丸までの郭段は全長約250m余りある。
なお、この図の栂尾二の丸に駐車場が示されているが、登城したこの日(2007年11月30日)は、途中の道路が崩落していたため、通行止めで、麓から徒歩で登った。スタート地点がほぼ海抜(0m)なので、文字通り常山城の標高307mを登ったことになる。
東側の郭段から周り、本丸を経由して栂尾丸にたどるコースをとった。
常山城は、児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点でしたが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、1603(慶長8)年に廃城となりました。
城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられています。
平成6年1月29日
玉野市教育委員会”
【写真左】登山口付近
常山城の北東麓にあり、その近くには下段写真に示す友林堂がある。
城主・上野氏
この説明板には、下段に当城の「小史」として、ときの城主名及び事項が列記してある。これによると、明応元年(1492)時、城主は、上野土佐守・同肥前守とあり、常山城に拠って児島の支配を始めた、とある。
ただ、冒頭に示したように、当城の築城期が文明年間(1467~87)、すなわち応仁の乱の勃発期とされているので、前記した上野土佐守などは、それらの乱が一応収まった後の城主と考えられる。ちなみに、上野一族としてはこの外に、豊前守・三河守の名が残る(「備前軍記」)。
その後、同氏は備前国南部を中心として、児島北東部を掌握していたとされる。
【写真左】腹切岩
本丸跡にあるもので、城主上野隆徳がこの岩の上で自害したといわれている。
児島の地勢
ところで、説明板にもあるように、中世初頭までの児島地域の地勢を見てみると、常山城を含めた一帯は文字通り瀬戸内に浮かぶ島(児島)で、東に浮かぶ小豆島より少し大きい島だった。
現在のように西側から完全な地続きになったのは、元和4年(1618)、すなわち江戸期に入ってからである。
【写真左】本丸跡
全体に均されているが、植樹された木々が並んでいる。
こうしたことから、戦国期には児島がある程度西側から本土と繋がり始めたころで、例えば、当時の児島湾の西岸位置は、現在の岡山市南区を走る宇野線(早島~茶屋町~備前片岡駅)あたりまでと思われ、常山城は、児島湾対岸の本土を真北に見据える位置となる。
従って、常山城の形態としては山城でもあるが、実際の軍事的活動の拠点としては、城下の麓を軍港的施設とする海城機能を併せ持った城砦ではなかったかと考えられる。
【写真左】本丸跡から瀬戸内方面を見る・その1
眺望は一部を除いて良好である。
地形的にも現在の南東部麓にある用吉付近残る「舟元」という地名などは、おそらく当時の港があったことを物語る。
なお、常山城の出城として記録に残るのは、西岸の水島灘を監視するために造られた湊山城(倉敷市児島通生)がある。
南西方向には瀬戸内大橋が望める。
戦国期
天文23年(1554)頃、常山城主上野隆徳は、備中の三村家親の娘・舞姫を妻に迎え、三村氏と連合した。当時、三村氏は宿敵宇喜多直家と争い、備前南東部の支配を争っていた。その後、毛利氏が東進してくると、一時三村氏は毛利氏と与同していたが、宇喜多氏の影響もあって、毛利氏に反旗を翻した(備中兵乱)。
【写真左】舞姫・城主一族を祀った墓石
本丸下の「北二の丸」に設置されたもので、昭和12年(1937)、城主隆徳や舞姫など女軍の冥福を祈って建立された。
常山城合戦・舞姫の最期
天正2年(1574)、毛利氏は三村氏討伐の兵を起こし、次々と三村氏の所領を奪い、最後にのこった常山城を明くる3年(1575)、大軍で攻撃した。この年の6月2日、三村元親が自刃、5日後の7日、城主上野隆徳は当城で自刃し、常山城は落城した。
この戦を「常山合戦」と呼び、説明板にも紹介されているように、城主隆徳の妻・舞姫を中心とした侍女たち34人も槍を持ち戦ったが、最期は本丸で自らその命を絶ったといわれている。(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)
常山城が落城した直後、毛利氏は山本四郎左衛門・渡辺伊豆・冷泉元満などを一時的な城番とした。明くる天正4年(1576)、毛利氏は宇喜多直家に当城を与え、直家は家臣の戸川秀安を城主に命じた。
ところが、3年後の天正7年(1579)、毛利方だった宇喜多氏は離反し、織田信長に属した。当然、毛利氏は宇喜多氏を攻めるが、背後に織田軍が支援していることもあって、逆に撃退され、一旦帰陣した。
現地の説明板より
“玉野市指定文化財
戸川友林及び日賢・日教の墓
昭和36年3月27日指定
戸川友林は、平右衛門秀安といい、宇喜多直家に仕え、天正3年(1575)の常山合戦の後、常山城主に命じられた。同18年(1590)に家督を嫡子逵安(みちやす)に譲り、山麓に草庵を結んで閑居し、慶長2年(1597)に没した。日賢・日教は友林の重臣と伝えられている。
玉垣の中にあるのが友林の五輪塔で(高さ245cm)、土塀の外の左側が日賢(高さ137cm)、右側が日教(高さ124cm)の墓である。いずれも豊島石製である。
墓守の則武氏(のち大塚氏)代々が、友林の位牌を祀っていたが、文化2年、戸川氏が霊廟を建てたので、ここに安置した。これがすぐ下にある友林堂である。
平成17年8月 玉野市教育委員会”【写真左】友林堂(玉野市指定文化財)
常山城主・戸川秀安(友林)の位牌を安置する霊廟。
江戸時代(文化2年)に、地元戸川四氏(撫川・早島・帯江・妹尾)によって建立されたという。
八浜合戦
天正9年(1581)、織田方の中国征討計画を知った毛利軍は、先手を打つべく、児島北東部に軍をすすめ、常山城の東方麦飯山に陣を敷いた(麦飯山城・H232m)。
これに対する宇喜多直勢のうち、直家はすでに病死していたらしく、直家の舎弟の子・基家を大将として、戸川秀安と併せ、両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)に出陣した。
合戦はこの八浜付近で行われ、宇喜多基家は討死したが、残った戸川秀安などの奮戦もあって、毛利氏側を撃退させた。
廃城までの経緯
その後、織田信長の本能寺の変などがあり、秀吉と毛利氏が和睦を結んだことにより、天正13年(1585)、児島全域が宇喜多氏の所領となった。戸川秀安は宇喜多氏の家臣となり、そのまま常山城に在城することになるが、秀安死去(慶長2年:1597)後、あとを継いだ子の達安は、慶長3年(1598)に起こった宇喜多家騒動において、主君宇喜多秀家と対立、徳川家に預けられた。
関ヶ原の合戦(1600)により、宇喜多家は滅亡し、備前国の領主となった小早川秀秋は、家臣の伊岐真利を城主とした。慶長8年(1603)、秀秋病死後、池田忠継(代理利隆)は、常山城を廃城とした。
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