2009年12月8日火曜日

桜尾城跡・その2

桜尾城跡・その2

浄泉寺(じょうせんじ)と金屋子神社周辺

【写真左】浄泉寺の山門
 石見三門の一つである。










◆解説(参考文献「図説 島根県の歴史」(河出書房)、島根県遺跡データーベース等)

 前稿で紹介した浄泉寺は、桜尾城の北にあり、同寺の裏山に最初に桜尾城の前身・高城が築城されている。高城については数年前詳細な発掘調査が行われている。築城期は、1200年代といわれ、益田氏から分家した周布氏が築城している。

 浄泉寺からさらに桜尾城側へ向かう途中には、金屋子神社があるが、この神社の裏山には「滝ノ尾城」が記録されている。遺構からすると初期は、中世以前からあったようで、土杭・加工段などがあり、山城形態も含め、麓に金屋子神社などがあることから、鉄穴場であった可能性も高い。

 浄泉寺からさらに浜田側に向かうと、やはり浜田自動車道沿いに「早水城」もあるが、この城についても、古代から中世に及ぶ多種の遺構があることから、山城のみに限定はできない。
【写真左】浄泉寺の山門
 写真では分かりにくいが、非常に繊細な彫刻が施してある。








 ところで、現在の島根県は昔の国名でいえば、出雲・隠岐・石見の3国から成り立っている。

 このうち石見をさらに区分すると、東から石東(せきとう)・石央(せきおう)・石西(せきせい)の呼び名で区分けされている。それぞれの中心都市は、同上順に大田市・浜田市・益田市となるが、厳密な境界線があるわけではない。石見部の面積と出雲の面積では石見部がかなり大きく、しかも東西に長い。

【写真左】浄泉寺の西側に立つ浜田自動車道のコンクリート橋脚の彫刻
 高速道路の橋脚に彫刻があるのは大変珍しい。写真の橋脚左側に大木を表現した作品があるが、この彫刻(彫塑というべきか)も、山門のそれと同じく精緻を極めている。 なお、この橋脚の背後の山が「高城(桜尾城の前身)」になる。







 浄泉寺がある地域は、石東および石央の範囲に当たるが、江戸期に確立した浄土真宗の「石見門徒」の中心部である。特に浄泉寺から出た仰誓(ごうせい:1721~94)は『妙好人伝』をつくるなど、親鸞の教えに忠実な石見教学を育てる。

 石見地方に浄土真宗の教線が多いのは彼らの活躍もあるが、もとは備後山南(さんな)の光照寺を中心とする明光上人系教団だといわれている。光照寺の末寺・照林坊の7世・祐了のとき、永正4年(1507)、広島安芸高田郡原田(現高宮町)に移し、その後永正14年、舟木(高宮町)に移した。この場所は、石見と国境を接し、次第に北上していくきっかけとなる。

 記録によれば、毛利隆元(元就の長男)が、同地に350貫の地を照林坊に寄進しているが、当時から毛利氏は浄土真宗派に対して保護に努めながら、一方で領地拡大のためのいわばソフト面での戦略(教線活動)も巧みに利用していたように思える。

 こうしたことが明瞭に発揮されるのは、元亀元年(1570)から勃発した、織田信長と石山本願寺の抗争において、毛利側は安芸門徒と併せ、石見門徒も参画させ、多くの兵員や銀(石見銀山より)を送っていることである。
【写真左】金屋子神社
 神社の背後に「滝ノ尾城跡」がある。
【写真左】同神社の鳥居・本殿
 当時は、野だたら方式だったと思われるが、神社の規模から考えても、当時から相当の産出量を誇っていたと思われる。 
 確かこの脇に、鉧(けら)塊があったような気がする。

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