小国城跡(おぐにじょうあと)
●所在地 島根県浜田市金城町小国
●探訪日 2009年11月27日
●標高 503m
● 遺構 空堀、郭、帯郭、堀切、石垣
●築城期 中世
●城主 徳田刑部少輔
◆解説(参考文献:「島根県遺跡データベース」等)
以前取り上げた同県内の奥出雲町にある「小国城」と同名であるが、この場所は石見の小国城である。
【写真左】小国城遠望
南側からみたもの。左に少し見える山が「金木城(金城山)」の稜線
登城口は、右に見える神社の左側にある。
当城に関する資料はほとんどなく、唯一城主が徳田刑部少輔という武将であったということ程度である。
所在地を見てみると、前々稿で取り上げた「花城」から北へ下り、途中の田ノ原というところから、東に52号線(県道か)を通って約2キロほどいった場所にある。
直線距離では3キロ程度になるので、おそらくこの城も波佐一本松城と何らかの関係があったものとも思われるが定かでない。
【写真左】抱月トンネル付近にある案内図
この場所は花城や波佐一本松城に向かうR186号線と、県道52号線の分岐点で、小国城は図の中央上部に示されている(写真クリック)。
なお、図にある男性の絵は、金城町が生んだ演劇作家・島村抱月。
もう一つ考えられるのは、この小国城の背後にある金木城(H720m)の出城とも考えられる。金木城は、南北朝期、北朝方の部将として活躍した田村氏の居城で、戦国期・永禄年間(1558~70)、福屋氏の家臣で、前記した徳田刑部少輔兼行が在城したともいわれている。
地取りを考えると、安芸(広島)から雲月山を越えて浜田方面に向かう途中の場所でもあり、東には多数の山城があった旧旭町にも繋がることから、戦略的には重要な場所でもあったと思われる。
【写真左】小国城手前の沿道にある「島村抱月の生誕地顕彰の杜」
ちなみに、この付近もむかしから「たたら」が盛んで、抱月の父も「たたら」業を営んだが、明治5年の浜田地震で被害を受けるなど苦労したという。
この付近の地名は「下土居」ということから、小国城と関係のある屋敷があったものと思われる。
【写真左】登城口付近
この写真の右に「最中山神社」神社がある。抱月の父が当社へ絵馬を奉納しているが、その絵は「宇治川先陣争いの図」という。
当地・小国の武将がおそらく京へ上り、功があったという事だろう。ちなみにその武将は、他の石見武士と同様、源氏方だったと思われる。
【写真左】登城路
登城路はほとんど直進するコースで、距離は短いものの、傾斜が思った以上にあり、ゆっくりと上がった方がいい。
道そのものは管理がされていて、ブッシュの個所はまったくない。
【写真左】本丸直下付近
途中で二手に分かれ、一方は尾根伝い、もう一方は斜面をジグザグに折れながら行く道がある。登りは後者を選んだ。
写真の明るい場所は二の壇(仮称)の脇になる。
【写真左】二の壇
現地には特に遺構名を示すものはないため、便宜上、使用している。
下の方が二の壇で、左斜面の上が本丸になる。
【写真左】本丸その1
二の壇から本丸までは約4m程度で、右側に登り道がある。
本丸跡には写真のような小屋(休憩小屋)が建っているが、だいぶ年数が建っていて、内部の椅子も壊れていて座ることができない。
【写真左】本丸その2
小屋の左側(西)には小規模な土塁が残っている。
【写真左】三角点
本丸の北西地点に設置されている。なお本丸周辺のうち、西側、北側はかなりの要害をもった急峻な切崖となっている。
【写真左】金木城方面を見る
本丸から南方向の視界は割といい方だが、北の金木城方面はやや不良。
春・夏にはおそらく北方向はまったく見えないだろう。
【写真左】本丸から南に伸びる郭壇
下山はこの尾根伝いに繋がる郭壇を通った。段数は4,5カ所で、下に降りるに従って尾根幅が狭くなり、自然に郭は消滅していく。
遺構記録にある堀切や、空堀はそれらしきものは見えたが、ほとんど埋まっているような状況で、判然としない。
●所在地 島根県浜田市金城町小国
●探訪日 2009年11月27日
●標高 503m
● 遺構 空堀、郭、帯郭、堀切、石垣
●築城期 中世
●城主 徳田刑部少輔
◆解説(参考文献:「島根県遺跡データベース」等)
以前取り上げた同県内の奥出雲町にある「小国城」と同名であるが、この場所は石見の小国城である。
【写真左】小国城遠望
南側からみたもの。左に少し見える山が「金木城(金城山)」の稜線
登城口は、右に見える神社の左側にある。
当城に関する資料はほとんどなく、唯一城主が徳田刑部少輔という武将であったということ程度である。
所在地を見てみると、前々稿で取り上げた「花城」から北へ下り、途中の田ノ原というところから、東に52号線(県道か)を通って約2キロほどいった場所にある。
直線距離では3キロ程度になるので、おそらくこの城も波佐一本松城と何らかの関係があったものとも思われるが定かでない。
【写真左】抱月トンネル付近にある案内図
この場所は花城や波佐一本松城に向かうR186号線と、県道52号線の分岐点で、小国城は図の中央上部に示されている(写真クリック)。
なお、図にある男性の絵は、金城町が生んだ演劇作家・島村抱月。
もう一つ考えられるのは、この小国城の背後にある金木城(H720m)の出城とも考えられる。金木城は、南北朝期、北朝方の部将として活躍した田村氏の居城で、戦国期・永禄年間(1558~70)、福屋氏の家臣で、前記した徳田刑部少輔兼行が在城したともいわれている。
地取りを考えると、安芸(広島)から雲月山を越えて浜田方面に向かう途中の場所でもあり、東には多数の山城があった旧旭町にも繋がることから、戦略的には重要な場所でもあったと思われる。
【写真左】小国城手前の沿道にある「島村抱月の生誕地顕彰の杜」
ちなみに、この付近もむかしから「たたら」が盛んで、抱月の父も「たたら」業を営んだが、明治5年の浜田地震で被害を受けるなど苦労したという。
この付近の地名は「下土居」ということから、小国城と関係のある屋敷があったものと思われる。
【写真左】登城口付近
この写真の右に「最中山神社」神社がある。抱月の父が当社へ絵馬を奉納しているが、その絵は「宇治川先陣争いの図」という。
当地・小国の武将がおそらく京へ上り、功があったという事だろう。ちなみにその武将は、他の石見武士と同様、源氏方だったと思われる。
【写真左】登城路
登城路はほとんど直進するコースで、距離は短いものの、傾斜が思った以上にあり、ゆっくりと上がった方がいい。
道そのものは管理がされていて、ブッシュの個所はまったくない。
【写真左】本丸直下付近
途中で二手に分かれ、一方は尾根伝い、もう一方は斜面をジグザグに折れながら行く道がある。登りは後者を選んだ。
写真の明るい場所は二の壇(仮称)の脇になる。
【写真左】二の壇
現地には特に遺構名を示すものはないため、便宜上、使用している。
下の方が二の壇で、左斜面の上が本丸になる。
【写真左】本丸その1
二の壇から本丸までは約4m程度で、右側に登り道がある。
本丸跡には写真のような小屋(休憩小屋)が建っているが、だいぶ年数が建っていて、内部の椅子も壊れていて座ることができない。
【写真左】本丸その2
小屋の左側(西)には小規模な土塁が残っている。
【写真左】三角点
本丸の北西地点に設置されている。なお本丸周辺のうち、西側、北側はかなりの要害をもった急峻な切崖となっている。
【写真左】金木城方面を見る
本丸から南方向の視界は割といい方だが、北の金木城方面はやや不良。
春・夏にはおそらく北方向はまったく見えないだろう。
【写真左】本丸から南に伸びる郭壇
下山はこの尾根伝いに繋がる郭壇を通った。段数は4,5カ所で、下に降りるに従って尾根幅が狭くなり、自然に郭は消滅していく。
遺構記録にある堀切や、空堀はそれらしきものは見えたが、ほとんど埋まっているような状況で、判然としない。
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