田屋城跡(たやじょうあと)
●登城日 2009年2月11日
●所在地 島根県浜田市弥栄町木都賀
●築城期 南北朝時代、三隅兼春
●遺跡の現状 山林その他
●土地保有 市町村地 民有地
●標高 310m
●別名 木束城跡、杵束城跡
●参考 島根県遺跡データーベース
【写真左】田屋城遠望
写真中央の小山が田屋城になる。登り道は、この写真の右側にあり、旧小学校の入口も兼ねていたようだ。
遺構があるのは、写真の樹木がある区域で、この後ろにはグランド、および校舎が建っている。
◆解説(現地説明板より)
“史蹟 杵束城(きつかじょう)
別名 田屋城
位置
杵束盆地の西部に位し、南北に蟠(わだかま)る小丘田屋山にあり(現・杵束小学校:すでに廃校。グランド・校舎のある丘)杵束盆地を望み景観よし。
由緒
杵束城は、田屋山の小丘を東西に横断して切崖とし、南北の丘は即ち杵束城で、一の平、二の平があり、眼下にその所領杵束盆地を望む。兼春公の墓は、杵束城山切崖の北半部丘上の一隅木立の陰に宝篋印塔式の古墳がある。墓石の東面しているのは、死してなお南朝を守護し奉る心のあらわれであると伝えられている。
杵束城は、三隅高城の外城で南朝(1336~92)の忠臣で石見勤皇の先駆者といわれた三隅四郎兼春の出城であった。兼春は黒沢城(別名:鷹泊(たかのとまり)城)初代の城主で、三隅与一とたたえられた程の弓術にすぐれた武将で、その声望は父・兼連を凌ぐほどであった。
父に従って王事に尽くし、後村上天皇践祚のみぎり、吉水印法印が読み上げた諸国勤皇の志士の中に、「三隅入道四郎」(「太平記」にあり)と記されたほどで、その勲功も高く、文武兼備の武将であった。
兄謙知(かねとも)や、父兼連の死後、やむなく本宗三隅城主として面倒を見ていたようである。ために、益田系図では兼春を相続者としている。
弥栄村教育委員会 平成3年3月 建てる”
上記の説明板は、南北朝時代のことを述べたものであるが、特に尊氏と後醍醐天皇方に分かれた当時、この石見地方も複雑な抗争を続けている。
三隅四郎兼春の父、三隅兼連は益田氏の分家で、後醍醐派(宮方)に属し、同じ益田氏分家としては、福屋兼景、周布兼宗などがいた。また、佐波顕清一族、高津長幸(吉見氏分家)も傘下に入っていた。
一方尊氏派(北朝)としては、益田氏本家である益田兼見一族をはじめ、福光兼継(福屋分家)、周布兼氏(兼宗総領)、小笠原長氏(小笠原本家)、吉見頼直(吉見氏本家)などがおり、さらには当時守護であった上野頼兼が尊氏・武家方に入っている。
田屋城関係が史料に出てくるのは、興国5年(康永3年:1344)4月で、上野頼兼が漁山(いさりやま:田屋城から北へ約3キロにある山)に布陣して、数か月攻めたとある。
【写真左】案内標
上の写真手前に立っている標識。 この地域は島根県の中で最も早く有機農業をめざした地域で、先駆地の一つである。
【写真左】右側(東)から登る道からみた傾斜部分
小学校を建てる際にこの付近も相当改変されたと思われるが、今でも法面傾斜角度がきついので、築城当時はもっと険峻な切崖だったと思われる。
【写真左】旧グランドと旧小学校校舎
城跡はこの写真の手前にあるが、おそらくこのグランド付近も田屋城の縄張りに入っていたと思われる。
というのも、現在残っている遺構のみでは、山城としての要塞機能は不十分であり、小規模すぎる。
縄張りから考えると、本丸はできるだけ高所に置くのが大前提である。この写真の校舎裏(北側)が鞍部になっており、切崖の跡が一部に認められる。そうしたことから、この校舎付近が本丸跡地であった可能性が高い。
それを考慮して考えると、田屋城(杵束城)の規模は、南北300m、東西100m程度のものだったと考えられる。
【写真左】宝篋印塔と説明板
グランドの南端部の東端に設置されている。当時からこの位置にあったものか、あるいはグランド・小学校建設時移設されたものかは分からない。
ただ、少し築山形状になっているので、当初からこの位置だったとも考えられる。
【写真左】三隅兼春の墓 宝篋印塔とその他の墓群がある。宝篋印塔の大きさは小ぶりといえる。
【写真左】田屋城跡その1
グランド側から南に向かって舌状に3,4の壇が構成されている。
グランドから最初の郭は手前に土塁上の高まりをもたせ、すぐに東西に堀切を構成している。堀切西端部には帯曲輪状の平坦地を設けている。
【写真左】田屋城跡その2
2段目郭と土塁。
この写真は西側の位置だが、西端部には土塁が残る。東側も確認しようとしたが、竹の繁茂で進入できず、確認できなかったが、おそらく同じような土塁を設けていると思われる。
なお、南端部に行くに従って細くなっているが、この先はまったく藪こぎ状態なので進むには無理がある。
【写真左】田屋城跡その3
堀切。 現在は4,5m程度だが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】田屋城跡その4
2段目の郭中央部にあった石積み跡 2,3m四方で高さ2,30cmのものだが、おそらく祠か何かが祭ってあったものと思われる。
●登城日 2009年2月11日
●所在地 島根県浜田市弥栄町木都賀
●築城期 南北朝時代、三隅兼春
●遺跡の現状 山林その他
●土地保有 市町村地 民有地
●標高 310m
●別名 木束城跡、杵束城跡
●参考 島根県遺跡データーベース
【写真左】田屋城遠望
写真中央の小山が田屋城になる。登り道は、この写真の右側にあり、旧小学校の入口も兼ねていたようだ。
遺構があるのは、写真の樹木がある区域で、この後ろにはグランド、および校舎が建っている。
◆解説(現地説明板より)
“史蹟 杵束城(きつかじょう)
別名 田屋城
位置
杵束盆地の西部に位し、南北に蟠(わだかま)る小丘田屋山にあり(現・杵束小学校:すでに廃校。グランド・校舎のある丘)杵束盆地を望み景観よし。
由緒
杵束城は、田屋山の小丘を東西に横断して切崖とし、南北の丘は即ち杵束城で、一の平、二の平があり、眼下にその所領杵束盆地を望む。兼春公の墓は、杵束城山切崖の北半部丘上の一隅木立の陰に宝篋印塔式の古墳がある。墓石の東面しているのは、死してなお南朝を守護し奉る心のあらわれであると伝えられている。
杵束城は、三隅高城の外城で南朝(1336~92)の忠臣で石見勤皇の先駆者といわれた三隅四郎兼春の出城であった。兼春は黒沢城(別名:鷹泊(たかのとまり)城)初代の城主で、三隅与一とたたえられた程の弓術にすぐれた武将で、その声望は父・兼連を凌ぐほどであった。
父に従って王事に尽くし、後村上天皇践祚のみぎり、吉水印法印が読み上げた諸国勤皇の志士の中に、「三隅入道四郎」(「太平記」にあり)と記されたほどで、その勲功も高く、文武兼備の武将であった。
兄謙知(かねとも)や、父兼連の死後、やむなく本宗三隅城主として面倒を見ていたようである。ために、益田系図では兼春を相続者としている。
弥栄村教育委員会 平成3年3月 建てる”
上記の説明板は、南北朝時代のことを述べたものであるが、特に尊氏と後醍醐天皇方に分かれた当時、この石見地方も複雑な抗争を続けている。
三隅四郎兼春の父、三隅兼連は益田氏の分家で、後醍醐派(宮方)に属し、同じ益田氏分家としては、福屋兼景、周布兼宗などがいた。また、佐波顕清一族、高津長幸(吉見氏分家)も傘下に入っていた。
一方尊氏派(北朝)としては、益田氏本家である益田兼見一族をはじめ、福光兼継(福屋分家)、周布兼氏(兼宗総領)、小笠原長氏(小笠原本家)、吉見頼直(吉見氏本家)などがおり、さらには当時守護であった上野頼兼が尊氏・武家方に入っている。
田屋城関係が史料に出てくるのは、興国5年(康永3年:1344)4月で、上野頼兼が漁山(いさりやま:田屋城から北へ約3キロにある山)に布陣して、数か月攻めたとある。
【写真左】案内標
上の写真手前に立っている標識。 この地域は島根県の中で最も早く有機農業をめざした地域で、先駆地の一つである。
【写真左】右側(東)から登る道からみた傾斜部分
小学校を建てる際にこの付近も相当改変されたと思われるが、今でも法面傾斜角度がきついので、築城当時はもっと険峻な切崖だったと思われる。
【写真左】旧グランドと旧小学校校舎
城跡はこの写真の手前にあるが、おそらくこのグランド付近も田屋城の縄張りに入っていたと思われる。
というのも、現在残っている遺構のみでは、山城としての要塞機能は不十分であり、小規模すぎる。
縄張りから考えると、本丸はできるだけ高所に置くのが大前提である。この写真の校舎裏(北側)が鞍部になっており、切崖の跡が一部に認められる。そうしたことから、この校舎付近が本丸跡地であった可能性が高い。
それを考慮して考えると、田屋城(杵束城)の規模は、南北300m、東西100m程度のものだったと考えられる。
【写真左】宝篋印塔と説明板
グランドの南端部の東端に設置されている。当時からこの位置にあったものか、あるいはグランド・小学校建設時移設されたものかは分からない。
ただ、少し築山形状になっているので、当初からこの位置だったとも考えられる。
【写真左】三隅兼春の墓 宝篋印塔とその他の墓群がある。宝篋印塔の大きさは小ぶりといえる。
【写真左】田屋城跡その1
グランド側から南に向かって舌状に3,4の壇が構成されている。
グランドから最初の郭は手前に土塁上の高まりをもたせ、すぐに東西に堀切を構成している。堀切西端部には帯曲輪状の平坦地を設けている。
【写真左】田屋城跡その2
2段目郭と土塁。
この写真は西側の位置だが、西端部には土塁が残る。東側も確認しようとしたが、竹の繁茂で進入できず、確認できなかったが、おそらく同じような土塁を設けていると思われる。
なお、南端部に行くに従って細くなっているが、この先はまったく藪こぎ状態なので進むには無理がある。
【写真左】田屋城跡その3
堀切。 現在は4,5m程度だが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】田屋城跡その4
2段目の郭中央部にあった石積み跡 2,3m四方で高さ2,30cmのものだが、おそらく祠か何かが祭ってあったものと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿