永安城(ながやすじょう)
【写真左】永安城遠望・その1
【写真左】永安城遠望・その2
2014年2月22日に2回目の探訪の際、麓から撮ったもの。
◆解説(参考文献:「島根県遺跡データーベース」「益田市史」等)
現地の説明板より
“史蹟 矢懸城址(誰笠山(たかさやま)・愛宕さん)
前面に聳ゆる山(488.3)。最後の長安代官増野新が山容笠を置く如しとて 誰笠山と命名したと伝えられる。
仁治3年(1242)三隅兼信の二男兼祐長安治頭(じとう)として来たり、以後天文23年(1554)6月20日、一説には3月22日落城まで300余年間、永安氏の居城であった。
この間、長安本郷、稲代、大坪、程原、三里、高内、門田を領して治めた。嘉慶元年(1387)大和守兼政は、山城国北野より天満宮を、治部少輔兼澄は宇佐より八幡宮を勧請した。時に享徳元年(1452)、降って弘治元年(1555)3月23日、毛利元就は己に与せざる永安氏を吉川元晴(元春)を大将とし、天野、香川、熊谷に2千の兵を授けて攻略し、春日尾之城(かすがおのじょう)と共に陥れた。
永安氏は宗家益田氏の七尾城へ逃れるも永禄2年(1559)益田藤兼の降伏により自刃して遂に永安氏は滅亡した。最後の城主は永安大和守(入道)とも、永安式部少輔兼政ともいう。
城址は自然の地形そのままに築城した山城で、本丸は東西59m、北方は急峻で遺構は見当たらない。東方に二の丸と思われる壇床があり、8m下方に幅5m深さ7mの堀切がある。二の丸より南方に檀床が続き、その下方に三の丸がある。
東方堀切上には広い平地があり、尾根続きの先端に三角点がある。これより麓の竹の原方面へ広い軍道ともとれる道がある。当時の家臣団の住居は、石井谷(森が上)・高岡原・門田方面にあったのではとも推測される。
元西分校前の矢が尾城址は、天険の要害であり、城構えも複雑堅固であり、一旦緩急の際はここに籠ったのではとも思える。ともあれ三代兼員(かねやす)の時、所領を姉良海と争い、上下分に分割して石見吉川氏が成立し、勢力半減した。最後に吉川元春に攻略され悲運の石見豪族として華々しき足跡の残されなかったことは痛恨の極みである。
弥栄村(やさかむら)教育委員会
平成3年3月 建てる”
石見地方における鎌倉期の動きとしては、「吾妻鏡」によれば、建久4年(1193)4月、幕府御家人・佐々木定綱(高綱の兄)が石見守護として任命されている。
しかし、定綱の子・広綱の代になり、承久の乱(1221年)において京方に従ったため、所領を没収された。
この後に入ったのが、地方の御家人・益田兼高である。この兼高入部をきっかけに、以後益田氏一族が石見地方を長く治めていく。
兼高の長男・兼季(かねすえ)の末は分かれて、周布・鳥居・福光・安富・末元・丸茂・仙道・遠田・波田・多根・黒谷・大草・波多野・吉田・乙吉の諸家となった。
兼高の二男・兼信は、三隅に高城(三隅城)を築いて三隅氏を称し、その後、永安・竹彦・井之村(井野村)等の諸家に、三男・兼広は、那賀郡跡市・本明城福屋に住んで、福屋氏を称し、福光・横道・井田・堀等の諸家の祖となって、事実上益田家を離れた。
これら益田惣領家をはじめ、支族である三隅・福屋・周布を含めた一族は、「石見四氏」の源流をなすようになった。
【写真左】永安城遠望その2
登城路は写真の右の道を登った位置にある。
次稿でとりあげる予定だが、当城麓にある「長安天満宮」にある由緒碑によれば、次のように記されている。
「…三隅兼信の二男・兼祐が仁治2年(1241)、長安地頭となりて来たり、矢懸城(永安城)に拠りて、永安を称したに始まる。
爾来、兼祐・兼栄・兼員・祥水・永安太郎…永安大和守兼政…永安治部少輔兼澄の諸公を経て、大和守に至り、部門の意地により毛利に抗し、吉川・熊谷・天野麾下二千余の来功を受け、天文23年(1554)6月20日、落城。
宗家・益田に走るも2年後の弘治2年(1556)12月、自刃。かくて永安家は兼祐公以来315年にして滅さす。嘗て新庄吉川家の介入を許し、所領半減して勢力衰退。青史に華々しき足跡を留め得ざりとは痛惜の極みなり。…」
【写真左】登城口付近
現地には案内板などがなかったため、付近の畑で仕事をしておられた老婦人に訪ね、場所を確認した。
ちなみにこの写真の手前に道路があり、その下には運動公園やグランドがある。
とある。この説明板では、三隅兼信が兼祐に永安(別府)に地頭として入部させたのは、仁治2年となっているが、「吉川文書」によると、翌年の仁治3年(1242)12月26日となっている。
兼信の領地の一部を譲った形であるが、三隅氏に限らず、代が進むにつれ所領が子孫に分割されていく。当然所領の規模は小さくなっていき、後にはこうしたことから同族間で摩擦が起こってくる。永安では「女地頭」といわれた事例も残っている。
下って戦国になるが、説明板の「大和守」とは、永安兼政のことで、当時毛利元就は石見の支配のためさまざまな工作・懐柔を巡らしていた。永安兼政は、大内義隆を討った陶晴賢に従っていため、吉川元春に攻められる。
永安城(矢懸城)は陥落したものの、兼政らは同じく陶方にあった益田氏七尾城に身を寄せた。その後、陶晴賢も大内義長も毛利氏によって滅んだため、残るは益田藤兼のみとなり、ついに藤兼も毛利元就に降伏する。そして元就に忠勤を誓うことになるが、その条件として出されたのが、七尾城に身を寄せていた永安兼政の切腹だった。
前記の説明板には、その時期を弘治2年12月としているが、「益田市誌(上巻)」には、兼政の首が藤兼によって毛利の使者・吉川元春に届けられたのが、永禄2年(1559)2月2日となっている。
【写真左】登城路途中
登城路の幅が1間程度続くのは、途中までで、その後は一般的な登山道の道幅になる。
1間幅の道は中腹に設けられた地元住民が利用する簡易水道タンクが設置されているところまでで、ここまでは割と道の管理はいいが、それを過ぎると道の状況はよくなく、ほとんどブッシュに近い。
【写真左】本丸下
遺構がはっきりと確認できるのは、本丸が近付いた付近で、それまでは目立った遺構はほとんどない。 写真は本丸下の郭からみたもの。
【写真左】本丸跡に建つ愛宕神社
本丸の大きさは変形の三角形で、長径30~40m、短径20m前後と思われる。
なお、地元の人の話では、昔は毎年1回、この愛宕神社まで地元民が登り、この本丸付近で祭祀をやっていたのだが、今では高齢化と少子化で人がおらず、数人で本尊のみを抱えて、下の公民館までおろし、そこで祈念する行事を行っているとのこと。
終わったら再び本尊を同社に戻している。
【写真左】本丸付近の遺構その1
全体にブッシュ状態のため、遺構の確認が容易でないが、この写真は土塁付近を撮ったもの。
【写真左】本丸付近の遺構その2
永安城の特徴は、本丸付近までの遺構が割と少ないこと。しかし、本丸を過ぎた東側付近から多くなっていることである。
永安城(矢懸山)の東隣には別の山があるが、その間の鞍部が戦略的に重要と考えていたためか、この付近に遺構が多いようだ。 写真は少し暗くて分かりにくいが、郭壇の一部
【写真左】堀切その1
この場所も東側にあるもので、尾根幅が極端に絞られている。
【写真左】堀切その2
堀切を渡り切って、反対側からみたもの。
- 別名 矢懸城(やがけじょう)
- 登城日 2009年2月11日
- 探訪日 2回目麓まで2014年2月22日
- 所在地 島根県浜田市弥栄町長安本郷
- 時代 中世
- 築城期 仁治2年(1241)
- 築城主 永安兼祐
- 遺構 本丸 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口
- 標高 488m
【写真左】永安城遠望・その1
【写真左】永安城遠望・その2
2014年2月22日に2回目の探訪の際、麓から撮ったもの。
◆解説(参考文献:「島根県遺跡データーベース」「益田市史」等)
現地の説明板より
“史蹟 矢懸城址(誰笠山(たかさやま)・愛宕さん)
前面に聳ゆる山(488.3)。最後の長安代官増野新が山容笠を置く如しとて 誰笠山と命名したと伝えられる。
仁治3年(1242)三隅兼信の二男兼祐長安治頭(じとう)として来たり、以後天文23年(1554)6月20日、一説には3月22日落城まで300余年間、永安氏の居城であった。
この間、長安本郷、稲代、大坪、程原、三里、高内、門田を領して治めた。嘉慶元年(1387)大和守兼政は、山城国北野より天満宮を、治部少輔兼澄は宇佐より八幡宮を勧請した。時に享徳元年(1452)、降って弘治元年(1555)3月23日、毛利元就は己に与せざる永安氏を吉川元晴(元春)を大将とし、天野、香川、熊谷に2千の兵を授けて攻略し、春日尾之城(かすがおのじょう)と共に陥れた。
永安氏は宗家益田氏の七尾城へ逃れるも永禄2年(1559)益田藤兼の降伏により自刃して遂に永安氏は滅亡した。最後の城主は永安大和守(入道)とも、永安式部少輔兼政ともいう。
城址は自然の地形そのままに築城した山城で、本丸は東西59m、北方は急峻で遺構は見当たらない。東方に二の丸と思われる壇床があり、8m下方に幅5m深さ7mの堀切がある。二の丸より南方に檀床が続き、その下方に三の丸がある。
東方堀切上には広い平地があり、尾根続きの先端に三角点がある。これより麓の竹の原方面へ広い軍道ともとれる道がある。当時の家臣団の住居は、石井谷(森が上)・高岡原・門田方面にあったのではとも推測される。
元西分校前の矢が尾城址は、天険の要害であり、城構えも複雑堅固であり、一旦緩急の際はここに籠ったのではとも思える。ともあれ三代兼員(かねやす)の時、所領を姉良海と争い、上下分に分割して石見吉川氏が成立し、勢力半減した。最後に吉川元春に攻略され悲運の石見豪族として華々しき足跡の残されなかったことは痛恨の極みである。
弥栄村(やさかむら)教育委員会
平成3年3月 建てる”
石見地方における鎌倉期の動きとしては、「吾妻鏡」によれば、建久4年(1193)4月、幕府御家人・佐々木定綱(高綱の兄)が石見守護として任命されている。
しかし、定綱の子・広綱の代になり、承久の乱(1221年)において京方に従ったため、所領を没収された。
この後に入ったのが、地方の御家人・益田兼高である。この兼高入部をきっかけに、以後益田氏一族が石見地方を長く治めていく。
兼高の長男・兼季(かねすえ)の末は分かれて、周布・鳥居・福光・安富・末元・丸茂・仙道・遠田・波田・多根・黒谷・大草・波多野・吉田・乙吉の諸家となった。
兼高の二男・兼信は、三隅に高城(三隅城)を築いて三隅氏を称し、その後、永安・竹彦・井之村(井野村)等の諸家に、三男・兼広は、那賀郡跡市・本明城福屋に住んで、福屋氏を称し、福光・横道・井田・堀等の諸家の祖となって、事実上益田家を離れた。
これら益田惣領家をはじめ、支族である三隅・福屋・周布を含めた一族は、「石見四氏」の源流をなすようになった。
【写真左】永安城遠望その2
登城路は写真の右の道を登った位置にある。
次稿でとりあげる予定だが、当城麓にある「長安天満宮」にある由緒碑によれば、次のように記されている。
「…三隅兼信の二男・兼祐が仁治2年(1241)、長安地頭となりて来たり、矢懸城(永安城)に拠りて、永安を称したに始まる。
爾来、兼祐・兼栄・兼員・祥水・永安太郎…永安大和守兼政…永安治部少輔兼澄の諸公を経て、大和守に至り、部門の意地により毛利に抗し、吉川・熊谷・天野麾下二千余の来功を受け、天文23年(1554)6月20日、落城。
宗家・益田に走るも2年後の弘治2年(1556)12月、自刃。かくて永安家は兼祐公以来315年にして滅さす。嘗て新庄吉川家の介入を許し、所領半減して勢力衰退。青史に華々しき足跡を留め得ざりとは痛惜の極みなり。…」
【写真左】登城口付近
現地には案内板などがなかったため、付近の畑で仕事をしておられた老婦人に訪ね、場所を確認した。
ちなみにこの写真の手前に道路があり、その下には運動公園やグランドがある。
とある。この説明板では、三隅兼信が兼祐に永安(別府)に地頭として入部させたのは、仁治2年となっているが、「吉川文書」によると、翌年の仁治3年(1242)12月26日となっている。
兼信の領地の一部を譲った形であるが、三隅氏に限らず、代が進むにつれ所領が子孫に分割されていく。当然所領の規模は小さくなっていき、後にはこうしたことから同族間で摩擦が起こってくる。永安では「女地頭」といわれた事例も残っている。
下って戦国になるが、説明板の「大和守」とは、永安兼政のことで、当時毛利元就は石見の支配のためさまざまな工作・懐柔を巡らしていた。永安兼政は、大内義隆を討った陶晴賢に従っていため、吉川元春に攻められる。
永安城(矢懸城)は陥落したものの、兼政らは同じく陶方にあった益田氏七尾城に身を寄せた。その後、陶晴賢も大内義長も毛利氏によって滅んだため、残るは益田藤兼のみとなり、ついに藤兼も毛利元就に降伏する。そして元就に忠勤を誓うことになるが、その条件として出されたのが、七尾城に身を寄せていた永安兼政の切腹だった。
前記の説明板には、その時期を弘治2年12月としているが、「益田市誌(上巻)」には、兼政の首が藤兼によって毛利の使者・吉川元春に届けられたのが、永禄2年(1559)2月2日となっている。
【写真左】登城路途中
登城路の幅が1間程度続くのは、途中までで、その後は一般的な登山道の道幅になる。
1間幅の道は中腹に設けられた地元住民が利用する簡易水道タンクが設置されているところまでで、ここまでは割と道の管理はいいが、それを過ぎると道の状況はよくなく、ほとんどブッシュに近い。
【写真左】本丸下
遺構がはっきりと確認できるのは、本丸が近付いた付近で、それまでは目立った遺構はほとんどない。 写真は本丸下の郭からみたもの。
【写真左】本丸跡に建つ愛宕神社
本丸の大きさは変形の三角形で、長径30~40m、短径20m前後と思われる。
なお、地元の人の話では、昔は毎年1回、この愛宕神社まで地元民が登り、この本丸付近で祭祀をやっていたのだが、今では高齢化と少子化で人がおらず、数人で本尊のみを抱えて、下の公民館までおろし、そこで祈念する行事を行っているとのこと。
終わったら再び本尊を同社に戻している。
【写真左】本丸付近の遺構その1
全体にブッシュ状態のため、遺構の確認が容易でないが、この写真は土塁付近を撮ったもの。
【写真左】本丸付近の遺構その2
永安城の特徴は、本丸付近までの遺構が割と少ないこと。しかし、本丸を過ぎた東側付近から多くなっていることである。
永安城(矢懸山)の東隣には別の山があるが、その間の鞍部が戦略的に重要と考えていたためか、この付近に遺構が多いようだ。 写真は少し暗くて分かりにくいが、郭壇の一部
【写真左】堀切その1
この場所も東側にあるもので、尾根幅が極端に絞られている。
【写真左】堀切その2
堀切を渡り切って、反対側からみたもの。
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