丸茂城(まるもじょう)
●所在地 島根県 益田市美都町丸茂
●登城日 2008年5月15日
●標高 270m
●築城期 鎌倉時代中期
●築城主 丸茂(益田)兼忠
●遺構 郭、堀切、竪堀、連続竪堀、横堀、馬場跡
●指定 旧美都町指定
●備考 別名 金城
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「サイト:城格放浪記」「益田市史」他)
前稿で紹介した四つ山城からさらに191号線を登っていくと、美都町丸茂という地区に差し掛かる。この道路の右(南側)の山並み一角に丸茂城址がある。
【写真左】丸茂城登城口付近
丸茂城の登城口は、この写真の場所とは別にもう一つ上手側にあるようだ。というのも、この時の探訪した個所が主郭部分まで確認できず、帰宅してから「城格放浪記」さんの記録写真を見て、初めて気がついた。
ちなみに、四つ山城から丸茂城までの間にも、要害山城(山本城)、都茂城、古城山城(幣ヶ岳城)が同じく南側に並んでいる。また丸茂城のさらに上流部にも城ケ谷城というのがあり、美都温泉の東部には宇津川城というのもある。
こうしてみると、この沿線にはかなり密集して城跡が立ち並んでいる。これらの山城全てが、丸茂城と関係があったものかは不明だが、地どりからみてもかなり関係をもった城跡群であったと想像できる。
当城の沿革については、現地の説明板より転載する。
“美都町指定文化財
丸茂城址
指定年月日 昭和56年3月24日
丸茂城(金城)は、金城隘、馬頭隘の傾斜の間の尾根に築かれた多くの空濠と立濠(畝型阻塞)の残る山城である。
鎌倉時代中期に益田氏五代・益田兼季の第四子・兼忠を、丸茂地頭に封じ、七尾城南方の守りのため築城されたと伝えられる。
丸茂氏は、兼忠より六代ここに居城したようであるが、歴代城主の事跡については明らかでない。しかし、丸茂氏は常に益田領南方、三隅氏との接点で三隅氏と戦い、重要な役割を演じたことと思われる。
丸茂城址保存会”【写真左】登城口の登り坂付近
この写真にある坂を登ると、すぐに周囲を波板トタンのようなもので囲いがしてある。おそらくイノシシ避けのためであろうが、これを短い脚でまたいで、尾根筋に登っていく。
丸茂氏の出自については、上記の説明板にあるように、益田兼季の四男・兼忠がその始祖となっている。
兼忠は、建長2年(1250)京都で発生した大火災のおり、時の北条執権・時頼の命によって兄・益田兼時から、その復旧作業の任務を任される。具体的には、復旧のための大量の材木や、食糧を浜田の港から京に向かって輸送している。また彼は、安芸国厳島神社を勧請後、丸茂に田原厳島神社を建立している(当日は当社を確認していない)。
兼忠の後は、兼信(太郎)、兼氏、そして同名の兼忠が丸茂城を継承している。
【写真左】「馬場跡」
尾根伝いになってしばらくすると、「馬場跡」が出てくる。残念ながら、周辺にガラス瓶や、ゴミ類が散乱している。
時はさらに下って、南北朝期である。前々稿「高津城」でも取り上げたように、石見国においても南朝方と北朝方に分かれて激しい抗争が続いた。各地で同時多発的な戦が繰り広げられ、逐一取り上げるには本稿では無理があるので、丸茂城関係を中心に記したい。
康永2年(興国4年:1343)2月16日、南朝方である三隅兼連の武将・三浦与一・同九郎・同与三らは、北朝方の益田兼見の支城である丸茂城を攻める。このとき守城していた丸茂彦三郎はよく防戦したが、子息・兼弘は苦闘ののち、重傷を負い、ついに城は落ちた。その後、三隅軍は益田七尾城を背後から攻め入ろうとしていく。ちなみに、この年の3月、出雲国では、塩冶高貞が京都から逃走し、宍道白石で自刃したときである。
その後幾多の戦いを経て、貞治4年(正平5年:1349)10月、丸茂彦三郎は長野庄内の知行を安堵された。同年9月、足利尊氏は、足利直冬討伐を計り、直冬は四国、九州へと逃れる。そして10月22日には、足利義詮が鎌倉から入京している。
【写真左】「馬小屋跡」
写真でははっきりしないが、この付近は特に削平された広い場所で、この左側の崖付近に渓流のようなものがあったので、そこから水を確保していたのかもしれない。
戦国期における丸茂城の記録については、手持ちの資料が少ないため具体的なことは分からない。
ただ、前稿「四つ山城」の際にも記したように、天文7年(1538)の大内義隆調停があった際、益田・三隅両家紛争の地である都茂・丸茂・匹見の三カ所を、三隅隆周(たかちか)(隆兼とも)から、益田尹兼(ただかね)へ譲渡させ、隆周の二男・隆信と尹兼の女(藤兼の姉)との婚儀によって、今後一切益田家から三隅氏に対して文句を言わせぬことを約束させている。もっとも、益田氏はその後三隅氏を滅ぼしてしまったが。
【写真左】小郭
丸茂城の構図は、北に走る191号線に向かって、3,4カ所の突き出した丘陵とその谷をもって構成されている。
主郭部分があるのは、その中の東方側丘陵で、各丘陵をつなぐ尾根に堀切が数カ所設置されている。
なお、城域全体を理解するには、本稿の写真紹介より、「城格放浪記」氏のサイトが、より詳しいので、そちらをご覧いただきたい。
●所在地 島根県 益田市美都町丸茂
●登城日 2008年5月15日
●標高 270m
●築城期 鎌倉時代中期
●築城主 丸茂(益田)兼忠
●遺構 郭、堀切、竪堀、連続竪堀、横堀、馬場跡
●指定 旧美都町指定
●備考 別名 金城
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「サイト:城格放浪記」「益田市史」他)
前稿で紹介した四つ山城からさらに191号線を登っていくと、美都町丸茂という地区に差し掛かる。この道路の右(南側)の山並み一角に丸茂城址がある。
【写真左】丸茂城登城口付近
丸茂城の登城口は、この写真の場所とは別にもう一つ上手側にあるようだ。というのも、この時の探訪した個所が主郭部分まで確認できず、帰宅してから「城格放浪記」さんの記録写真を見て、初めて気がついた。
ちなみに、四つ山城から丸茂城までの間にも、要害山城(山本城)、都茂城、古城山城(幣ヶ岳城)が同じく南側に並んでいる。また丸茂城のさらに上流部にも城ケ谷城というのがあり、美都温泉の東部には宇津川城というのもある。
こうしてみると、この沿線にはかなり密集して城跡が立ち並んでいる。これらの山城全てが、丸茂城と関係があったものかは不明だが、地どりからみてもかなり関係をもった城跡群であったと想像できる。
当城の沿革については、現地の説明板より転載する。
“美都町指定文化財
丸茂城址
指定年月日 昭和56年3月24日
丸茂城(金城)は、金城隘、馬頭隘の傾斜の間の尾根に築かれた多くの空濠と立濠(畝型阻塞)の残る山城である。
鎌倉時代中期に益田氏五代・益田兼季の第四子・兼忠を、丸茂地頭に封じ、七尾城南方の守りのため築城されたと伝えられる。
丸茂氏は、兼忠より六代ここに居城したようであるが、歴代城主の事跡については明らかでない。しかし、丸茂氏は常に益田領南方、三隅氏との接点で三隅氏と戦い、重要な役割を演じたことと思われる。
丸茂城址保存会”【写真左】登城口の登り坂付近
この写真にある坂を登ると、すぐに周囲を波板トタンのようなもので囲いがしてある。おそらくイノシシ避けのためであろうが、これを短い脚でまたいで、尾根筋に登っていく。
丸茂氏の出自については、上記の説明板にあるように、益田兼季の四男・兼忠がその始祖となっている。
兼忠は、建長2年(1250)京都で発生した大火災のおり、時の北条執権・時頼の命によって兄・益田兼時から、その復旧作業の任務を任される。具体的には、復旧のための大量の材木や、食糧を浜田の港から京に向かって輸送している。また彼は、安芸国厳島神社を勧請後、丸茂に田原厳島神社を建立している(当日は当社を確認していない)。
兼忠の後は、兼信(太郎)、兼氏、そして同名の兼忠が丸茂城を継承している。
【写真左】「馬場跡」
尾根伝いになってしばらくすると、「馬場跡」が出てくる。残念ながら、周辺にガラス瓶や、ゴミ類が散乱している。
時はさらに下って、南北朝期である。前々稿「高津城」でも取り上げたように、石見国においても南朝方と北朝方に分かれて激しい抗争が続いた。各地で同時多発的な戦が繰り広げられ、逐一取り上げるには本稿では無理があるので、丸茂城関係を中心に記したい。
康永2年(興国4年:1343)2月16日、南朝方である三隅兼連の武将・三浦与一・同九郎・同与三らは、北朝方の益田兼見の支城である丸茂城を攻める。このとき守城していた丸茂彦三郎はよく防戦したが、子息・兼弘は苦闘ののち、重傷を負い、ついに城は落ちた。その後、三隅軍は益田七尾城を背後から攻め入ろうとしていく。ちなみに、この年の3月、出雲国では、塩冶高貞が京都から逃走し、宍道白石で自刃したときである。
その後幾多の戦いを経て、貞治4年(正平5年:1349)10月、丸茂彦三郎は長野庄内の知行を安堵された。同年9月、足利尊氏は、足利直冬討伐を計り、直冬は四国、九州へと逃れる。そして10月22日には、足利義詮が鎌倉から入京している。
【写真左】「馬小屋跡」
写真でははっきりしないが、この付近は特に削平された広い場所で、この左側の崖付近に渓流のようなものがあったので、そこから水を確保していたのかもしれない。
戦国期における丸茂城の記録については、手持ちの資料が少ないため具体的なことは分からない。
ただ、前稿「四つ山城」の際にも記したように、天文7年(1538)の大内義隆調停があった際、益田・三隅両家紛争の地である都茂・丸茂・匹見の三カ所を、三隅隆周(たかちか)(隆兼とも)から、益田尹兼(ただかね)へ譲渡させ、隆周の二男・隆信と尹兼の女(藤兼の姉)との婚儀によって、今後一切益田家から三隅氏に対して文句を言わせぬことを約束させている。もっとも、益田氏はその後三隅氏を滅ぼしてしまったが。
【写真左】小郭
丸茂城の構図は、北に走る191号線に向かって、3,4カ所の突き出した丘陵とその谷をもって構成されている。
主郭部分があるのは、その中の東方側丘陵で、各丘陵をつなぐ尾根に堀切が数カ所設置されている。
なお、城域全体を理解するには、本稿の写真紹介より、「城格放浪記」氏のサイトが、より詳しいので、そちらをご覧いただきたい。
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