2009年2月11日水曜日

栗栖城(島根県出雲市上島町)

栗栖城跡(くりすじょうあと)

◆登城日 2009年2月7日(土)および過去2,3回
所在地    出雲市 上島町 新宮
時代     中世 
遺跡種別  城館跡 
遺跡の現状 山林 
土地保有   民有地 
指定     未指定
標高     285 m
(参考:島根県遺跡データベースより)


【写真左】北側から見た栗栖山城遠景
 本丸跡はこの写真の中程のやや左側に当たる。








◆解説

(現地の説明板より)

“栗栖山城(放れ山の西)を築いてから約60年経った建武年間(1335)のころ、ここに移築したものである。
 爾来古志氏が、約200年・12代にわたり城主となり、この地を治めた。


 主郭部の東部分は、18m×9m、西部分は20m×11mで、その西側は「切崖」を施し、東側には郭が4つあり、北に廓が続いている。北、東、南は極めて峻険で、神戸川西岸の要衝である。
 地元では、昔からこの山のことを要害山と呼んでいる。


 籠城の時の用水は、南方、上新宮の「きりや峠(たわ)」に水源を求め、城まで井手を造り、本丸の「圓井」へ水を入れていた。 現在の久奈子神社のある場所は、籠城の時、城主の妻子等が仮住まいした館跡であると思われる。


 元亀元年(1570)12代重信は、毛利の軍門に降り、稗原の土蔵(戸倉)に移城し、4,500人はいたと考えられる。家臣は離散し出雲古志氏の時代に終わりを告げた。平成元年10月吉日”


【写真左】栗栖城の簡単な縄張図
 城郭の形状はいたってシンプルで、主郭から東の尾根下がりに、1,2,3,4郭を構成している。
 現地はこのうち主郭と1郭程度までが歩ける程度になっており、それより東の方は雑林が残っている。

 北の展望部分は近年重機でだいぶ改造されているので、当時の遺構の確認は困難である。ただ、展望台などを整備しているため、北端部からの眺望はよくなっている。



【写真左】登城口付近
 登城口手前までは、久奈子神社(下段参照)本殿と境内が建立されている。その東を抜けると、写真のような上り坂の登城道が整備されている。







【写真左】堀切
 遺構の中ではっきりとわかるのは、この堀切と本丸跡である。
 ただ、この山城は東側と北側方向にはこうした城塞施設を明確に設けているが、西側の防御という面では遺構を見る限りあまり判然としない。
 もっとも栗栖山城の西側に連続する山並がさらに高くなっていくので、それで十分だったかもしれない。
 あるいは、後段に示す「旧備後街道」付近が、当時何らかの要害性を持たせた施設を部分的にもっていたのかもしれない。


【写真左】本丸跡
 北側展望台より見る








【写真左】北側展望台より、栗栖山城へ移動する前の居城「浄土寺山城」を見る
 写真の中央部やや右に見える山が、古志氏がその前に居城とした浄土寺山城である。二つの城の距離は、直線距離で2キロ弱である。

 浄土寺山城の標高が50m弱であるので、時代がすすむにつれ、本丸の位置も高くなり、また規模も大きくなってくる。

 ただ、島根県の遺跡データベースでは、この栗栖山城の標高が285mとなっているが、どうみてもそこまでの高さはないと思われる。よくて200m程度だと思うのだが…。



【写真左】栗栖山城から、東方に塩冶氏居城の「半分城」および、斐伊川⇔神戸川バイパス(運河)を見る
 少しぼやけた写真だが、写真中央やや右の小山が塩冶氏の半分城である。

 古志氏も塩冶氏も系譜は、佐々木源氏系であり、記録上古志氏と塩冶氏が争ったという史料は今のところないが、前記したように当城の要害性が北東部に集中していることを考えると、少し気になる。

 もっともお互いの連絡手段である「狼煙」を確認する上では、この高くなった標高をもつ栗栖城の目的も理解できる。


【写真左】栗栖山城東山麓に鎮座する「櫃森神社」 

 現地の説明板より

“櫃森神社
祭神 保食(うけもち)命
 例祭日 9月15日


 享保2年(1717)の雲陽誌に載っている櫃森神社は櫃森山の麓に鎮座している。
この山は南北朝の元弘・建武年間(1331~1335)に、古志氏が居城を浄土寺山から栗栖山・櫃森山に移し、12代城主・古志重信が元亀元年(1570~72)後、居城を稗原の要害山に移すまでの古志氏縁りの城山である。


 当社の創祀年代は詳らかでないが、中世のころ相次ぐ農業災害を防ぎ、作物の豊穣を祈念して祀った下新宮の部落神である。


 昭和20年代の道路改良工事に際し、埋没した桜並木参道遺跡が発掘されている。明治7年、三武社・大歳社・八幡宮と共に久奈子神社に合祀されたが、社殿は今もなお山麓に鎮座し、地元民によって護持され、守護神として地区民崇敬の的となっている。
 平成元年2月吉日
古志明るいまちづくり協議会
古志クラブ“



◆また、栗栖城登城口手前には、久奈子神社という神社が建っている(写真省略)。由緒は次の通り。

“久奈子神社
祭神 伊邪那美命(いざなみのみこと)
合祭 速(はや)玉男(たまお)命(久奈子社) 武(たけ)甕(みか)槌(づち)命(三武社)
事(こと)解男(さかお)命(久奈子社) 誉田(ほんだ)別(わけ)命(八幡宮)
建(たけ)御名方(みなかた)命(諏訪社)
例祭日 10月15日
 
 出雲国風土記、延喜式神名帳に載っている久奈為社は、奈良朝以前久留須山に、久奈子二社は、上新宮に鎮座していた。
その後、年代は詳らかではないが、久奈子二社が現在地の久奈為社に移り、この三社が一つになり、久留須三社となった。


 江戸時代になってからは、久留須権現、久留須三社明神とも称せられた。
明治5年神社制度改正に当たって、社号を久奈子神社と改称し、村社に列せられた。
続いて、明治7年には三武社・大年社・八幡宮・櫃森社が合祭、諏訪社が合殿奉祀され、爾来今日まで古志地区民の氏神として崇拝されている。
昭和63年2月吉日
古志明るいまちづくり推進協議会
古志クラブ“



◆久奈子神社及び栗栖城に向かう途中に「備後街道」の説明板があり、その位置から旧備後街道の古道が残っている。
説明板より

“備後街道
 大社または今市の方から古志坂・芝生台を経て鍛冶屋谷を下り、乙立へ出て、須佐郷・波多を越え、赤穴峠から三次方面へ向かう道を古来「備後街道」と呼んだ。


 出雲大社や一畑薬師へ参拝する人達や、いろいろの行商人(薬屋・小間物屋)・旅芸人或いは修験者などの往来も多く、山陰と山陽を結ぶ道筋であった。古志坂の上には、当時茶屋もあって通行人には懐かしい憩いの場であった。


 また、この街道は物資の輸送路でもあり、主として駄馬と人の背によって、穀類や木炭が里へ搬出され、帰りには日用物資を運ぶルートであった。駄賃馬や叺(かます)を背負って、かや蓑をかけ、草鞋ばきの人の往来が、秋から冬にかけて特に賑やかであった。


 明治45年に着工された現在の県道出雲三次線の開通後は、この街道も急にその任をうしなっていった。
 現在、この街道は中国自然歩道の鰐淵寺、大社、立久恵コースとなり、かつての面影をしのばせてくれる。
平成6年 10月13日

古志クラブ“
【写真上中下】旧備後街道
 状況はご覧のとおりだが、時々地元の人たちによって古道のハイキングイベントが行われているようだ。

 なお、途中から西に向かって尾根伝いの道になるが、その周辺に上段で記された、「籠城」の際に施工された「井出」らしき細長いくぼみを確認している。

 どの山城も籠城に備えて、水の確保は当然計画されているが、井戸による確保ができなければ、土水路のような形式で給水設備を設けなければならない。

 山城の遺構によっては、設計した水路勾配がとれずに、工事を途中で断念したものもあるらしい。

2009年2月10日火曜日

浄土寺山城(島根県出雲市下古志町)

浄土寺山城(じょうどじさんじょう)

◆登城日  2008年1月26日
◆所在地  出雲市 下古志町
◆時代    中世 
◆遺跡種別  城館跡 
◆標高  48 m
◆備考  室町時代、古志氏が築城。
◆遺構種別 溝 その他 
◆遺構概要 郭 土塁 堀切 虎口 井戸
(参考:島根県遺跡データベースより)
【写真左】浄土寺山城跡の北側にある寺院
 現在地には、写真にあるように、妙蓮寺という寺が建っている。







●案内板より。

”日蓮宗 久遠山 妙蓮寺


沿革
 当山は、大永7年(1527)本法院日秀上人により、当時、禅院であったのを法華に改宗、日蓮聖人奠定(てんじょう)の大曼荼羅を御本尊として、日蓮宗の教義を広められた。
 その後、第4世・日実上人が、法泉寺、妙蓮寺、光明寺を草創、各寺の開山上人となっている。
 当時、当山の位置は現在地より北方300メートルにあったものを第6世・日久上人、第7世・日悦上人によって、貞享元年(1684)現在の山辺に移転せられた。


 境内には番神堂、本堂の後山には稲荷大明神が祀られ、その守護神祭が毎年9月1日に行われている。
 当山の西側には、県の指定文化財になっている「妙蓮寺山古墳」があり、遠く朝鮮の古墳に酷似していることなど注目を集めている。


 また、当寺の裏山には、浄土寺山といわれる城跡があり、古城の歴史を秘めて寺を見守っている。
 久遠山とは、歴史と文化、そしてお題目のお山である。
平成4年12月 神門クラブ ”



◆解説
 前稿・神西氏のところで古志氏について触れたが、今回はその古志郷を治めていた「古志氏」の初期の居城「浄土寺山城」を取り上げる。

●『郷土史 神門』によれば、後鳥羽上皇が隠岐の行在所で亡くなった延応元年(1239)ごろから、中国の元がしばしば日本を攻め始めた弘安元年(1278)ごろまで、出雲・隠岐守護職だった佐々木泰清の第9子・義信が、神門郡古志郷の地頭に任じられ、居城をこの浄土寺(地)山に構えたのが始まりといわれている。築城期は、建長7年(1255)といわれているが、定かでない。

●それにしても、父親の佐々木泰清の守護職の任期は、約40年という大変な長さである。もちろん各地域に支庁のような機関を設け、実質的には地元の武将(守)に地頭・分掌させていたであろうが、統率力のすぐれた人物であったと思われる。

 さて、古志氏と名乗った義信の初期の所領は、古志郷の28町6反18歩となっている。ちなみにこのころ(康元元年:1256年)、北隣りの出雲国造と惣検注使が、出雲部の主だった良田を有する郷村をひとまとめするように、杵築大社領として注進している。その規模は広大な面積で、前記の古志氏の所領の比ではない。


【写真左】浄蓮寺南にある稲荷神社など
 妙蓮寺奥の高くなった部分から浄土寺山城の遺構が残っている。






 この古志氏の浄土寺山城での在任は、第3代・高雅あたりまでで、元弘・建武年間(1331~35)ごろから、浄土寺山の南にある栗栖山へ移ることになる。おそらくこのころから、後醍醐天皇の倒幕運動が始まっているので、浄土寺山城の要害性を考えると、移さざるを得なかったものと思える。

【写真左】
 郭跡付近はほとんど管理されていないため、笹竹などが繁茂しており、遺構の詳細は確認しにくいが、郭や壇などは認められる。

 





【写真左】
 この妙蓮寺の境内の西端には、県指定史跡として妙蓮寺山古墳がある。
(昭和39年県指定史跡)

神西城(その4)・福知寺

福知寺(ふくちじ)

●所在地 島根県出雲市知井宮町
【写真上】福知寺遠望

◆神西城から北東へ直線距離で約4キロのところに、福知寺という寺がある。また、この寺の道路を挟んだ東側には中世の城館跡である「智伊館跡」がある。智伊館跡は、「城郭放浪記」氏が既に紹介しているのでそちらをご覧いただきたいが、この福知寺の開基についても、神西氏の関係した寺院である。
 所領区域からいえば、このあたりになると、「古志氏」が絡んでくるが、当寺の開基ごろは小野氏(神西氏)が先に知行していたようで、智伊館の築城者といわれる「智伊氏」そのものも、小野氏の配下ではなかったかと思える。

◆当寺の縁起のうち、関係分を下に記す。
“貞応年間(1222年~)小野高通(神西竹屋城主で、後の神西氏を名乗る)は、霊夢によって、堂伽藍を建立し、境内を宏荘にして、小堂に安置されていた薬師如来を入仏して祀り、祈願寺と定めた。しかし、後年大火があり堂塔、寺宝一切を焼失し、再び小庵に帰したという。
 その後、天正7年(1579年)7月、東来の旅僧・喜山浄慶大和尚が、一夜の霊夢に感応し、尊像を拝し、堂宇を再建して、福知寺開山第一世となった。
 曹洞宗福知寺となって四百余年、徳川時代より、知伊の里人の尊い薬師信仰に支えられながら、法灯は連綿と受け継がれ、今日出雲十大薬師霊場第8番札所「真幸薬師(まさきやくし)」として、遠近の信仰を集めている。
境内の諸仏
お観音様 お地蔵様 お大師さま  裏山には、福知寺山横穴古墳群がある。
 平成10年12月
神門クラブ
”

【写真上】福知寺の裏山(北西部)から西に伸びた丘陵地と真幸ヶ丘公園
◆智伊館は城館跡となっているが、むしろこの福知寺から西に伸びた丘陵地(真幸ヶ丘公園)そのものが、山城ではなかったかと思われるような雰囲気がある。もちろん島根県遺跡データでは登録されていないが…

神西城(その3)・神西八幡宮

神西八幡宮(じんざいはちまんぐう)

所在地 島根県出雲市東神西

◆十楽寺より少し東に行き、途中から南のロマン街道に向かう途中に、神西・小野高通が鎌倉より勧請したといわれる「神西八幡宮」がある。

 参道の北端に江戸時代、船で大阪から運んだという総石造りの鳥居があり、設置角度から見ると、そのまま南の方に本殿があるかと勘違いしそうだが、実際はその鳥居の西の方に建立されている。

当時の旧道は相当曲がりくねったものだったらしく、途中からは当時のルートとほぼ同じ狭い道になるため、場合によっては対向車が来ると困るような場所である。ただ、当社の鳥居東に2,3台停める駐車場がある。
◆解説
現地の説明板より


“神在八幡宮由緒記


 御当社は、鎌倉時代の初期に、相模鶴ヶ岡八幡宮を勧請したのに始まった。 即ち、鎌倉幕府は、全国に守護・地頭を配する中で、出雲国には36領主を置いた。

神西三郎左衛門小野高通公は、神門郡の西半郡の簱大将として、鎌倉庄内郡よりこの地に赴任された。



 居城は、高倉山の頂上に「龍王山竹之尾城」通称・神西城を築き、庄内12ヵ村(神在本郷、神在沖、差海、坂津、大池、久村、多伎、小田、口田儀、奥田儀、毛津、畑)を五個荘と称し、この区域を知行所と定められた。
 当時の武士は、一天泰平、武運長久、諸民安全の守護神として、特に八幡宮を尊崇するのを常としていた。


 神西公は、源氏系であったから、鎌倉から八幡宮を勧請しようと高倉明神の神主・武田筑後守と、家老職・小村彌兵衛の両名を相模国へ派遣、御分霊を受けて帰雲、現在地に祀ったのが起源である。時に、後堀河天皇の御代、貞応3年甲甲(1224年)であった。

爾来、神西家は12代にわたり崇敬せられたが、やがて戦国時代となり尼子氏滅亡後は、毛利家の支配下となった。



 毛利公も御当社に対し、神領2町7反の安堵状を発せられ、慶長年間、堀尾吉晴公の代には、社領高12石を毎年寄進され、その後、京極若狭守忠高公、松平出羽守直政公の代にも、これを踏襲された記録がある。


 江戸時代に入ると平和が続き、御社頭も益々繁栄を極め、社殿の規模も広壮になり、祭事も盛んに行われた。


 元禄3年(1690)には、現在大水門にある御影の大鳥居が大阪で造られ、海路を船輸送して建立された。この間の御造営御遷宮の御棟札は、現存するものでも10数枚に及んでいる。

しかるに、明治維新後、神社が国家管理となり国の指導により神社の統廃合が行われ、甚だ遺憾ながら御当社は、一旦氏神の那賣佐神社に合併されたが、昭和初期氏子崇敬者の熱願により再びこの地に復元した。
社務所“


【写真左】八幡宮の境内の東端部にある稲荷神社

◆神西氏の所領範囲は、出雲部でも西部になる。上記の説明板にもあるように、口田儀、奥田儀などは石見部と接する地域であるが、居城とした神西城が反対の東側にあるため、地頭職としてかなりハンディがあったかもしれない。

また、北には特殊な寺社領である杵築大社・出雲国造や、鰐淵寺などがあり、下向した当時は相当苦労をしたかもしれない。

神西城(その2)・十楽寺

十楽寺(じゅうらくじ)

所在地 島根県出雲市 東神西町


【写真上下】神西城の北側麓にある十楽寺
◆門前の駐車場前に由来の説明板がある。前稿の神西城説明と重複する部分があるが、転記する。

“十楽寺由来
 当寺は曹洞宗に属し護国山十楽寺と称する。
 貞応2年(1223)鎌倉幕府の任命により赴任した地頭小野高通が菩提寺として建立したとされる。

 小野氏は代々、神西三郎左衛門と名乗り、神門郡西部の地頭職として約340年間勢力を張っていた。12代目元通は武将として尼子氏に従い、天正6年(1578)播磨国上月城において切腹し神西家は断絶した。

 当寺は神西氏再三の合戦による兵火に遭い古記録を焼失したため、開創以来約300年の歴史を詳らかにすることができない。


 天文年中(16世紀初め=元通の頃)越山祐(えつざんゆう)超(ちょう)和尚により再興されたが、寛文年中(17世紀末)曹洞宗の宗統改革で、越山和尚を開闢(かいびゃく)とし、松江洞光寺第二世天麟(てんりん)星(しょう)壺(こ)和尚を追請し当寺開山となし、末寺30カ寺を有する寺となったのである。


 再建以来200数十年を経て、本堂の腐朽甚だしくなり、寛政12年(1800)14代志道和尚により改築されたのが現在の本堂である。


 明治維新の折り、無住の末寺10ヵ寺を合併し、その本尊は観音堂に合祠している。なお当寺には
●神西家12代の合祠塔
●市文化財 開闢越山和尚画像がある。“



◆下段の「神西家12代の合祠塔」というものがあるが、探してみたもののどこにあるのかわからなかった。余談ながら、境内に植えてある何本かの桜の古木は、春になると見事に咲き誇り、地元の人たちもこの場所をよく訪れているようだ。

 由来の中に、本堂を寛政12年に改築、とあるがつい最近まで、本堂も含め改築されている。個人的にこの寺院の建築様式美はなんともいえないものがあり、特に屋根の形などは気に入っている。

2009年2月9日月曜日

神西城(島根県出雲市東神西)(その1)

神西城跡(じんざいじょうあと)

◆登城日 2009年2月7日(土曜日) 曇り
【写真左】神西城遠望
 2012年12月12日撮影
 西側の方から見たもの










●所在地 出雲市 東神西町
●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林  ●標高 101 m
●備考 高倉城跡、竹生城跡、龍王山竹生城跡。
室町時代、神西氏が築城。
●遺構郭  土塁 堀切 尾根道郭 帯郭 腰郭 虎口
(参考:島根県遺跡データベースより)


【写真上】神西城遠望
南側を走る通称「出雲ロマン街道」の東側から見る

◆解説①(参考:山陰の城跡トップページより)


●ACCESS
JR出雲神西から登山口まで徒歩で約30分。登山口から山頂まで徒歩で約15分。


尼子氏石見への橋頭堡
 中世の神門水海(現在の神西湖)に面する交通の要衝の地に築かれた神西氏の居城で、「尼子十旗」の1つ。最高所からは、神西湖・北山山脈などが一望できる良所です。


 城は那賣佐神社裏山の最高所周辺に築かれた郭と東の九
景川方向に派生する尾根上の郭から構成され、広い範囲で普請が行われています。
【写真】北側の十楽寺側に設置された案内図
◆解説②(十楽寺前の説明板より)

 「神西城址」案内図 この城は龍(りゅう)王山(おうざん)竹生(たけのお)城(じょう)ともいい、神西氏12代350年の居城と伝えられています。

 石見国への境目の城として「出雲尼子十旗」で、本丸の一の平、二の平、三の平からなり、標高は101m、登山口は三か所あります。
【写真上】十楽寺側からの登城口付近
左側の道を登っていく。すぐに左(南)に曲がると、しばらく尾根伝いに歩く。

【写真左】途中でもうひとつの登り道(光成登山口)からの道と合流する部分。
写真は、向こう側(十楽寺方面)から登ってきて、振り返って撮ったもの。このあたりから、別の山の尾根などと合流するため、平坦地が多くなり、遺構らしきものが見えてくる。

【写真左】城郭の遺構名としては珍しい名前の「尾根道郭」というものが記録されているが、おそらくこのあたりではないかと思われる。

 
【写真左】北側登り口ルートから見た本丸直近部分
 登城道の要所には階段が設置されているので、登りやすく、時間にして、ここまで15分程度しかかからない。
 南側の那賣佐神社側からは、距離は短いが、急勾配の階段があるため、意外と苦戦する。

【写真左】本丸その1
北側突端部から見たものだが、現地にはごらんのような休憩場と石碑、説明板などが設置してある。
 冬であったため、下草はほとんど枯れていて、本丸遺構の形がよくわかる。

【写真左】本丸その2
西側から東の方を見たもの。大きさは測ったわけではないが、本丸部分としての形状は変形の多角形(五角形?)で、およそ20m四方程度に思えた。ただし、この本丸からさらに南に細く伸びた郭が連続しているので、南北間の最長は80m程度はあるかもしれない。

【写真左】南側郭の端から北の方向を撮ったもの










 この城は、3年ぐらい前に南側登城口から訪れているが、このときもこの写真に見える仮設の照明器具が備えてあった。夏にでも点灯するものだろう。方向は北東部の出雲市街地を向いているが、夜中にこの神西城付近から明かりが灯っているのを当方は未だ見たことがない。

◆さてこの神西城についての大まかな概要は上段の通りだが、築城期が、島根県の遺跡データでは、室町期となっているものの、神西氏が鎌倉から新補地頭としてやってきたのが、貞応2年(1223)であるから、少なくとも南北朝期には築城しているのではないかと思える。

◆「尼子盛衰人物記」(妹尾豊三郎編著)によれば、最初にやってきたのは、小野高通で、その後、元道、景道、時道、貞道、?道、惟道、為道、速道、久道、広道、国道、と計12代343年相続となっている。ところが戦国尼子時代に活躍した元通の名が出ていない。「出雲私史」には、元通は小野高通12世の孫となっている。

◆この元通の代が特に波乱にとんだ時代で、一時は毛利方に与したりするが、最後はよく知られるように山中鹿之助らと尼子再興を図るも、播磨上月城にて最期を遂げる。(それまでの経過は、他の資料に書かれているので省略する)

◆尼子家臣団の中でも特に教養のあった人物で、鹿之助は上月城で捕らわれ備中高梁の河原で殺害されるが、元通はこの上月城の本丸先端部(城の尾崎という)で、あえて毛利軍に見えるように、辞世の句を詠いながら、腹を十文字に掻き切って60余年の生涯を終えている。

◎関連投稿
長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)

2009年2月8日日曜日

天下墓(広島県美土里町)


天下墓(てんかばか)

◆探訪日 2007年10月28日
◆場所  広島県安芸高田市美土里町生田


【写真上】広島県側から見たもので、この写真の左側上に説明板があり、その奥に下の祠がある。
【写真上】天下墓といわれている祠
 当時は宝篋印塔もしくは、五輪塔などもあったらしいが盗まれたり、壊されたりしてこのような状況になったという。
【写真左】天下墓周辺地図
 境を接する石見国(島根県)側には、石見久喜・大林銀山・岩屋鉱山などの遺跡がある。
 




◆解説

 前稿で足利直冬関係と思われる宝篋印塔を取り上げたが、今回も直冬のものとも、あるいは時代が下った戦国期の足利義昭の墓とも言われている「天下墓(てんかばか)」を取り上げる。

 場所は、島根県邑南町と広島県安芸高田市にまたがる吉田瑞穂線(6号線)の智教寺というところにある。智教寺という建物は現在ないが、おそらくこの周辺にあったものだろう。

 現地の説明板では、足利義昭の墓とあるが、その一方で足利直冬の墓とも言われている。どちらもそれなりの根拠をもっているものの、義昭についていえば、通説では彼の晩年は秀吉の庇護のもと、慶長2年(1597年)大阪で61歳の生涯を終えたとある。

 直冬については、以前紹介したように、江津の慈恩寺(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町))の都治で亡くなったことになっている。

 今となっては判断する決定的な史料・物件などはないので、なんともいえないが、この珍しい「天下墓」という名称から判断するに、天下を大きく動かそうとした人物を弔っていると思えば、その状況や内容を比較すると、一時的にせよ京都を自らの手で押さえた直冬のほうが、より可能性が高い。

 義昭は、確かに将軍ではあったが、信長から始まって、後半は毛利の庇護をうけるという常に亡命政府の長という立場のため、自らの手で天下を奪還するという場面は持てなかった。

 そうなると、直冬の最後がなぜこの国境の地で終えたかという疑問も出てくる。高畑城のある江津都治からこの国境の智教寺まで約50 キロある。幽閉された身分とはいえ、京への思慕忘れ難く、少しでもその地に近いところへと向い、最後の力尽きた場所がこの地であった、ということなのだろうか。

 なお、現地の写真にある祠の前には、宝篋印塔跡と思われる上部「相輪」の上下請花の中間柱が残っている。

都治町の宝篋印塔(島根県江津市都治町)







◆前稿の「慈恩寺」から東に約2キロ程度いったところに、「宝篋印塔」がある。写真に見える道路は、旧山陰道で、現在は「大田井田江津線(177号線)」となっている。
 江津市誌など郷土史を調べれば、何らかのことが分かるかもしれないが、現地には何の説明板らしきものもなく、さびしく佇んでいる。
◆前回の足利直冬・慈恩寺の稿の際、直冬自身の墓石(宝篋印塔又は五輪塔など)が当寺に見えなかったことを考えると、この宝篋印塔はあるいは直冬のものかもしれない。
 ただ、そうなるとなぜわざわざこの地にあるのか、という疑問もわく。直冬のものでないとすると、別の武将のものとなる。その場合、考えられるのは、この場所の近くに「埋築城」という城館跡(未訪)があり、記録によれば、康平年間(1058~1065)、和気清宗という武将が建てたとあり、その人物という可能性もある。
 しかし、詳細には分からないが、宝篋印塔の年代形式から見て、この時代ではないような気もする。
 また、宝篋印塔の手前周辺は建物が建っていたような礎石が見えるので、最近まで寺院が建っていたのかもしれない。
◆石造美術的なセンスは全くないが、多少の欠損はあるものの、その大きさや、形状などから、かなり名のあった武将のものであることは否定できない。

2009年2月6日金曜日

足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)

足利直冬・慈恩寺(あしかがただふゆ・じおんじ)

●史跡種類  寺院
●所在地   島根県江津市都治町
●創建時期  1376年
●開基     足利直冬
●探訪日 2008年(平成20年)1月20日(日曜日)

◆解説

 前稿まで本明城・松山城をとりあげてきたが、今回は同じ石見(石央)にあって、南北朝期、苦難の人生を歩んだ足利直冬の関係史跡である慈恩寺を取り上げる。
【写真左】慈恩寺・山門前
 山号は南陽山とある。












現地の供養碑の碑文より

“当山中興開基・足利尊氏公の子息・直冬公は、天授2年(南朝年号)・永和2年(北朝年号)(1376)、当山に隠棲。応永7年(1400)に没す。享年74歳であったと「慈恩寺縁起」に有り。
直冬公が身につけていたと伝えられている丈一寸八分の観世音菩薩は、当山御本尊として篤く祀られている。


平成19年 春彼岸 当山代28世 大国泉静書”
(下線個所は判読不明で筆者の判断による)

足利直冬


直冬は、足利尊氏の妾の子として生まれたが、実父である尊氏から疎まれ、認知もされず幼少時は喝食(小僧)だったという。成長した直冬は、尊氏の弟・直義の養子となる。その後数々の戦功をあげたものの、尊氏と直義との不和などにより、直義が尊氏に降伏し、1352年2月、直義は急死する。
【写真左】供養碑














 その後九州で孤立した直冬は、中国地方へ逃れたものの盛り返して、1355年南朝方と協力して尊氏を京都から追い出す。しかしそれもつかの間で、再び尊氏らの反撃で撤退する。協力者だった大内、山名氏などは幕府に降り、直冬らは再び孤立する。

 1366年の直冬の書状が最後のものとされ、その後の消息が不明となっている。一説には石見で隠遁生活を送ったという。

 以上が直冬の主な動きだが、最後の隠遁生活を送った石見とは、今回取り上げる慈恩寺と晩年を過ごしたといわれる高畑城付近(江津市都治町)である。

【写真】直冬の像と思われるものが祀られている堂外部と石碑











【写真左】 堂の中の像
直冬像と思われる
。












【写真】慈恩寺から「高畑城」を見る
史料などでは、直冬が拠ったという記録が残っているが、城砦の遺構としてはほとんどなく、実際は当城ではなく、他の山城に拠ったのではないかと思われる。





 足利直冬は、この高畑城に入り、足利幕府に降伏し、許され、この慈恩寺で生涯を終えたと言われている。
 なお、この付近には直冬らとかかわった平田氏・都治氏らの佐賀里松城や、今井城などがある。このうち佐賀里松城は「城郭放浪記」氏がすでに登城し、詳細な写真を報告されている。
南北朝期から室町期に至る過程は、日々刻々と変わる動乱の時代である。
場合によっては、天下をとれたかもしれない足利直冬という男が、この地で最期を迎えたことに感慨深いものがある。

 いずれにせよ、石見地方には太平記が語る世界がまだまだたくさんありそうなので、機会があればこのほかにも探訪したいと思っている。


◆追記
【写真左】宝篋印塔・その1
 慈恩寺境内左に墓地があるが、その中に写真にある立派な宝篋印塔が建立されている。

 直冬のものかどうかは不明だが、その大きさや優美さを考えると、可能性がある。

【写真左】宝篋印塔・その2


【写真左】田中家累代の墓
 この墓地の中で興味を引く墓石があった。
 墓石側面には次のように筆耕されている。






“南領霊大居士
 天文二十年壬子八月二六日四百三十九年前 都治太郎藤原氏田中城主
 九良左兵門義元公
  有善公父”

 この中の田中城というのは、どうやら慈恩寺から700m程東南方向へ向かったところにある円光寺の南にある標高70m余りの丘城のようだ。また、天文20年といえば、大内義隆が陶晴賢の謀反によって長門大寧寺で自害した年に当たる。



◎関連投稿

松山城(島根県江津市)

松山城(まつやまじょう)  別名:川上城

◆登城日 2008,1,15
◆所在地 島根県江津市市村松平
◆築城期 嘉元元年(1303)
◆築城主 川上孫二郎
【写真左】川上孫二郎房隆が創建した萬安山清泰寺を前にした松山城遠景

 
●解説(現地の松山城案内説明板より)

 “松山城は、別名川上城ともいう山城で、鎌倉時代の終わりごろから南北朝・室町・戦国時代と三百余年の永い間、戦場となったところで、中原、佐々木その後に、福屋、小笠原、毛利と多くの城主を迎えた市内でも珍しい古城の跡である。

 城山の南壁は、大河・江の川が洗い、東はその支流の上津井川が深く切り込み、また西は都治川で隔てられた稀に見る天然の要害である。
 城址は、丘陵の南端に出丸の桜丸があり、その北およそ300メートルに本丸、本丸と桜丸の間に、二段の平地があり、古井戸もあったという。

 この松山城は、嘉元元年(1303)川上孫二郎(※)が創築した。弘安の役ののち、近江国(滋賀)より、川上荘の地頭として着任した中原房隆は、藤原氏の後裔で川上孫二郎房隆と名を改め、城山の西北麓の粉野に館を建て移り住んだ。これが川上の舘(別名粉野の舘)である。

 房隆は、山田の地に氏神の春日神社を勧請し、城山山麓に萬安山清泰寺を創建した。南北朝の争乱期には、南朝に味方し、石見宮方の一角をこの地で形成したため、しばしば具家方の攻撃を受けた。

 正平5年、武家方・高師㤗(こうのもろやす)の石見宮方討伐軍の進撃の前に落城する。初代川上氏の後に、二代目の川上氏となる佐々木祐直が足利尊氏の命をうけ、信州(長野)から来任し、鹿児島神社を市村に移し、八幡宮とした。権現宮を南川上に移し、八重山神社とし、春日神社を諏訪神社とする。

 宮方の城から武家方の城に変わった松山城は、三代目の福屋氏を迎える。天文13年、福屋隆兼(本明城主)は、佐々木氏を討ち、隆任、兼秀、隆助を配した。

 毛利氏に反した福屋氏は、永禄5年、毛利軍の攻撃を受け落城する。毛利氏は天正12年、三原丸山城主・小笠原氏にこの地を加増し、天正20年、小笠原氏が毛利氏によって出雲へ国替えされるのに及んで、松山城は毛利氏の所有となり、江戸時代には銀山領となる。
 この城山には、首塚、胴塚、血谷の地名を伝えている。また、櫃城(ひつしろ)、堂ケ鼻城の出城や支城もある。 ”

【写真上】江の川土手下の道にある案内板
  
◆登城の状況
●年が明けた2008年の1月15日、天気予報が冷え込むものの、石見地方はさほど悪くならないということだったので向かった。
 この城の情報は、この段階ではいつも参考にさせていただいている「城郭放浪記」氏には、当時、登城記録がなく(2008年の10月に登城済み)、別の人のものから得たものだったが、場所的に想像もしない所にあったことと、このあと登城した同じ江津・有福温泉南下の「本明城」と興味深い関わりがあることを知ったので、是非とも行きたいという衝動に駆られ、向かった次第。

●江の川の河口に近い松川町という場所は、今まで2,3回は通ったが、この場所に山城があるということは当時、全く想像していなかった。川土手下の道に上記の写真に示した詳細な案内板と説明のついたものがあり、最初は牧場方面の道から入り、坂の途中に「城山入口」 という看板があったのだが、笹が伸びていて入れず、そのあと「首塚入口」というのもあたったが、ほとんどジャングル状態でここも入れず、ぐるっと回って、もう一度松平小学校付近の方に出、再度清泰寺というところに駐車。

●この寺の裏から登っていくようになっていて、50メートルほど行ったのだが、登山道が崩落していたため取りやめた。

◆本明城の稿にも書いたように、永禄5年、福屋氏の出城であった当城が毛利氏によって落とされ、城主・隆任(たかやす)はここで討死。本明城主・隆兼は当城から本城である本明城へ戻るものの、戦意喪失で、最終的には四国へ
逃げたとのこと。

●上段の案内図に見える「宝篋印塔」は討死した隆任のものかもしれない。

【写真左】松山城遠望と「古戦場跡」
 前記したように「城郭放浪記」氏は当城本丸跡まで探訪しておられ、非常に多くの現地写真を掲載されている。
 機会があれば、再度足元の方はハードなものに履き替えて登城したい。

●写真は松山城を北西側(江の川)から見たもので、奥の白いものは松平小学校。その奥に前記の清泰寺がある。

●また画面手前に見える田圃や畑は古戦場跡である。当時は現在のような江の川の土手がなく、河原の景観を呈していたものと思われる。特に戦国期は毛利氏が石見・出雲に向かう際、江の川を船で往来したということから、この地での戦(いくさ)は半分は、「舟いくさ」だったと思われる。
※なお、上段の嘉元元年(1303)「川上孫二郎房隆」が川上荘に地頭としてやってきた際、その弟・中原三左衛門正隆は、この場所からさらに西にある都農郷(つのごう)に入って、「都野氏」を称している。