九十九山城(つくもやまじょう)
●所在地 香川県観音寺市室本町江甫山
●別名 江甫山城
●高さ H:153m(比高153m)
●形態 山城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 細川信之、氏頼、氏政、入江氏?
●遺構 郭、石積、土塁、虎口、井戸等
●別名 江甫山城
●高さ H:153m(比高153m)
●形態 山城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 細川信之、氏頼、氏政、入江氏?
●遺構 郭、石積、土塁、虎口、井戸等
●登城日 2017年12月24日
◆解説
前稿の讃岐・天神山城から南へおよそ6キロほど下った観音寺市の室本の港の南に聳える独立峰江甫山に築かれているのが、九十九山城である。この山は別名有明富士とも呼ばれ、讃岐七富士の一つに数えられている。
【写真左】九十九山城遠望・その1 南側から見たもので、中腹部は砕石されたような跡が見える。
登城口はこの写真の右側にある。
北側の室本港側から見たもの。
築城年代ははっきりしないが、天神山城と同じく細川氏が築城したと伝わる。前稿でも述べているが、細川氏が最初に讃岐へ下向するきっかけとなったのが、讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)の稿でも述べたように、南北朝期後半から室町初期のころで、その中心人物が細川頼之である。
東麓の登城口付近に設置されているもので、「四国巡礼 ミニ八十八ヶ所めぐり」と書かれている。
麓には、皇太子神社・蓮光院が描かれている。
入江氏
応仁の乱が勃発したとき、管領であった細川氏は二派に分かれ抗争を繰り返すが、当時摂津守護職も兼任していた細川氏は、その配下に地元国人領主入江氏を置いていた。この入江氏は特に細川高国に従い、和泉などで細川澄元方と戦っている。
入江氏はその後詳細な経緯は不明だが、讃岐の細川氏に仕えていく。九十九城の登城口は東麓にあるが、その場所には蓮光院という寺院がある。伝承ではこの寺院の場所は「入江家の城門付近」と伝えられている。このことから九十九城の麓には家臣団の一人として入江氏が館を構え、細川氏を支えていたと推察される。
因みに、九十九城の麓室本には現在入江麹製造所というところがあるが、おそらくこの入江氏も室本細川氏時代からの系譜に繋がるものと思われ、後述の香川氏から麹の免許状を交付されて以来の老舗と考えられる。
【写真左】七宝山蓮光院羅漢寺 登城口にある寺院で、羅漢寺は大同3年(808)、弘法大師によって稲積大権現の鎮護の宝刹として開基された真言宗の古刹。
延宝3年(1675)快賢阿闍梨が羅漢堂を建立し、筑紫から五百羅漢を招聘安置して、寺号も羅漢寺に改められた。
室本の麹
九十九山城が所在する室本は、讃岐で最初に稲作が行われた地であり、讃岐地方では珍しく米の生産が多いところだった。このことから麹の生産も盛んになり、永禄元年(1558)6月2日、天霧城主・香川之景(財田城(香川県三豊市財田町財田中)参照)から、皇太子大明神別当多宝坊(現在の蓮光院)に免許状が下賜されている。
香川氏は細川氏の讃岐下向時から臣下となって、西讃岐の守護代の地位を得ている。このことから、室本の九十九山城主・細川氏が香川氏の傘下にあったのか、それとも同国守護であった細川氏から直接統治を任されていたのか不明だが、香川氏と与同していたことはほぼ間違いないだろう。
蓮光院境内側にあるもので、杖なども用意されている。
長宗我部氏攻略による落城
九十九城は天正6年(1578)長宗我部軍による讃岐侵攻により落城している。そして、城主細川氏政は菩提寺興昌寺一夜庵の前庭で自刃したという。
興昌寺というのは、九十九山城から南に2キロ余り向かった観音寺市八幡町2町目にある寺院で、その西側に一夜庵がある。
写真は三合目付近のものだが、登城道というより「四国巡礼 ミニ八十八ヶ所めぐり」を優先したような地蔵が要所に祀られている。
山崎宗鑑と一夜庵
因みに、この一夜庵というのは、戦国時代の連歌・俳諧師であった山崎宗鑑(そうかん)(山城・山崎城(京都府乙訓郡大山崎町天王山)参照)が山城国の大山崎から大永3年(1523)ごろ讃岐国興昌寺に移り、庵を営んだことに始まる。
所在地 京都府乙訓郡大山崎町天王山
宗鑑は本名を範重といい、寛正6年(1465)滋賀県栗太郡常盤村志那で生まれた。
足利義尚に仕えていたが、義尚が佐々木(六角)高頼との合戦で敗れたのを機に、剃髪入道となりこの大山崎に隠棲した。ここで八幡宮社頭として連歌会の指導や、冷泉庵での講を主催した。その後、讃岐に移ることになる。
探訪日 2015年11月30日
低山の割に前半は急坂道が多い。このため九十九折れの箇所が多くなる。
宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったことから「一夜庵」といわれている。当時の保守的な連歌会を嫌い、一方座興の扱いとされていた俳諧を独立した芸術として確立していった人物で、俳諧の祖ともいわれる。
天性の洒落家を持つ人物で、天文23年(1554)10月に亡くなるが、辞世の句は
❝宗鑑は いづくへと人の問うならば
ちと用がありて あの世へといへ❞
とユーモアたっぷりに詠んだ。
九十九山城の最後の城主・細川氏政が亡くなるのは天正6年(1578)なので、氏政が宗鑑とは会っていないかもしれないが、その前の氏頼、あるいは信之などは、親交を深めて連歌・俳諧を楽しんだかもしれない。
七合目東端部に当たり、この付近からやっとなだらかになり、遺構らしきものが見え始める。
【写真左】防空壕 七合目付近にあったもので、先の大戦時に掘られたもののようだ。
それにしても頂上部に近い場所に防空壕を設置すれば、標的に曝されるような気がするが…。
【写真左】石積 同じく七合目付近にあったもので、この辺から遺構が散見される。
【写真左】郭【写真左】八合目の郭【写真左】九合目を目指す。八合目から再び傾斜がきつくなる。
【写真左】帯郭北側から東へ周り、さらに西へ回り込む方向へ帯郭が伸びている。
【写真左】九合目付近の郭【写真左】本丸が近づいてきた。【写真左】本丸 「江甫草山 頂上 153m 江甫草保存会」と書かれた標柱が建っている。
【写真左】三角点【写真左】南側に向かう。【写真左】西の展望台に向かう。 このあたりは多少の起伏はあるものの、郭として使われていたのだろう。
この先(西)に展望台の案内があるので向かう。
【写真左】途中の郭段【写真左】展望台から南方を俯瞰する。 かなり霞んだ視界だが、南側の有明浜などが見える。伊吹島はぼやけて確認できなかった。
このあと北側にまわる。
【写真左】室本の港下山途中に見たもので、歴史を感じさせる港だ。
【写真左】稲積山 九十九山城の東側には稲積山が控える。
当山には高屋神社が祀られ、長宗我部軍が九十九山城を攻めたとき、この稲積山側から鉄砲を放ったという。
稲積山及び高屋神社ついては次稿で紹介する予定である。
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