2019年3月6日水曜日

屋嶋城(香川県高松市屋島東町)

屋嶋城(やしまのき)

●所在地 香川県高松市屋島東町
●指定 国指定史跡
●形態 古代山城
●築城期 天智天皇六(667)年
●築城者 大和朝廷(中大兄皇子)
●高さ 292m(比高290)
●遺構 土塁・石垣、城門等
●備考 屋島寺
●登城日 2016年7月10日

◆解説(参考資料 高松市埋蔵文化センター発行「古代山城 屋嶋城 667)」パンフ等)
 岡山側から瀬戸内大橋を使って香川県に入るたびに、車中左方向の視界に入ってくるのが、頂部が平らで南北に伸びた独特の山容見せる屋島の姿である。
【写真左】屋嶋
西側から北端部を見る。奥には瀬戸内が広がり、女木島、男木島などが見える。






メサ地形

 屋島という名称からもわかるように、もともと四国本土から離れた島嶼の一つで、江戸時代に塩田開発が行われ出したころから陸続きになったという。
【写真左】屋嶋周辺の模型
 現地にある屋嶋の模型で、御覧のように頂部はフラットになったメサ地形を表している。




 横から見ると、かなりの範囲にわたって断崖絶壁の姿が確認できる。こうした独特の景観で最も規模の大きいものとして有名なのは、アメリカ西部劇でジョン・ウェインなどが出演した『駅馬車』などの映画に登場するモニュメント・バレー(ユタ州・アリゾナ州)である。
【写真左】城門・その1
 今回の探訪は2015年6月に大修理によって復元された城門を見ることが主な目的で、本来なら他の遺構も見たいところだったが、この日(2016年7月10日)は大変な猛暑で、この城門探索だけで体力がなくなった。
 
 ちなみに日本でよく似た箇所として有名なのは、豊後の角牟礼城から見た大岩扇山や、その近くにある万年山(はねやま)などである。
 メサ地形のメサとはスペイン語で机又はテーブル、食卓を意味するが、このような形は上部が硬い水平な地層を持ち、下部は浸食されやすい地層となっていることからできたものである。
【写真左】城門・その2
上から見たもので、中央の開口部にはもともと門があり、併せて排水溝があった。





白村江(はくすきのえ)の戦い

 さて、この屋島は『平家物語』の名場面「扇の的」で名を挙げた那須与一(那須与一の墓(岡山県井原市野上町) 参照)らが活躍した源平合戦の戦いの場としても知られる。

 この合戦を遡ること500年余り前の白鳳時代(飛鳥時代)、当時朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が相争っていた。このうち百済は、西暦600年ごろ、新羅と中国の唐による連合軍によって滅ぼされた。百済の支配地は朝鮮半島の西側にあり、新羅は東側にあった。百済の西方には黄海を挟んで唐があり、新羅と唐に挟まれていたことも敗戦の理由の一つだろう。
 敗れた百済は、その後国の復興と新羅に対する防衛のために、日本海を隔てた当時「倭」とよばれた日本に援軍の要請を行った。
【写真左】城壁の頂部
 階段状に構築されている。










 天智2年(663)、白村江(現在の韓国錦江河口付近)において、倭と百済による連合軍と、新羅(唐)との戦いが行われた。戦いの結果、百済・倭連合軍は再び敗れ、倭の軍隊は百済の遺民たちとともに日本に撤退することになる。

 このころ倭国を支配していたのが中大兄皇子で、前天皇斉明天皇は白村江の戦いが始まる2年前に朝倉宮で没し、皇子は称制(即位せず政務を執る)のままであった。倭国そのものが完全に支配されていない状況下で、援軍とはいえ朝鮮半島という日本海を隔てた他国からの要請に応えるべく加担した経緯が今一つ分からないが、どちらにしても敗れたあと新羅・唐の軍が日本に押し寄せる可能性が高まった。

 このため、新羅・唐からの侵攻にたいする防備として西日本各地に古代山城を築いた。
【写真左】横から見る。












現地の説明板より・その1

蘇る屋嶋城(やしまのき)

「日本書紀」にその名が記されていたにも関わらず、長らくその実態が不明で、幻の城でした。1998年1月、屋嶋城を探索していた平岡岩夫氏がこの場所で正面の石積を発見されました。この発見を契機に、高松市教育委員会による発掘調査が開始され、2002年、城門遺構の発見によってついに屋嶋城が実在したことが証明されたのです。発掘調査によって、高さ6メートルにも及ぶ巨大な城壁も築かれていたことが分かりました。
【写真左】排水溝
 門の下に設けられているもので、雨水などを流す。








 左手に見える階段を設置している箇所が城門で、2.5mの段差を設けて敵の侵入を阻む構造となっています。当時は、梯子などで出入りをして、有事の際には梯子をはずしていたと考えられます。城門の石積の真ん中ほどに開いた穴(水口)からは雨が降ると水が流れ出ます。

 2007年から開始した整備工事により往時の姿を取り戻した屋嶋城は、国防の危機に瀕し、城づくりに携わった人々、防衛を担った人々の往時の思いを我々に語りかけてくれるでしょう。❞
【写真左】門
 開口部となっているところで、当時はこの場所の四隅に柱を立て、物見櫓のようなものが建っていたと思われる。


古代朝鮮式山城

 これまでも古代山城については、いくつか紹介してきているが、鞠智城(熊本県山鹿市菊鹿町米原)の稿でも示したように、古代山城としては概ね次の3種類に分けられる。
  1. 朝鮮式山城
  2. 神籠石式山城
  3. 奈良時代山城
 そして、鬼ノ城(岡山県総社市奥坂鬼城山)の稿では、特に1.の朝鮮式山城を挙げているが、特筆されるのは文字通り、白村江で敗れた百済の遺民が日本に入国し、新羅・唐の軍勢に対処すべく、倭国の人々と共に築城に携わった可能性が極めて高いことである。
 このことからこれらを古代朝鮮式山城と呼称している。
【写真左】石積
 改修前は崩落しそうな状況だったようで、解体時石積みの石一つ一つにナンバリングし、それぞれカルテを作成。

 そのあと修復に当たっては試行錯誤の繰り返しを行いながら積んでいったという。まさに気の遠くなるような作業だったと思われる。

【写真左】横から見る。
城門付近の斜面はかなり傾斜があり、これけでも要害性があるが、さらにこうした防御施設をこの位置に設けたのは当時この付近が重要な場所だったということだろう。

 なお、この城門を含め、北水門・南水門・北斜面土塁といった遺構などはすべて屋嶋の西側に配置されており、新羅・唐の軍団が関門海峡から瀬戸内に入り、東進してくることを予想していたからであると思われる。
【写真左】浦生方面に向かう入口
 浦生(うろ)というのは本稿の城門地区とは反対の北側にある場所で、通称「浦生の石塁」という50mほどの城壁が残っている。
 「屋島古道へ がんじんの道」と書かれた手作り看板がある。
 残念ながら、この日はこちらに向かっていない。
【写真左】屋嶋から西に八栗寺を遠望する。
 中央の尖った山が五剣山(通称八栗山:H:366m)で、そのすぐ下に85番札所八栗寺がある。
 なお、源平合戦の主戦場となったところが、この写真の右下付近になる(下の写真参照)。
【写真左】源平合戦古戦場
 戦いは主として屋嶋の東側で行われた。
また、古戦場から東へおよそ2キロほど向かったところには安徳天皇が仮行宮所とした六万寺がある。
 ちなみに、安徳天皇はその後屋嶋側に正式な行宮所に移る。その場所が現在の安徳天皇社である(下の写真参照)。
【写真左】安徳天皇社
 上の写真の左側(北方)延長部にあたる箇所で、船が点在している箇所が立石漁港。
 ちなみに、天皇社(行在所)のすぐ東側には、源義経の身代わりになって亡くなった佐藤継信の墓がある。

 いずれ機会があったら、屋島における源平合戦の主だった史跡も探訪したいものだ。
【写真左】屋島寺・その1
 屋島には四国88ヶ所霊場の84番札所 南面山 千光院 屋島寺が建立されている。
 天平勝宝6年(754)、鑑真和上によって開創されたといわれているので、屋嶋城が築城されてからおよそ90年後に創建されたことになる。
【写真左】屋島寺・その2
 本堂付近。

 屋島寺と命名されたのは、鑑真の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂舎を建立し精舎を構えた時といわれる。

 ちなみに、屋島寺が所在する場所は、屋嶋城が廃城となった場所でもあり、屋嶋城時代にはこの付近が平時の住まいとして使われていたと考えられる。


◎関連投稿
安徳天皇西市陵墓(山口県下関市豊田町地吉) 
安徳天皇陵墓参考地・横倉山(高知県高岡郡越知町五味・越知)

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