戸田山城(とだやまじょう)
●所在地 香川県高松市東植田町南城・木田郡三木町朝倉
●高さ H:245m(170m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 植田氏
●城主 植田氏
●遺構 郭・堀切
●備考 戸田城
●登城日 2016年10月30日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
屋嶋城の南西麓で瀬戸内に注ぎ込む主な川は3本ある。東から新川、春日川、そして詰田川である。このうち、中央を流れるのが西植田町を源流とする春日川である。そして、この春日川の途中で合流するのが三木町と接する東植田町にある城池(じょういけ)から流下する朝倉川である。
戸田山城はこの城池を北に見下ろす位置に築城された標高240m余の城郭である。
【写真左】戸田山城遠望
北麓側から見たもの。
植田氏
戸田山城の城主は植田氏といわれている。
植田氏についてはすでにこの近くにある王佐山城(香川県高松市西植田町)で紹介しているが、讃岐国造(神櫛皇子)の末裔ともいわれている。平安時代末期の屋島の源平合戦では源氏方として活躍しているので、かなり古くから当地を治めていた土豪と思われる。
【写真左】「戸田城址之碑」
北麓側には平時の住まいとされる「戸田城」があり、その場所には御覧の石碑が建つ。
管理人は戸田城側の踏査はしていないが、屋敷跡らしき段や堀などの遺構が残っているようだ。
HP『城郭放浪記』氏が、この戸田城の写真をアップされているのでご覧いただきたい。
参考までに件の碑文を抄出しておく(◇印:判読不能)。
‟戸田城址之碑
景行天皇皇子神櫛◇讃岐國造の始祖にして◇其の第三世須賣保禮命◇初代讃岐國造となる 命の嫡流讃岐朝臣永成の後裔殖田氏を称し世々東讃の雄として名を馳せたり
源平合戦の時 植田若狭守
戦国争乱の時 植田美濃守
◇の戸田城の城主として善政を布く
昭和五十二年丁巳一月”
室町期に至ると、細川氏が讃岐国の守護職となり、西讃を事実上支配していた守護代の安富氏(讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)参照) の臣下となっていく。治めていた領地は、現在の高松市域となるが、明治時代の郡域でいえば山田郡を中心とした地域になる。
植田氏が平時の住まいをしていたのが、戸田山城の北麓にあった戸田城(上記写真参照)である。
この植田氏も天正7年ごろから侵攻してきた土佐の長曾我部元親の軍によって戸田城及び戸田山城が攻略され、同12年(1584)には廃城となった。その後、秀吉の四国征伐後は秀吉の傘下となっていく。
【写真左】登城開始
車を先ほどの戸田城側の空き地に止め、そこから歩いて向かう。
この写真の右奥に戸田山城が見える。
なお、この付近も元は戸田城(居館)の区域だった可能性がある。
【写真左】祠
上の写真の位置だったと思うが、左側に祭られていたもので、おそらく植田氏所縁の祠だろう。
【写真左】谷に入る。
登城コースを示すような案内板はほとんどないため、磁石と地図を頼りにこの谷から向かう。
【写真左】登城道・その1
不安だったのは上の谷付近のみで、この辺りから明瞭な道がでてきた。
【写真左】小郭
さっそく左側に小郭が見えた。
戸田山城は南北に長く、東西は400mほどの幅を持つ山に築城されているせいか、比高の割に急坂道が多く、このため中腹部には郭段がほとんどない。ただ、この箇所だけ小郭が配置されている。
【写真左】登城道・その2
次第に傾斜がきつくなる。
【写真左】小郭
だいぶ崩れているが、郭段の跡が残る。
【写真左】眺望が開けてきた。
登城途中ほとんど眺望はできなかったが、この付近から少しづつ明るくなってくる。
【写真左】ピークにたどり着く。
南から伸びる尾根のピークにやっとたどり着く。
戸田山城の本丸は南から伸びる尾根の北端部にあるが、そのまま尾根を南に進んでもさほど高低差はない。このため、途中に堀切などがあった可能性もあるが、御覧の状況なので踏査していない。
【写真左】本丸・その1
登り始めてからおよそ50分、急坂道の連続で、少し息が荒くなった時、目の前に明かりが見えた。本丸である。
【写真左】本丸・その2
本丸はさほど大きくはないが、定期的に清掃されているせいか、きれいだ。
形状はほぼ円形で、直径7~8m前後の規模。
【写真左】祠 本丸の一角には祠が祀られている。植田氏を祀ったものだろう。
【写真左】本丸から北を見る。
手前に城池が見え、奥には屋嶋城(香川県高松市屋島東町) が見える。
【写真左】由良山城遠望
同じく北の方向に由良山城が遠望できる。なお、由良山城は未登城だが、城主・由良兼光は三谷氏の一族であったが、香西氏が三谷氏を攻略したとき、当城も攻められ、その後香西氏と和睦している。
【写真左】王佐山城遠望
冒頭で紹介した王佐山城(香川県高松市西植田町)が見える。
◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)
●所在地 香川県高松市東植田町南城・木田郡三木町朝倉
●高さ H:245m(170m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 植田氏
●城主 植田氏
●遺構 郭・堀切
●備考 戸田城
●登城日 2016年10月30日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
屋嶋城の南西麓で瀬戸内に注ぎ込む主な川は3本ある。東から新川、春日川、そして詰田川である。このうち、中央を流れるのが西植田町を源流とする春日川である。そして、この春日川の途中で合流するのが三木町と接する東植田町にある城池(じょういけ)から流下する朝倉川である。
戸田山城はこの城池を北に見下ろす位置に築城された標高240m余の城郭である。
【写真左】戸田山城遠望
北麓側から見たもの。
植田氏
戸田山城の城主は植田氏といわれている。
植田氏についてはすでにこの近くにある王佐山城(香川県高松市西植田町)で紹介しているが、讃岐国造(神櫛皇子)の末裔ともいわれている。平安時代末期の屋島の源平合戦では源氏方として活躍しているので、かなり古くから当地を治めていた土豪と思われる。
【写真左】「戸田城址之碑」
北麓側には平時の住まいとされる「戸田城」があり、その場所には御覧の石碑が建つ。
管理人は戸田城側の踏査はしていないが、屋敷跡らしき段や堀などの遺構が残っているようだ。
HP『城郭放浪記』氏が、この戸田城の写真をアップされているのでご覧いただきたい。
参考までに件の碑文を抄出しておく(◇印:判読不能)。
‟戸田城址之碑
景行天皇皇子神櫛◇讃岐國造の始祖にして◇其の第三世須賣保禮命◇初代讃岐國造となる 命の嫡流讃岐朝臣永成の後裔殖田氏を称し世々東讃の雄として名を馳せたり
源平合戦の時 植田若狭守
戦国争乱の時 植田美濃守
◇の戸田城の城主として善政を布く
昭和五十二年丁巳一月”
室町期に至ると、細川氏が讃岐国の守護職となり、西讃を事実上支配していた守護代の安富氏(讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)参照) の臣下となっていく。治めていた領地は、現在の高松市域となるが、明治時代の郡域でいえば山田郡を中心とした地域になる。
植田氏が平時の住まいをしていたのが、戸田山城の北麓にあった戸田城(上記写真参照)である。
この植田氏も天正7年ごろから侵攻してきた土佐の長曾我部元親の軍によって戸田城及び戸田山城が攻略され、同12年(1584)には廃城となった。その後、秀吉の四国征伐後は秀吉の傘下となっていく。
【写真左】登城開始
車を先ほどの戸田城側の空き地に止め、そこから歩いて向かう。
この写真の右奥に戸田山城が見える。
なお、この付近も元は戸田城(居館)の区域だった可能性がある。
【写真左】祠
上の写真の位置だったと思うが、左側に祭られていたもので、おそらく植田氏所縁の祠だろう。
【写真左】谷に入る。
登城コースを示すような案内板はほとんどないため、磁石と地図を頼りにこの谷から向かう。
【写真左】登城道・その1
不安だったのは上の谷付近のみで、この辺りから明瞭な道がでてきた。
【写真左】小郭
さっそく左側に小郭が見えた。
戸田山城は南北に長く、東西は400mほどの幅を持つ山に築城されているせいか、比高の割に急坂道が多く、このため中腹部には郭段がほとんどない。ただ、この箇所だけ小郭が配置されている。
【写真左】登城道・その2
次第に傾斜がきつくなる。
【写真左】小郭
だいぶ崩れているが、郭段の跡が残る。
【写真左】眺望が開けてきた。
登城途中ほとんど眺望はできなかったが、この付近から少しづつ明るくなってくる。
【写真左】ピークにたどり着く。
南から伸びる尾根のピークにやっとたどり着く。
戸田山城の本丸は南から伸びる尾根の北端部にあるが、そのまま尾根を南に進んでもさほど高低差はない。このため、途中に堀切などがあった可能性もあるが、御覧の状況なので踏査していない。
【写真左】本丸・その1
登り始めてからおよそ50分、急坂道の連続で、少し息が荒くなった時、目の前に明かりが見えた。本丸である。
【写真左】本丸・その2
本丸はさほど大きくはないが、定期的に清掃されているせいか、きれいだ。
形状はほぼ円形で、直径7~8m前後の規模。
【写真左】祠 本丸の一角には祠が祀られている。植田氏を祀ったものだろう。
【写真左】本丸から北を見る。
手前に城池が見え、奥には屋嶋城(香川県高松市屋島東町) が見える。
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同じく北の方向に由良山城が遠望できる。なお、由良山城は未登城だが、城主・由良兼光は三谷氏の一族であったが、香西氏が三谷氏を攻略したとき、当城も攻められ、その後香西氏と和睦している。
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