勝瑞城(しょうずいじょう)
●所在地 徳島県板野郡藍住町勝瑞
●別名 阿波屋形、勝瑞城館、下屋形
●築城期 鎌倉時代か
●築城者 小笠原長清
●城主 細川氏、三好氏
●廃城年 天正10年(1582)
●形態 平城
●指定 国指定史跡
●備考 勝瑞城址公園
●登城日 2013年6月4日
◆解説(参考文献「サイト『勝瑞遺跡デジタル博物館』」等)
勝瑞城は徳島県の吉野川河口付近に築城された城館跡である。
【写真左】勝瑞城跡・その1
濠跡とみられる川だが、ほとんど流れていない。
現地の説明板より
“国指定史跡 「勝瑞城館跡」
勝瑞城跡
勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。
15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子春元党の拠点となった。
【写真左】勝瑞城跡・その2
同じく南側を流れる壕跡の川
天文22年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を握った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。
【写真左】見性寺
本丸跡地に建つ寺院で、三好氏の菩提寺である。
本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。
天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。8月28日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが9月21日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。
その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
【写真左】三好氏累代の墓
当地は16世紀末に築かれた詰めの城、館跡と共に平成13年1月29日に国史跡に指定された。
城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。
境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は、徳島県の有形文化財に指定されている。
藍住町教育委員会”
【写真左】勝瑞義家の碑
現地の説明板より
“藍住町指定有形文化財
見性寺境内
勝瑞義家 碑
四国正学といわれた徳島藩儒官那波魯堂(1727~89)の撰、戦国大名三好家の盛衰と戦没者の慰霊文を記した歴史的な記録で、すぐれた筆蹟は注目されている。
藍住町教育委員会”
吉野川
勝瑞城は、別名四国三郎とよばれた日本三大暴れ川の一つである吉野川の本流、及び支流の間に囲まれた藍住町の中にある。高松自動車道の板野ICを降りて、南に進むと最初に渡る板野大橋を流れるのが旧吉野川である。この川は現在の吉野川の上坂町当たりで、北に分岐して大きな蛇行を数回繰り返しながら東進し、松茂町の河口で紀伊水道へ注ぐ。
これに対し、現在の吉野川は板野町付近から川幅を広げつつ、徳島市の北側を悠然と東に進み、紀伊水道に注ぐときは、その河口幅は1キロ前後にも及ぶ。文字通り大河である。前記した三大暴れ川がそうであったように、これらは中世から近世にかけて周辺に住む人々によって度々治水や利水のための河川工事が行われてきた。
このような歴史を持つ旧吉野川と現吉野川の両川に挟まれた勝瑞城の所在する藍住町や、東方の北島町・松茂町といった板野郡のエリアには、いわゆる山といわれる高所がなく、海抜は最高所でも3m弱という場所である。つまり巨大な中洲でなりたつ町並である。
【写真左】土塁
竹林が繁茂しているため、分かりづらいが、見性寺(本丸跡)の西側に一部残っている。
高さは現在は1m弱のものだが、当時は2m程度はあったものと推測される。
阿波細川氏
延元元年・建武3年(1336)1月、新田義貞は賀茂河原で足利尊氏を破り、尊氏は一旦丹波に奔った。しかしその後尊氏は、形勢が次第に不利と見るや、さらに西下し九州で陣を立て直し、菊池・阿蘇両氏を破った。
同年4月3日、再起を図るべく、尊氏は、筑前博多の港から帆を揚げ東上を開始した。このとき、尊氏は事前に西国の主だった諸将に対し、与同する準備を企てている。これに呼応した中の一人が阿波細川氏である。
阿波細川氏は、以前鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)で紹介した同氏野洲家と同じく、分流の阿波讃岐細川家、または阿波屋形と呼ばれている。
15世紀中ごろ、この守護職細川氏が勝瑞城に移る前に拠ったといわれる土成の秋月(城)は、勝瑞城から吉野川を約20キロほどさかのぼった現在の阿波市土成町秋月にある(阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)参照)。
【写真左】見性寺境内
現在は境内として整地されているため、明確な遺構は確認しがたいが、北側から東にかけても土塁のような高まりが20m程度にわたって認められる。
三好氏
三好氏については、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)でも述べたように、元は小笠原氏といわれ、南北朝後期に阿波三好郡に入った義長の代に至って、小笠原氏から当地名の三好をとって、三好氏と改称したといわれている。
室町期に至ると、幕府内で権力を誇示した細川氏に被官していく。三好氏が大きく飛躍していくきっかけを作ったのが三好之長である。当時管領だった細川政元の跡継ぎとして入った養子の阿波細川家から澄元が迎えられると、之長はこれに随従し、各地で転戦奮闘し武功を挙げた。
こうしたことが政元の目に留まり、之長はそれまで分流であった阿波細川家から、嫡流である吉兆家細川氏の重鎮として重きをなした。
【写真左】矢竹の説明板
上の写真にある土塁跡にこのような竹が生えており、弓矢として用いる矢を館周辺に植生させていたとされる。
この後については以前にも述べたように、政元のもう一人の養子であった細川高国との確執から、永正6年(1509)6月17日、之長は山城国(京都)如意嶽において戦い、大内義興の支援を受けた高国に敗れた。
因みに出雲国の守護代に返り咲いていた尼子経久は、この前年の永正5年(1508)5月、大内義興・足利義稙を援護して入京している。経久が細川高国と接点を持ったのはおそらくこの時と思われ、後の永正17年(1520)、京極政経時代から支援をしていた尼子経久に対し、高国は養子高清の支援を要請している。
そしてこの年(永正17年)5月5日、細川高国は入京後、三好之長を再び破り、之長は自刃、細川澄元は阿波に逃れるも、6月10日無念の死を遂げた。
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●形態 平城
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◆解説(参考文献「サイト『勝瑞遺跡デジタル博物館』」等)
勝瑞城は徳島県の吉野川河口付近に築城された城館跡である。
【写真左】勝瑞城跡・その1
濠跡とみられる川だが、ほとんど流れていない。
現地の説明板より
“国指定史跡 「勝瑞城館跡」
勝瑞城跡
勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。
15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子春元党の拠点となった。
【写真左】勝瑞城跡・その2
同じく南側を流れる壕跡の川
天文22年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を握った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。
【写真左】見性寺
本丸跡地に建つ寺院で、三好氏の菩提寺である。
本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。
天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。8月28日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが9月21日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。
その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
【写真左】三好氏累代の墓
当地は16世紀末に築かれた詰めの城、館跡と共に平成13年1月29日に国史跡に指定された。
城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。
境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は、徳島県の有形文化財に指定されている。
藍住町教育委員会”
【写真左】勝瑞義家の碑
現地の説明板より
“藍住町指定有形文化財
見性寺境内
勝瑞義家 碑
四国正学といわれた徳島藩儒官那波魯堂(1727~89)の撰、戦国大名三好家の盛衰と戦没者の慰霊文を記した歴史的な記録で、すぐれた筆蹟は注目されている。
藍住町教育委員会”
吉野川
勝瑞城は、別名四国三郎とよばれた日本三大暴れ川の一つである吉野川の本流、及び支流の間に囲まれた藍住町の中にある。高松自動車道の板野ICを降りて、南に進むと最初に渡る板野大橋を流れるのが旧吉野川である。この川は現在の吉野川の上坂町当たりで、北に分岐して大きな蛇行を数回繰り返しながら東進し、松茂町の河口で紀伊水道へ注ぐ。
これに対し、現在の吉野川は板野町付近から川幅を広げつつ、徳島市の北側を悠然と東に進み、紀伊水道に注ぐときは、その河口幅は1キロ前後にも及ぶ。文字通り大河である。前記した三大暴れ川がそうであったように、これらは中世から近世にかけて周辺に住む人々によって度々治水や利水のための河川工事が行われてきた。
このような歴史を持つ旧吉野川と現吉野川の両川に挟まれた勝瑞城の所在する藍住町や、東方の北島町・松茂町といった板野郡のエリアには、いわゆる山といわれる高所がなく、海抜は最高所でも3m弱という場所である。つまり巨大な中洲でなりたつ町並である。
【写真左】土塁
竹林が繁茂しているため、分かりづらいが、見性寺(本丸跡)の西側に一部残っている。
高さは現在は1m弱のものだが、当時は2m程度はあったものと推測される。
阿波細川氏
延元元年・建武3年(1336)1月、新田義貞は賀茂河原で足利尊氏を破り、尊氏は一旦丹波に奔った。しかしその後尊氏は、形勢が次第に不利と見るや、さらに西下し九州で陣を立て直し、菊池・阿蘇両氏を破った。
同年4月3日、再起を図るべく、尊氏は、筑前博多の港から帆を揚げ東上を開始した。このとき、尊氏は事前に西国の主だった諸将に対し、与同する準備を企てている。これに呼応した中の一人が阿波細川氏である。
阿波細川氏は、以前鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)で紹介した同氏野洲家と同じく、分流の阿波讃岐細川家、または阿波屋形と呼ばれている。
15世紀中ごろ、この守護職細川氏が勝瑞城に移る前に拠ったといわれる土成の秋月(城)は、勝瑞城から吉野川を約20キロほどさかのぼった現在の阿波市土成町秋月にある(阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)参照)。
【写真左】見性寺境内
現在は境内として整地されているため、明確な遺構は確認しがたいが、北側から東にかけても土塁のような高まりが20m程度にわたって認められる。
三好氏
三好氏については、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)でも述べたように、元は小笠原氏といわれ、南北朝後期に阿波三好郡に入った義長の代に至って、小笠原氏から当地名の三好をとって、三好氏と改称したといわれている。
室町期に至ると、幕府内で権力を誇示した細川氏に被官していく。三好氏が大きく飛躍していくきっかけを作ったのが三好之長である。当時管領だった細川政元の跡継ぎとして入った養子の阿波細川家から澄元が迎えられると、之長はこれに随従し、各地で転戦奮闘し武功を挙げた。
こうしたことが政元の目に留まり、之長はそれまで分流であった阿波細川家から、嫡流である吉兆家細川氏の重鎮として重きをなした。
【写真左】矢竹の説明板
上の写真にある土塁跡にこのような竹が生えており、弓矢として用いる矢を館周辺に植生させていたとされる。
この後については以前にも述べたように、政元のもう一人の養子であった細川高国との確執から、永正6年(1509)6月17日、之長は山城国(京都)如意嶽において戦い、大内義興の支援を受けた高国に敗れた。
因みに出雲国の守護代に返り咲いていた尼子経久は、この前年の永正5年(1508)5月、大内義興・足利義稙を援護して入京している。経久が細川高国と接点を持ったのはおそらくこの時と思われ、後の永正17年(1520)、京極政経時代から支援をしていた尼子経久に対し、高国は養子高清の支援を要請している。
そしてこの年(永正17年)5月5日、細川高国は入京後、三好之長を再び破り、之長は自刃、細川澄元は阿波に逃れるも、6月10日無念の死を遂げた。
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