阿波・秋月城(あわ・あきづきじょう)
●所在地 徳島県阿波市土成町秋月
●築城期 建武3年・延元元年(1336)
●築城者 細川和氏
●城主 細川和氏・頼春・頼之、秋月氏
●形態 平城
●遺構 殆ど消滅(墓地)など
●指定 市指定史跡
●登城日 2013年10月27日
◆解説
阿波・秋月城は、勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)で紹介したように、阿波細川氏が勝瑞城に移る前に在城していた城館である。
所在地は、勝瑞城のある藍住町から吉野川を約20キロほど遡った北岸の阿波市土成町に築かれている。
【写真左】阿波・秋月城
現地には秋月城と刻銘された石碑などが建立されているが、整備されている箇所はこの付近のみで、周囲には墓地が点在している。
現地の説明板より
“秋月城跡
この地は古代秋月郷と呼ばれ、土豪秋月氏がここに居館を構えた文永年間守護小笠原氏から世継ぎを迎えたと伝えられている。
細川阿波守和氏らは秋月氏に迎えられ、秋月に居館を構え四国全域に号令、四国管領として大きな勢力を誇っていた。
秋月城は南北朝から室町時代にかけて、細川氏の拠点として枢要の地歩を占めていた。
その後、細川詮春が勝瑞城に移った後、秋月中司大輔(森飛騨守)が守ったと伝えられている。
天正7年(1579)、土佐の長宗我部軍の兵火にあって落城したといわれている。
この城跡の周辺には、秋月城の名残りとして御原の泉・的場の跡・竈(かまど)跡等が残っている。
平成元年12月
土成町”
【写真左】説明板
阿波小笠原氏と秋月氏
この地に最初に構えた土豪秋月氏については詳細は分からないが、説明板によると文永年間(1264~74)に当時の守護であった小笠原氏から世継ぎを迎えているという。
文永年間とは、鎌倉幕府において北条時宗が執権となったころで、対外的には蒙古襲来(文永の役)に対応している時期である。
【写真左】もう一つの石碑
かなりの漢字が刻まれているが、篆書体のような刻銘のため殆ど読解不能。
ただ、後半の文章には戦国期、すなわち長宗我部軍との戦いの様子を記したと思われるような文字が並んでいる。
小笠原氏については、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)でも述べたように、承久の乱(承久3年・1221年)の功績によって信濃国から小笠原長房が当地阿波に下向したことに始まる。おそらく、在地領主であった秋月氏は、下向してきた小笠原氏に対する服従的な意味もあって養子を迎えたのではないかと思われる。
阿波・小笠原氏が秋月郷に養子を送り込んで間もない弘安4年(1281)、高麗の東路軍が対馬・博多に来襲した(弘安の役)。このとき、幕府は北九州から山陰(石見海岸まで)防衛上の砦を造らせている。
石見小笠原氏
その際、阿波小笠原氏は石見の警固を担当したが、12年後の永仁元年(1293)3月、幕府は改めて鎮西探題として北条兼時らを九州に任じたように、石見では長房の子・長親が翌々年の永仁3年(1295)、石見国邑智郡村之郷に入った(山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)参照)。これが石見小笠原氏の祖となる。
【写真左】石見の山南城
山深い石見国にあって、東方の険しい峠を越えると江の川が北進している。
この村之郷は四周を山々が囲み、阿波国の広大な吉野川流域から来た小笠原氏にとって、まったくの辺境の地と思えたことだろう。
恩賞としての土地とはいえ、当初は荒れ原野の開墾・開拓の伴う苦難の日々が続いたと想像される。
左側の小丘が山南城の遺構だが、おそらく向背の本城に対する前城の役目があったものだろう。
阿波細川氏と小笠原氏
延元元年・建武3年(1336)小笠原氏のあとに入ったのが細川和氏(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)である。この年の1月、足利尊氏は京都賀茂河原で新田義貞に敗れ、一旦鎮西(九州)へ奔った。このとき、細川氏は尊氏の命を受けて四国の統率を担うことになる。おそらくその時期は、尊氏が西下途中、備後の鞆の浦で光厳上皇の院宣を受けた2月29日の直後と思われる。
【写真左】五輪塔
当地は城館としての定義づけがなされているが、現地には「的場跡」とされた石碑も建っている。
ただ、点在する墓地以外は葛など雑草が繁茂し、遺構の確認は殆ど不可能だが、削平地が数段で構成されているので、館跡としての可能性が高い。
この五輪塔は片隅にまとめて祀られいる。
和氏の兄弟には、弟の頼春及び師氏がおり、さらには従兄の細川顕氏らがいた。彼らは四国・瀬戸内東部を治めた細川氏の主だった面々である。
ご覧の通り墓地以外の箇所は草が繁茂している。
なお、この入口前を通る道路は、遍路道で、西方には第10番札所(得度山切幡寺)があるため、登城中にも多くのお遍路さんが往来していた。
ところで、細川氏が四国を治める前の小笠原氏との経緯はどうなっていただろうか。前記したように、阿波小笠原氏の嫡流であったはずの長房の子・長親を遠国である石見に移したため、当然ながら阿波国には庶流が残った。
もっとも史料では、長親の弟として長種の名がみえるが、彼のその後の動向が明らかでない。むしろこのころ既に同氏庶流としての三好氏や、一宮氏・大西氏・安宅氏などの記録が多い。かれらは以前にも述べたように、阿波国各地に分散し国人化していった。そして、細川和氏が四国を平定した際、同氏に属していったという。
【写真左】秋月歴史公園・その1
秋月城から北東部へ数百メートル山側に向かったところにある場所で、当城関連史跡として「安国寺経蔵跡」が比定されている。
ここから階段を登っていくと、眺望のよい展望台などがある(下段の写真参照)
細川詮春と頼之
さて、秋月城の城主となった和氏であるが、尊氏を支援し、室町幕府の引付頭人、侍所頭人など京都でしばらく活躍することになる。晩年は隠居し阿波秋月で余生を過ごし康永元年(1342)当地において47歳の生涯を終えた。
和氏には嫡男の清氏がいたが、清氏は佐々木道誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)らによる謀略によって武家方(幕府軍)から追放され、結果南朝に属し、讃岐において同族の従弟である細川頼之らと戦う羽目になった。そして、最期は坂出市において無念の討死となった。
【写真左】秋月歴史公園・その2
この日は夕暮れでもあったため、この先にある展望台までしか向かわなかったが、さらに上に進むと、「秋月城跡」とされたもう一つの頂部があるようだ。
前段で紹介している秋月城が「的場」若しくは「館跡」とすれば、城砦としての秋月城はこの山に築かれていたかもしれない。
このため、和氏あとの秋月城の城主は細川詮春、すなわち、和氏の実弟頼春の子が跡を継ぐこととなる。
なお、詮春の兄すなわち、上掲した細川氏本流である吉兆家の嫡男頼之(土居構(愛媛県西条市中野日明、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)、小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)参照)は、その後細川氏を再興し、幕府内で管領として強固な地位を固め、室町期には幼い足利義満を育成した。
そして、讃岐・阿波・土佐・淡路・摂津・丹波・備中など、この時期もっとも重要な地域の守護職を手中に収め強大な権力を誇示していくことになる。
【写真左】秋月歴公園(秋月城)から南麓を見る。
旧秋月郷といわれた場所で、前段で紹介した「秋月城(館跡)」はこの写真の右にあるが、ここからは見えない。
秋月郷から吉野川までの間には市場町伊月という地名があるが、南北朝期から室町期にかけて、このあたりにも吉野川を交易の足として利用した市などが開かれていたものと思われる。
また、対岸の吉野川市には以前紹介した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)がほぼ真南に見える。
●所在地 徳島県阿波市土成町秋月
●築城期 建武3年・延元元年(1336)
●築城者 細川和氏
●城主 細川和氏・頼春・頼之、秋月氏
●形態 平城
●遺構 殆ど消滅(墓地)など
●指定 市指定史跡
●登城日 2013年10月27日
◆解説
阿波・秋月城は、勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)で紹介したように、阿波細川氏が勝瑞城に移る前に在城していた城館である。
所在地は、勝瑞城のある藍住町から吉野川を約20キロほど遡った北岸の阿波市土成町に築かれている。
【写真左】阿波・秋月城
現地には秋月城と刻銘された石碑などが建立されているが、整備されている箇所はこの付近のみで、周囲には墓地が点在している。
現地の説明板より
“秋月城跡
この地は古代秋月郷と呼ばれ、土豪秋月氏がここに居館を構えた文永年間守護小笠原氏から世継ぎを迎えたと伝えられている。
細川阿波守和氏らは秋月氏に迎えられ、秋月に居館を構え四国全域に号令、四国管領として大きな勢力を誇っていた。
秋月城は南北朝から室町時代にかけて、細川氏の拠点として枢要の地歩を占めていた。
その後、細川詮春が勝瑞城に移った後、秋月中司大輔(森飛騨守)が守ったと伝えられている。
天正7年(1579)、土佐の長宗我部軍の兵火にあって落城したといわれている。
この城跡の周辺には、秋月城の名残りとして御原の泉・的場の跡・竈(かまど)跡等が残っている。
平成元年12月
土成町”
【写真左】説明板
阿波小笠原氏と秋月氏
この地に最初に構えた土豪秋月氏については詳細は分からないが、説明板によると文永年間(1264~74)に当時の守護であった小笠原氏から世継ぎを迎えているという。
文永年間とは、鎌倉幕府において北条時宗が執権となったころで、対外的には蒙古襲来(文永の役)に対応している時期である。
【写真左】もう一つの石碑
かなりの漢字が刻まれているが、篆書体のような刻銘のため殆ど読解不能。
ただ、後半の文章には戦国期、すなわち長宗我部軍との戦いの様子を記したと思われるような文字が並んでいる。
小笠原氏については、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)でも述べたように、承久の乱(承久3年・1221年)の功績によって信濃国から小笠原長房が当地阿波に下向したことに始まる。おそらく、在地領主であった秋月氏は、下向してきた小笠原氏に対する服従的な意味もあって養子を迎えたのではないかと思われる。
阿波・小笠原氏が秋月郷に養子を送り込んで間もない弘安4年(1281)、高麗の東路軍が対馬・博多に来襲した(弘安の役)。このとき、幕府は北九州から山陰(石見海岸まで)防衛上の砦を造らせている。
石見小笠原氏
その際、阿波小笠原氏は石見の警固を担当したが、12年後の永仁元年(1293)3月、幕府は改めて鎮西探題として北条兼時らを九州に任じたように、石見では長房の子・長親が翌々年の永仁3年(1295)、石見国邑智郡村之郷に入った(山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)参照)。これが石見小笠原氏の祖となる。
【写真左】石見の山南城
山深い石見国にあって、東方の険しい峠を越えると江の川が北進している。
この村之郷は四周を山々が囲み、阿波国の広大な吉野川流域から来た小笠原氏にとって、まったくの辺境の地と思えたことだろう。
恩賞としての土地とはいえ、当初は荒れ原野の開墾・開拓の伴う苦難の日々が続いたと想像される。
左側の小丘が山南城の遺構だが、おそらく向背の本城に対する前城の役目があったものだろう。
阿波細川氏と小笠原氏
延元元年・建武3年(1336)小笠原氏のあとに入ったのが細川和氏(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)である。この年の1月、足利尊氏は京都賀茂河原で新田義貞に敗れ、一旦鎮西(九州)へ奔った。このとき、細川氏は尊氏の命を受けて四国の統率を担うことになる。おそらくその時期は、尊氏が西下途中、備後の鞆の浦で光厳上皇の院宣を受けた2月29日の直後と思われる。
【写真左】五輪塔
当地は城館としての定義づけがなされているが、現地には「的場跡」とされた石碑も建っている。
ただ、点在する墓地以外は葛など雑草が繁茂し、遺構の確認は殆ど不可能だが、削平地が数段で構成されているので、館跡としての可能性が高い。
この五輪塔は片隅にまとめて祀られいる。
和氏の兄弟には、弟の頼春及び師氏がおり、さらには従兄の細川顕氏らがいた。彼らは四国・瀬戸内東部を治めた細川氏の主だった面々である。
頼春についてはこれまで、田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)、世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)、川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)、星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)でも度々紹介しているが、鎌倉時代後期から南北朝動乱期にかけて足利尊氏を主君として仕えた。彼は文和元年(1352)京都において宮方軍と戦い討死した。(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)
師氏については、星ヶ城・その1(香川県小豆島町大字安田字険阻山)でも紹介したように、淡路国を本拠とし、小豆島において宮方の飽浦信胤と一戦を交えた武将である。
【写真左】北側から見る。ご覧の通り墓地以外の箇所は草が繁茂している。
なお、この入口前を通る道路は、遍路道で、西方には第10番札所(得度山切幡寺)があるため、登城中にも多くのお遍路さんが往来していた。
ところで、細川氏が四国を治める前の小笠原氏との経緯はどうなっていただろうか。前記したように、阿波小笠原氏の嫡流であったはずの長房の子・長親を遠国である石見に移したため、当然ながら阿波国には庶流が残った。
もっとも史料では、長親の弟として長種の名がみえるが、彼のその後の動向が明らかでない。むしろこのころ既に同氏庶流としての三好氏や、一宮氏・大西氏・安宅氏などの記録が多い。かれらは以前にも述べたように、阿波国各地に分散し国人化していった。そして、細川和氏が四国を平定した際、同氏に属していったという。
【写真左】秋月歴史公園・その1
秋月城から北東部へ数百メートル山側に向かったところにある場所で、当城関連史跡として「安国寺経蔵跡」が比定されている。
ここから階段を登っていくと、眺望のよい展望台などがある(下段の写真参照)
細川詮春と頼之
さて、秋月城の城主となった和氏であるが、尊氏を支援し、室町幕府の引付頭人、侍所頭人など京都でしばらく活躍することになる。晩年は隠居し阿波秋月で余生を過ごし康永元年(1342)当地において47歳の生涯を終えた。
和氏には嫡男の清氏がいたが、清氏は佐々木道誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)らによる謀略によって武家方(幕府軍)から追放され、結果南朝に属し、讃岐において同族の従弟である細川頼之らと戦う羽目になった。そして、最期は坂出市において無念の討死となった。
【写真左】秋月歴史公園・その2
この日は夕暮れでもあったため、この先にある展望台までしか向かわなかったが、さらに上に進むと、「秋月城跡」とされたもう一つの頂部があるようだ。
前段で紹介している秋月城が「的場」若しくは「館跡」とすれば、城砦としての秋月城はこの山に築かれていたかもしれない。
このため、和氏あとの秋月城の城主は細川詮春、すなわち、和氏の実弟頼春の子が跡を継ぐこととなる。
なお、詮春の兄すなわち、上掲した細川氏本流である吉兆家の嫡男頼之(土居構(愛媛県西条市中野日明、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)、小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)参照)は、その後細川氏を再興し、幕府内で管領として強固な地位を固め、室町期には幼い足利義満を育成した。
そして、讃岐・阿波・土佐・淡路・摂津・丹波・備中など、この時期もっとも重要な地域の守護職を手中に収め強大な権力を誇示していくことになる。
【写真左】秋月歴公園(秋月城)から南麓を見る。
旧秋月郷といわれた場所で、前段で紹介した「秋月城(館跡)」はこの写真の右にあるが、ここからは見えない。
秋月郷から吉野川までの間には市場町伊月という地名があるが、南北朝期から室町期にかけて、このあたりにも吉野川を交易の足として利用した市などが開かれていたものと思われる。
また、対岸の吉野川市には以前紹介した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)がほぼ真南に見える。
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