因島・青陰山城(いんのしま・あおかげやまじょう)
●所在地 広島県尾道市因島中庄町青陰・田熊町
●築城期 南北朝期か
●別名 青影城
●築城者 不明(今岡氏・伊予衆か)
●城主 伊予衆・因島村上氏など
●指定 広島県指定史跡
●高さ 標高275m(比高180m)
●遺構 郭・木戸跡など
●登城日 2012年11月25日
◆解説(参考文献(『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
瀬戸内海のしまなみ海道を繋ぐ島の一つ・因島の青影山に築かれた山城である。因島の山城については、これまで千守城跡(広島県尾道市因島三庄町千守)を紹介しているが、青陰山城は同島の中でも高い位置にあり、眺望は極めてよい場所に築かれている。
【写真左】青陰山城遠望・その1
北側にある村上水軍城から見たもの。
2014年12月撮影
【写真左】青陰山城遠望・その2
南西麓の金山フェリー前(三光汽船発着場)ふきんから見たもの。
当城については、いつものように現地の説明板から紹介したいところだが、管理人が登城したとき、現場にはその説明板の枠が残るのみで、肝心の文面が消失してしまっていた。このため、サイト『城郭放浪記』氏の写真から転載させていただく。
【写真左】青陰城と千守城の位置
青陰城は因島の西方にあり、以前紹介した千守城は東方に配置されている。
“青影城跡
標高277mの青影山の頂にあり、元弘年間村上義弘が居城してから慶長元年第10代村上吉亮が世を終わるまで、約260年間村上家累代の城であった。
当時をしのぶものとして、本丸跡と二の丸跡の平坦地、それをつなぐ通路が一段低くなって頂上を形成、本丸の下に武者走り、東に三の丸の城門、石風呂、井戸等の跡があり、昭和32年9月広島県史跡として指定された。”
【写真左】登城口付近
登城道は複数あるようだが、この日は南麓部からのコースを使った。
写真に見える箇所には車1台分のスペースがあり、平日だったこともあり何とか停めることができた。
余談ながら、瀬戸内の島独特の大変に狭い道で、対向車が来たら相当難儀することを覚悟しなければならない。
築城期と築城者
上記の説明板によれば、元弘年間村上義弘が居城云々とある。しかし、これについて『日本城郭体系第13巻』は、村上海賊衆が瀬戸内海で水軍として活動し始めるのは、室町期も後期のことであり、村上義弘在世の貞治4年(正平20年・1365)頃には、のちの能島・来島・因島の三島村上氏のような海賊衆の組織化は見られない、としている。
【写真左】登城途中から青陰山城を見る。
登城口から本丸まではおよそ600m程度で、道の方も整備されている。
写真左側に見える岩は、下段に紹介する仙龍寺・奥ノ院に付属する仁王像が描かれているもの。
【写真左】仙龍寺の向背に描かれた仁王像
この岩とは別にもう一つ絵が描かれているものがある。磨崖仏のようなものではなく、色を塗布したような仕上げになっている。
この島に城郭を構えてくる必要が出だしたのは、南北朝期と考えられ、康永2年、青陰山の北麓から東に拡がる中庄町(かつては広い入江だった)の東南端の堂崎山城で、南北両軍の激しい戦いが繰り広げられており、青陰山城もこのころ築かれたものと推察される、としている。
このころ因島を押さえていたのは、南朝方であった伊予衆で、北方から安芸・小早川氏が北朝方として南下してきている。その際、北朝方の攻めを最初に阻止するために築かれたのが、上述の堂崎山城である。
当城については管理人は未登城だが、『城郭放浪記』氏が既に登城報告されているのでご覧いただきたい。この城の築城者は、南朝方の広沢五郎と大館右馬亮といわれ、当城における最も激しい戦いが、康永2年といわれている。
【写真左】石積みされた段
登城途中、右側にあったもので、当時のものか、最近のものかわからないが、眺望が楽しめる。
今岡氏
青陰山城の南麓部には館跡があり、そのうち南麓には「今岡氏屋敷跡」と伝承されるものがある。残念ながら現地でその場所は確認できなかったが、今岡氏は南北朝期に活躍した伊予衆といわれ、おそらく南朝方で当城の築城者ともいわれている。
その後、村上氏が同島を支配下に治め、長崎城・青木城・余崎城などを支城として構えることになったと考えられる。
【写真左】分岐点
青陰山城の東方にある鞍部で、この箇所で北側から登ってきた道と合流し、西(写真の正面)に進むと青陰山城へ、手前に行くと、風呂山方面に向かう。
城の構成
青陰山を囲むような形で、東には風呂山、西に山伏山などが連なっているが、このうち三の丸は山伏山との間を介在する位置にあり、東には風呂山との間を掘りきった二の木戸(城門跡)を構え、そこから北麓への道をたどると、二段からなる屋敷跡があったといわれている。
数年前まで当城の配置図などが掲示してあったようだが、相当劣化したため現在ではなくなっている。
【写真左】二の丸・その1
上図の道を登っていくと、最初に二の丸が現れる。
長さ約40m、幅5~10m前後のもので、南側には屋根付きの展望台が設置されている。
【写真左】二の丸・その2 石碑
この石碑には、
“建武中興六百年記念
村上義弘公青影城址登山路改修碑
田熊 村上氏一族”
と刻銘されている。
【写真左】二の丸から南方を俯瞰する。
二の丸からは南方がよく見える。
この写真では、左から弓削島・生名島・鶴島などが見える。なお、麓の町は田熊町の町並み。
【写真左】二の丸から本丸へ
二の丸から西に向かうと本丸に繋がるが、この連絡路は少し幅が狭くなり、途中の北側には深さ50cm程度の四角形に抉られた箇所が残る。何の目的かわからないが、人為的な遺構と考えられる。
なお、この連絡路は登り坂で約50m程度の長さがある。
【写真左】本丸・その1
二の丸とほぼ同じ程度の規模を持つもので、若干幅が広い。
【写真左】本丸・その2 石碑
本丸は西側が少し高くなっているが、その場所にこの石碑が祀られている。
【写真左】三の丸
本丸の西端部から2m程度の段差を持ち、幅3m程度の郭が本丸西端外周にとりついている。
【写真左】本丸南側
青陰山城は東西に伸びる尾根筋を利用して築城された城砦であるため、南北は天険の要害である。
また、三の丸の西端部も山伏山との間が険しい谷を構成しているため、尾根筋以外の箇所で加工された郭などの遺構は少ない。
【写真左】本丸から北方を俯瞰する。
本丸からほぼ真北には尾道市因島史料館や模擬天守の因島水軍城などが見える。
その先には、因島大橋の橋脚や向島、さらに左側には本土側の三原市が確認できる。
●所在地 広島県尾道市因島中庄町青陰・田熊町
●築城期 南北朝期か
●別名 青影城
●築城者 不明(今岡氏・伊予衆か)
●城主 伊予衆・因島村上氏など
●指定 広島県指定史跡
●高さ 標高275m(比高180m)
●遺構 郭・木戸跡など
●登城日 2012年11月25日
◆解説(参考文献(『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
瀬戸内海のしまなみ海道を繋ぐ島の一つ・因島の青影山に築かれた山城である。因島の山城については、これまで千守城跡(広島県尾道市因島三庄町千守)を紹介しているが、青陰山城は同島の中でも高い位置にあり、眺望は極めてよい場所に築かれている。
【写真左】青陰山城遠望・その1
北側にある村上水軍城から見たもの。
2014年12月撮影
【写真左】青陰山城遠望・その2
南西麓の金山フェリー前(三光汽船発着場)ふきんから見たもの。
当城については、いつものように現地の説明板から紹介したいところだが、管理人が登城したとき、現場にはその説明板の枠が残るのみで、肝心の文面が消失してしまっていた。このため、サイト『城郭放浪記』氏の写真から転載させていただく。
【写真左】青陰城と千守城の位置
青陰城は因島の西方にあり、以前紹介した千守城は東方に配置されている。
“青影城跡
標高277mの青影山の頂にあり、元弘年間村上義弘が居城してから慶長元年第10代村上吉亮が世を終わるまで、約260年間村上家累代の城であった。
当時をしのぶものとして、本丸跡と二の丸跡の平坦地、それをつなぐ通路が一段低くなって頂上を形成、本丸の下に武者走り、東に三の丸の城門、石風呂、井戸等の跡があり、昭和32年9月広島県史跡として指定された。”
【写真左】登城口付近
登城道は複数あるようだが、この日は南麓部からのコースを使った。
写真に見える箇所には車1台分のスペースがあり、平日だったこともあり何とか停めることができた。
余談ながら、瀬戸内の島独特の大変に狭い道で、対向車が来たら相当難儀することを覚悟しなければならない。
築城期と築城者
上記の説明板によれば、元弘年間村上義弘が居城云々とある。しかし、これについて『日本城郭体系第13巻』は、村上海賊衆が瀬戸内海で水軍として活動し始めるのは、室町期も後期のことであり、村上義弘在世の貞治4年(正平20年・1365)頃には、のちの能島・来島・因島の三島村上氏のような海賊衆の組織化は見られない、としている。
【写真左】登城途中から青陰山城を見る。
登城口から本丸まではおよそ600m程度で、道の方も整備されている。
写真左側に見える岩は、下段に紹介する仙龍寺・奥ノ院に付属する仁王像が描かれているもの。
【写真左】仙龍寺の向背に描かれた仁王像
この岩とは別にもう一つ絵が描かれているものがある。磨崖仏のようなものではなく、色を塗布したような仕上げになっている。
この島に城郭を構えてくる必要が出だしたのは、南北朝期と考えられ、康永2年、青陰山の北麓から東に拡がる中庄町(かつては広い入江だった)の東南端の堂崎山城で、南北両軍の激しい戦いが繰り広げられており、青陰山城もこのころ築かれたものと推察される、としている。
このころ因島を押さえていたのは、南朝方であった伊予衆で、北方から安芸・小早川氏が北朝方として南下してきている。その際、北朝方の攻めを最初に阻止するために築かれたのが、上述の堂崎山城である。
当城については管理人は未登城だが、『城郭放浪記』氏が既に登城報告されているのでご覧いただきたい。この城の築城者は、南朝方の広沢五郎と大館右馬亮といわれ、当城における最も激しい戦いが、康永2年といわれている。
【写真左】石積みされた段
登城途中、右側にあったもので、当時のものか、最近のものかわからないが、眺望が楽しめる。
今岡氏
青陰山城の南麓部には館跡があり、そのうち南麓には「今岡氏屋敷跡」と伝承されるものがある。残念ながら現地でその場所は確認できなかったが、今岡氏は南北朝期に活躍した伊予衆といわれ、おそらく南朝方で当城の築城者ともいわれている。
その後、村上氏が同島を支配下に治め、長崎城・青木城・余崎城などを支城として構えることになったと考えられる。
【写真左】分岐点
青陰山城の東方にある鞍部で、この箇所で北側から登ってきた道と合流し、西(写真の正面)に進むと青陰山城へ、手前に行くと、風呂山方面に向かう。
城の構成
青陰山を囲むような形で、東には風呂山、西に山伏山などが連なっているが、このうち三の丸は山伏山との間を介在する位置にあり、東には風呂山との間を掘りきった二の木戸(城門跡)を構え、そこから北麓への道をたどると、二段からなる屋敷跡があったといわれている。
数年前まで当城の配置図などが掲示してあったようだが、相当劣化したため現在ではなくなっている。
【写真左】二の丸・その1
上図の道を登っていくと、最初に二の丸が現れる。
長さ約40m、幅5~10m前後のもので、南側には屋根付きの展望台が設置されている。
【写真左】二の丸・その2 石碑
この石碑には、
“建武中興六百年記念
村上義弘公青影城址登山路改修碑
田熊 村上氏一族”
と刻銘されている。
【写真左】二の丸から南方を俯瞰する。
二の丸からは南方がよく見える。
この写真では、左から弓削島・生名島・鶴島などが見える。なお、麓の町は田熊町の町並み。
【写真左】二の丸から本丸へ
二の丸から西に向かうと本丸に繋がるが、この連絡路は少し幅が狭くなり、途中の北側には深さ50cm程度の四角形に抉られた箇所が残る。何の目的かわからないが、人為的な遺構と考えられる。
なお、この連絡路は登り坂で約50m程度の長さがある。
【写真左】本丸・その1
二の丸とほぼ同じ程度の規模を持つもので、若干幅が広い。
【写真左】本丸・その2 石碑
本丸は西側が少し高くなっているが、その場所にこの石碑が祀られている。
【写真左】三の丸
本丸の西端部から2m程度の段差を持ち、幅3m程度の郭が本丸西端外周にとりついている。
【写真左】本丸南側
青陰山城は東西に伸びる尾根筋を利用して築城された城砦であるため、南北は天険の要害である。
また、三の丸の西端部も山伏山との間が険しい谷を構成しているため、尾根筋以外の箇所で加工された郭などの遺構は少ない。
【写真左】本丸から北方を俯瞰する。
本丸からほぼ真北には尾道市因島史料館や模擬天守の因島水軍城などが見える。
その先には、因島大橋の橋脚や向島、さらに左側には本土側の三原市が確認できる。
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