相良城(さがらじょう)
●所在地 広島県三原市大和町下徳良
●別名 下城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 相良良左衛門大夫
●高さ 360m(比高15m)
●形態 平山城
●指定 三原市指定史跡
●登城日 2012年11月7日及び、2014年3月25日
◆解説(参考文献「サイト・城郭放浪記」等)
瀬戸内方面に車を走らせていたところ、偶然道路脇の看板が目に留まり、立ち寄った城砦である。
【写真左】相良城遠望・その1
周囲は現在田圃や民家などが建ち、近くには公立の施設などが整備されているが、当時の比高はもう少し高かったものと思われる。
現地の説明板より
“相良城址
昭和48年10月大和町文化財指定
相良城は戦国時代の典型的な平山城で、標高360m、周囲192m、面積2,760㎡で山上は、東部の一段高い郭と、平坦な郭とがあり、本丸と二の丸跡と推察される平坦な郭の外周には、高さ1.3m、幅2.0mぐらいの土塁が数か所残っている。
当時この地の支配者が平常時は農耕等を営み、戦時に周囲を一望できるこの山城にこもり敵対したものと推察される。
この城について芸藩通誌に「下城」、世羅郡誌に「相良城または下城」と記されている。
城主については、世羅郡誌に「或曰 相良良左衛門大夫所居」とあるが、詳細は不明である。
昭和62年 月
三原市教育委員会”
【写真左】東側切崖
一部崩落個所が散見されるものの、険峻な切崖を保つ。
相良城は、以前取り上げた同町にある椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)から、北東へ約5キロほど向かった位置にあり、城主相良某という武将も椋梨氏と同じく、元は沼田小早川家の流れと思われる。
写真でも分かるように、大変小規模な城塞で、居館跡といった雰囲気を持つ。
【写真左】登城口
登城しようとしたらご覧の看板。「進入禁止 入ってはいけません」とのこと。
外周部の崩落があり、危険だからということなのか。残念だが、素直に従うことにした。
ちなみに、『城郭放浪記』氏は、「自己責任で」登城されている。同氏の写真を見ると、思った以上に広いようだ。また、外周部には土塁が残っている。
【写真左】下から見上げる。
【写真左】麓の看板
「とくとくクラブ」という地元の団体が作製したもの。
【写真左】五輪塔か
入口付近には、五輪塔の破片らしきものと、地蔵が祀られている。
【写真左】相良城遠望・その2
北東部から見たもの。
追記
最初に登城してから2年後の2014年に附近を探訪する機会があったので、この日「自己責任」の下で、登城することにした。
【写真左】本丸・その1
当城(公園)脇の階段を登ると、ごらんのような広い削平地となった広場が見える。
【写真左】土塁・その1
南側から東側にかけては土塁跡が残る。
【写真左】土塁・その2
北東端のもの。
【写真左】相良城想像図
山城というより、平城形態の城館跡といったほうがいいかもしれない。
この想像図にもあるように、本丸の中には屋形や、物見櫓などが描かれ、平時も居館として機能していた可能性が高い。
【写真左】本丸・その2
下から見ていたときより、実際に現地に立つと想像以上に広く感じる。
●所在地 広島県三原市大和町下徳良
●別名 下城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 相良良左衛門大夫
●高さ 360m(比高15m)
●形態 平山城
●指定 三原市指定史跡
●登城日 2012年11月7日及び、2014年3月25日
◆解説(参考文献「サイト・城郭放浪記」等)
瀬戸内方面に車を走らせていたところ、偶然道路脇の看板が目に留まり、立ち寄った城砦である。
【写真左】相良城遠望・その1
周囲は現在田圃や民家などが建ち、近くには公立の施設などが整備されているが、当時の比高はもう少し高かったものと思われる。
現地の説明板より
“相良城址
昭和48年10月大和町文化財指定
相良城は戦国時代の典型的な平山城で、標高360m、周囲192m、面積2,760㎡で山上は、東部の一段高い郭と、平坦な郭とがあり、本丸と二の丸跡と推察される平坦な郭の外周には、高さ1.3m、幅2.0mぐらいの土塁が数か所残っている。
当時この地の支配者が平常時は農耕等を営み、戦時に周囲を一望できるこの山城にこもり敵対したものと推察される。
この城について芸藩通誌に「下城」、世羅郡誌に「相良城または下城」と記されている。
城主については、世羅郡誌に「或曰 相良良左衛門大夫所居」とあるが、詳細は不明である。
昭和62年 月
三原市教育委員会”
【写真左】東側切崖
一部崩落個所が散見されるものの、険峻な切崖を保つ。
相良城は、以前取り上げた同町にある椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)から、北東へ約5キロほど向かった位置にあり、城主相良某という武将も椋梨氏と同じく、元は沼田小早川家の流れと思われる。
写真でも分かるように、大変小規模な城塞で、居館跡といった雰囲気を持つ。
【写真左】登城口
登城しようとしたらご覧の看板。「進入禁止 入ってはいけません」とのこと。
外周部の崩落があり、危険だからということなのか。残念だが、素直に従うことにした。
ちなみに、『城郭放浪記』氏は、「自己責任で」登城されている。同氏の写真を見ると、思った以上に広いようだ。また、外周部には土塁が残っている。
【写真左】下から見上げる。
【写真左】麓の看板
「とくとくクラブ」という地元の団体が作製したもの。
【写真左】五輪塔か
入口付近には、五輪塔の破片らしきものと、地蔵が祀られている。
【写真左】相良城遠望・その2
北東部から見たもの。
追記
最初に登城してから2年後の2014年に附近を探訪する機会があったので、この日「自己責任」の下で、登城することにした。
【写真左】本丸・その1
当城(公園)脇の階段を登ると、ごらんのような広い削平地となった広場が見える。
【写真左】土塁・その1
南側から東側にかけては土塁跡が残る。
【写真左】土塁・その2
北東端のもの。
【写真左】相良城想像図
山城というより、平城形態の城館跡といったほうがいいかもしれない。
この想像図にもあるように、本丸の中には屋形や、物見櫓などが描かれ、平時も居館として機能していた可能性が高い。
【写真左】本丸・その2
下から見ていたときより、実際に現地に立つと想像以上に広く感じる。
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