2013年2月5日火曜日

可部・寺山城(広島県広島市安佐北区可部町)

可部・寺山城(かべ・てらやまじょう)

●所在地 広島県広島市安佐北区可部町(寺山公園・可部高校)
●築城期 不明
●築城者 不明(熊谷氏か)
●高さ 102m
●遺構 郭(他ほとんど消滅)
●備考 寺山公園
●登城日 2012年10月31日

◆解説
 前稿高松山城(広島県広島市安佐北区可部町)で紹介した高松山城の南麓にある城砦である。

 寺山城の位置を示す史料としては、添付写真にある説明板の図面に図示されているが、残念ながら地元の県立可部高等学校建築によって中心部の遺構は殆ど消滅しているようだ。
【写真左】寺山城(公園)遠望
 高松山城本丸付近から俯瞰する。
 左側の建物は可部高等学校の校舎で、校内に主郭跡があったとされる。

 学校敷地内であるため、管理人は探訪していないが、情況から考えて何も残っていないだろう。

 しかし、現在の南側尾根を中心とした「寺山」部は寺院跡ながら、城砦としての遺構に類似したものも見られ、寺山城の城域がほぼこの小丘陵全体にあったものと思われる。
【写真左】寺山城位置図
 寺山公園入口付近に設置された「寺山縁起」という説明板に図示されている。右上方向が北を示す。

 寺山城の主郭部分は、現在の可部高等学校敷地側(北尾根)にあったようだが、おそらくこの周りには郭や竪堀などの遺構があったものと思われる。


現地の説明板より

“寺山
 
 安佐北区可部、根の谷川左岸にある標高102mの山です。
 寺山には弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡(墳墓群)と古墳時代中期の古墳がありました。(古墳時代ほぼ3世紀末から7世紀に至る時代)南北に細長く中央の小さな谷を境に、北東側(北尾根)と南西側(南尾根)に分かれ、北東側には広島県立可部高等学校とそのグランド、それと広島市の寺山公園が造成されています。

 寺山の北東には標高400m足らずの高松山がある。この山の頂上付近には高松城があった。高松城は、安芸国三入庄の新補地頭、熊谷氏の後期山城です。

 この熊谷氏の所領3千石の内、300石を末寺12坊を持つ、寺山の東側山すそにあった「迎接院曼荼羅寺(ごうしょういんまんだらじ)」の寺領としたと伝えられています。
【写真左】寺山公園から南尾根を見る。
 可部高校・グランド及び寺山公園は北半分を占有し、南尾根との間には鞍部(谷)ができ、アクセス道路が走る。

 このため、寺山公園から直接南尾根に繋がる橋が架けられ、簡単に南尾根に向かうことができる。
 

 根の谷川に沿って一の字型に伸びる峰は、聖なる山としての貫録充分であります。又寺山はその姿があたかも屏風を立て掛けた形に見えるところから「屏風山」ともいわれた。

 熊谷氏(第14代熊谷元直)は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに敗退した西軍の総大将、毛利輝元(元就の孫)と共に防長(山口県)に移り、その後寺山は、広島藩浅野家の藩領となりました。
【写真左】南尾根頂部に登る。
 低山の割に傾斜があるが、ご覧のような階段などが設置されている。

 元治元年(1864)第一次長州征伐・慶応2年(1866)第二次長州征伐と藩の財政は困窮し、広島藩は南原屋の木坂文左衛門に贋金(天保通宝)を造るよう命じました。文左衛門は寺山の北西麓で百人位の鋳物職人によって贋金造りを始めました。

 この頃、寺山を土井清右衛門が買い取り、当時は禿山であったが、以来一衛、一郎、達郎の4代が150年に亘り代々経営努力を重ねてきました。
 この度広島県立可部高等学校移転、広島市立寺山公園造成にあたり、観音像を設立し記念とする。
   平成20年(2008年)8月9日
       土井達郎”
【写真左】西側斜面
 小郭の段にも見える。












迎接院曼荼羅寺

 寺山城の南峯の東麓に現在もその名を留める寺院が残っている(残念ながら管理人は帰宅してから分かったため探訪していないが)。

 熊谷氏の祖、直実が法然上人から授かったのが迎接院曼荼羅といわれ、のちに観応2年(1351)それを安置したのが当寺である。当時、この周辺に12坊を擁していたという。

 なお、熊谷氏の菩提寺正法山観音寺跡は、熊谷氏土居屋敷跡(広島市安佐北区三入南1)の近く根の谷川対岸にあるが、管理人は探訪してない。
【写真左】南側の段
 2,3の段が認められる。
【写真左】頂部
 砲台跡があっとされるが、長州征伐のときのものか、あるいは昭和の大戦のものかわからない。

 ただ、時代は違っても、この場所が戦略的な要衝であると認識されることから、戦国時代にも同じような役目があったものと考えられる。
【写真左】南尾根から高松山城を見る

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