下横田城 別名三笠城(みかさじょう)跡
◆登城日 2007年4月23日
●所在地 奥出雲町下横田 古市
●築城期 永徳2年・弘和2年(1382)
●遺跡種別 城館跡
●築城主 石原宗政
●標高 440m
●遺跡の現状 郭 腰郭 土塁 竪堀 連続竪堀 虎口 馬出
削平等により遺構一部損壊
◆解説(現地の説明板より)
“三笠山
14世紀に入ると、横田庄(八川、横田、鳥上)は、京都御所の花園となり、16世紀末まで続いた。その間、出雲国守護大名・山名満幸はこれを横領し、代官として本国・丹波国より石原氏を差し向けた。石原氏はこの三笠山に山城を築き、上皇からの再三の返還命令にも応じなかった。
そこで、将軍・足利義満はついに山名氏一族討伐の戦いを明徳2年(1391)に起こし(明徳の乱)、山名満明の守護職も取り上げ、他国に追放した。そのため、石原氏は地頭・三沢氏を頼って家臣となり、朝令を受けた三沢の代官として再び、横田庄に入り、この地に住んだと伝えられる。古市はその頃、城下町としてつくられ、横田の藤ヶ瀬城下に町ができると古市と呼ばれるようになったことが、岩屋寺文書で明らかである。
なお、この駐車場から写真でいえば、右側に登城道があり、時間にして10分程度で本丸跡にたどり着く。現地には、山城の説明板が表記のようにあるが、全体には地元で公園としての位置づけが強いようだ。
なお、山麓にある新宮神社は、元横田・八川の村境地(字名新宮)にあったものを、山名伊予守が移転したものと伝えられる。
山頂にある稲荷神社に、木次線工事の頃(昭和11年開通)工事人であった鳥取県黒坂の住人が夢枕に稲荷神社を建立せよとのお告げにより建立したと口伝されている。
三笠公園整備振興会“
【写真左】神社脇の標識標識にあるように、本丸跡まで280mと短い。
【写真右】登城道(最初のころ)
登城道の傾斜もさほどきつくなく、久しぶりに楽に登れた。
【写真左】本丸跡にある稲荷神社 説明板にあるように、昭和11年頃の木次線工事に携わった人たちが建てたものとのこと。
本丸跡には、説明板の他にこの神社程度しかなく、この場所から降りたところに廓あと、堀切りがある程度である。本丸跡の大きさは小さく、5m四方程度である。
【写真左上下】本丸跡から降りてしばらく歩いたところの郭状と、その場所にあった石碑
郭というほどの大きさはないが、その脇に右のような石碑がある。刻銘文は「縄久利神」と読める。これについての説明がないため不明。
◆山城としては、特に見るべきものはないが、築城者である石原氏は、もともと山名氏の配下であって、その後三沢氏の寵臣となり、戦国時代に大いに活躍していることは特筆される。
また、藤ケ瀬城ができる前までは、この地が先に繁栄し、三沢氏が藤ケ瀬城を築城後、当地を「古市」としている。
なお、前稿の須我非山城の城主も石原氏であるが、石原氏に関しては北方宍道湖岸にある古刹・弘長寺との関わりも深く、三沢氏は石原氏一族の能力を相当高く評価していたと思われる。
◆登城日 2007年4月23日
●所在地 奥出雲町下横田 古市
●築城期 永徳2年・弘和2年(1382)
●遺跡種別 城館跡
●築城主 石原宗政
●標高 440m
●遺跡の現状 郭 腰郭 土塁 竪堀 連続竪堀 虎口 馬出
削平等により遺構一部損壊
◆解説(現地の説明板より)
“三笠山
14世紀に入ると、横田庄(八川、横田、鳥上)は、京都御所の花園となり、16世紀末まで続いた。その間、出雲国守護大名・山名満幸はこれを横領し、代官として本国・丹波国より石原氏を差し向けた。石原氏はこの三笠山に山城を築き、上皇からの再三の返還命令にも応じなかった。
そこで、将軍・足利義満はついに山名氏一族討伐の戦いを明徳2年(1391)に起こし(明徳の乱)、山名満明の守護職も取り上げ、他国に追放した。そのため、石原氏は地頭・三沢氏を頼って家臣となり、朝令を受けた三沢の代官として再び、横田庄に入り、この地に住んだと伝えられる。古市はその頃、城下町としてつくられ、横田の藤ヶ瀬城下に町ができると古市と呼ばれるようになったことが、岩屋寺文書で明らかである。
【写真上】三笠山城入口にある新宮神社
314号線の途中に「三笠公園入り口」という看板があり、左(東側)に入る狭い脇道で、すぐに木次線の踏切を渡ると、この神社が見える。右側に回って鋭角に登る坂道を上がるとそこが駐車場。台数は4,5台までだろう。因みに、小生は入った時はよかったものの、降りるとき、車の腹が少し当たったようで、あまりいい施工の駐車場ではない。
314号線の途中に「三笠公園入り口」という看板があり、左(東側)に入る狭い脇道で、すぐに木次線の踏切を渡ると、この神社が見える。右側に回って鋭角に登る坂道を上がるとそこが駐車場。台数は4,5台までだろう。因みに、小生は入った時はよかったものの、降りるとき、車の腹が少し当たったようで、あまりいい施工の駐車場ではない。
なお、山麓にある新宮神社は、元横田・八川の村境地(字名新宮)にあったものを、山名伊予守が移転したものと伝えられる。
山頂にある稲荷神社に、木次線工事の頃(昭和11年開通)工事人であった鳥取県黒坂の住人が夢枕に稲荷神社を建立せよとのお告げにより建立したと口伝されている。
三笠公園整備振興会“
【写真左】神社脇の標識標識にあるように、本丸跡まで280mと短い。
【写真右】登城道(最初のころ)
登城道の傾斜もさほどきつくなく、久しぶりに楽に登れた。
【写真左】本丸跡にある稲荷神社 説明板にあるように、昭和11年頃の木次線工事に携わった人たちが建てたものとのこと。
本丸跡には、説明板の他にこの神社程度しかなく、この場所から降りたところに廓あと、堀切りがある程度である。本丸跡の大きさは小さく、5m四方程度である。
【写真左上下】本丸跡から降りてしばらく歩いたところの郭状と、その場所にあった石碑
郭というほどの大きさはないが、その脇に右のような石碑がある。刻銘文は「縄久利神」と読める。これについての説明がないため不明。
◆山城としては、特に見るべきものはないが、築城者である石原氏は、もともと山名氏の配下であって、その後三沢氏の寵臣となり、戦国時代に大いに活躍していることは特筆される。
また、藤ケ瀬城ができる前までは、この地が先に繁栄し、三沢氏が藤ケ瀬城を築城後、当地を「古市」としている。
なお、前稿の須我非山城の城主も石原氏であるが、石原氏に関しては北方宍道湖岸にある古刹・弘長寺との関わりも深く、三沢氏は石原氏一族の能力を相当高く評価していたと思われる。
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