須我非山城(すがひやまじょう)
◆登城日 2009年3月15日(日曜日)晴れ
●頂上にあった須我非社は、江戸時代初期(1620年頃)築城の際、角木に移し、後分社して居去神社、大領神社(郡)八幡宮(三成)にそれぞれ合祀された(明治40年・1907)
●築城は、鎌倉時代(1185~1330)で、三沢城の出城として、家臣・石原氏が南麓に、尼子時代(1392~1566)には、斎藤熊三郎が北麓に居住して相当に大きな城郭に整備されたようで、馬乗場や刀研ぎ場(雨壷と呼ばれ年中水が絶えない。混ぜると雨が降るという)が残っている。
今はテレビ塔が建ち、中継所となっている。
(参考)出雲風土記抄、日本城郭大系、仁多郡誌、陰陽誌、高田寺根元録、布施村誌、国土地理院
上三所自治会連合会
平成4年3月吉日
上三所昭和会建立“
◆この山城に関する情報は、現地の説明板程度のものしか持ち合わせていないので、消化不良の感が否めないが、実際に当城に登城してみると、これだけ高い山へよくも城郭を築いたものだと感心する。
◆登城日 2009年3月15日(日曜日)晴れ
●所在地 島根県仁多郡 奥出雲町 三所 須我非
●遺跡種別 城館跡 ●遺跡の現状 山林 消滅
●土地保有 民有地 ●指定 未指定
●備考 三所城山城跡、大半消滅
◆解説(現地の説明板より)
“城山 三等三角点 578,12m
(須我非山 菅火山)
東経 133度1分32秒941
北緯 35度12分54秒145
【写真左】須我非山城遠望
●遺跡種別 城館跡 ●遺跡の現状 山林 消滅
●土地保有 民有地 ●指定 未指定
●備考 三所城山城跡、大半消滅
◆解説(現地の説明板より)
“城山 三等三角点 578,12m
(須我非山 菅火山)
東経 133度1分32秒941
北緯 35度12分54秒145
【写真左】須我非山城遠望
出雲風土記(天平5年2月30日(西暦733年)
●三処郷((みところのさと)、即ち郡家に属けり、大穴持命(大国主命)詔りたまいしく
「この地の田好し、故、我が御地(みところ)の田」詔りたまいき、故、三処という
●菅(すが)火野(ひぬ)、郡家の正西四里(2,138m)なり、高さ125丈(369m)、周り11里(5,345㎞)あり、峯に神社あり。
この野は、郡村、高芝村、三処上下、角木、石原、乙多田の7か所の間にある曠野(あれの)丘陵の名にして、俗呼んで日光山と呼ぶ是なり。今の城山で須我非山ともいっている。
【写真左】登城途中の道
●三処郷((みところのさと)、即ち郡家に属けり、大穴持命(大国主命)詔りたまいしく
「この地の田好し、故、我が御地(みところ)の田」詔りたまいき、故、三処という
●菅(すが)火野(ひぬ)、郡家の正西四里(2,138m)なり、高さ125丈(369m)、周り11里(5,345㎞)あり、峯に神社あり。
この野は、郡村、高芝村、三処上下、角木、石原、乙多田の7か所の間にある曠野(あれの)丘陵の名にして、俗呼んで日光山と呼ぶ是なり。今の城山で須我非山ともいっている。
【写真左】登城途中の道
頂上まで写真のような簡易舗装の道路となっており、4WDの軽自動車であれば、最後まで車で行ける。
ただ、この日は、8合目付近で地元の方が道路清掃の作業をしておられたため、空き地に車をとめ、途中から徒歩で向かった。さすがに頂上部付近の登り坂は傾斜があり、結構しんどい思いをした。
ただ、この日は、8合目付近で地元の方が道路清掃の作業をしておられたため、空き地に車をとめ、途中から徒歩で向かった。さすがに頂上部付近の登り坂は傾斜があり、結構しんどい思いをした。
●頂上にあった須我非社は、江戸時代初期(1620年頃)築城の際、角木に移し、後分社して居去神社、大領神社(郡)八幡宮(三成)にそれぞれ合祀された(明治40年・1907)
●築城は、鎌倉時代(1185~1330)で、三沢城の出城として、家臣・石原氏が南麓に、尼子時代(1392~1566)には、斎藤熊三郎が北麓に居住して相当に大きな城郭に整備されたようで、馬乗場や刀研ぎ場(雨壷と呼ばれ年中水が絶えない。混ぜると雨が降るという)が残っている。
今はテレビ塔が建ち、中継所となっている。
(参考)出雲風土記抄、日本城郭大系、仁多郡誌、陰陽誌、高田寺根元録、布施村誌、国土地理院
上三所自治会連合会
平成4年3月吉日
上三所昭和会建立“
【写真左】頂上部の電波塔関係の建物裏の石垣跡のようなもの
記録では城郭としての遺構はほとんど消滅ということなっており、実際大幅な改編がされた状況である。ただ、この部分のみ、当時の石垣群らしき痕跡が認められ、崩れてはいるものの、かなりまとまった石の量である。
一見すると、郭跡のようにも見えるが、上部の建物を設置するために盛土された跡である。
【写真左】本丸跡から南西の方向を見る
【写真左】本丸跡から南西の方向を見る
遺構は期待できなかったが、この日はかなり視界がよく、遠く中国山地の山並みを望むことができた。
【写真左】本丸跡から、三沢城、三瓶山を望む
この写真では分かりずらいが、中央やや右に三沢城が見える。標高はこちらの須我非山が高い。
さらに、奥の中央よりやや右にかすんで見える山が、石見の三瓶山である。
◆この山城に関する情報は、現地の説明板程度のものしか持ち合わせていないので、消化不良の感が否めないが、実際に当城に登城してみると、これだけ高い山へよくも城郭を築いたものだと感心する。
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