松江・茶臼山城跡(まつえ・ちゃうすやまじょうあと)
●登城日 2008年4月21日
●所在地 島根県松江市山代町茶臼山
●築城期 14世紀
●築城主 村井伯耆守
●標高 171m
●遺構 郭、帯郭、堀切、竪掘、連続竪掘、虎口 (島根県遺跡データベースより)
【写真左】茶臼山城遠望・その1
撮影日 2018年1月23日
南麓部にある松江風土記の丘から撮ったもので、頂部が綺麗になっているが、これは最近子供たちが、火遊びをしていたところ火事を起こしてしまい、主郭付近の樹木が無くなってしまったからである。
この行為は褒められたものではないが、山城愛好家からすれば、遺構が明確に見えるため、ありがたい。
【写真左】茶臼山城遠景・その2
南側の農道から撮ったもので、左側の高くなったところが本丸跡である。
◆解説
現地・頂上の説明板より
“茶臼山(神名樋野(かんなびぬ))
茶臼山は標高171mあり、奈良時代の「出雲国風土記」には神名(かんな)樋野(びぬ)と書かれた神聖な山でした。出雲にはこの山以外に朝日山(松江市)、大船山(出雲市)、仏教山(斐川町)の四つの神奈備山(かんなびやま)があり、この場所からは見渡せます。
ふもとには山代二子塚や大庭鶏塚などの古墳、「出雲風土記」に載る二つの新造院跡(寺院)、山代郷正倉跡(米倉)、出雲国庁跡、真名井神社などがあり、周辺一帯は古代出雲の政治・文化の中心地でした。
また、都と地方を結ぶ古代山陰道が南の意宇平野の中央を通っていました。さらに、「国引き神話」の舞台となった大山、弓ヶ浜半島、島根半島なども見ることができます。
中世には、見晴らしの良さや、交通の要地からここが山城となりました。頂上は平に加工され、見張り台などがつくられていたと考えられます。一段下がった場所には、攻めてくる敵を防ぐためのおおきな溝(堀切)もあります。
遠くに見える山には、今から450年前、尼子氏と毛利氏が戦った荒隈城や白鹿城が北側に、南東には京羅木山城があります。
平成17年3月 島根県教育委員会”
【写真左】本丸跡
後方は北東部の東出雲町や中海
【写真左】登城途中の道
この山城に向かう前に、カーナビで頂上を設定したところ、北側にある八幡ため池脇を指示し、そのまま進んでいくと、結局東側の真名井の方へ出ていき、また道がどんどん悪くなったため、途中で引き返した。
そして、北西側の県営住宅などがある付近に、小さな字で「茶臼山登山道」という文字が見え、その近くの空き地に止めて登った。この登山道は割と地元の人も登っているらしく、急峻ながら適当に階段が施工されていたため、登りやすかった。
【写真右】登城途中にあった槍形の石を祀ったもの。
傾斜のある登山道の右に設置されていたもので、高さはは約1,5m、下の部分の幅は約60センチぐらいだろうか、人工的に彫刻されたようにも見えるし、自然石にも見える。周囲にこの石について説明文のようなものがないため、いわれは分からないが、昔から祀ってあるものだろう。
【写真左】登城途中にあった規模の大きい堀切り
急勾配の登りがある程度落ち着いたあたりにあり、尾根の途中を切断したような形で、尾根幅が10mぐらいなのでさほど大きいものではないが、深さはかなりあり、当時は5m前後はあったものと思われる。
なお、このあたりから廓壇が少しずつ出始め、本丸まで4,5か所あるように見えた。
【写真左】本丸の西側にある一番大きな郭跡 本丸そのものもかなり大きく、目分量で東西30~40m、幅20m前後と思われたが、その下にあった廓もかなりのもので、奥行も25m前後あると思われた。
ただ、残念なのはこの郭跡もふくめ、本丸以外が雑草が繁茂し、全体の遺構がはっきりと確認できなかったことである。
【写真左】本丸跡から見た和久羅山
和久羅山は、16世紀、原田孫兵衛が築城。標高261 m、郭 帯郭 土塁 虎口などがある(遺跡データーベースより)。
“元亀元年(1570)8月下旬、毛利元就の老病は日に日に重たくなってきたので、毛利輝元・小早川隆景・吉川元長は雲州平田の陣を出発して、芸州吉田に帰ることとなった。
途中、出雲大社に参拝して、神馬三頭を寄進したので、諸軍士もこれに見習い、我も我もと太刀・鎧などを奉納する者が多かった。
同年9月上旬、元春は六千騎をもって、出雲国内に残っている尼子勢力を一掃しようと、富田城からうってでたので、古志の城主・古志因幡守は、まず第一番に冑を脱いで毛利に降参してしまった。
和倉(和久羅ともいう、嵩山の東方に連なる山)には、毛利家より長屋小次郎という者を城将として守らせていた。尼子方では横道源介・横道権充の兄弟がしばしばここに押し寄せ、城の麓に放火等をしてこれを悩ませていた。
これを見て、山中鹿之助・横道兄弟は一千騎で一気に乗っ取ろうと攻めかけ、外郭の小屋など一軒も残らず焼き払ったので、城中の苦しみは容易でなかった。…“(尼子物語より)
前稿で取り上げた「全隆寺城(波入城)」がある大根島が、中央奥の横に細長い姿で見える。
◆この山城名は、茶臼山城という名称で、山城名として余りにもポピュラーな名前で、正直言って興が削がれる感もあるが、別名出雲風土記に出てくる「神名樋山」ともいう。
この山から南、東西にかけては、古代出雲文化発祥の地ともいわれ、多くの古墳、古社があり、律令時代には出雲国庁、出雲国分寺などがあった。
県遺跡データベースによると、山城としての主だった遺構は残っているようだが、現地ではっきりと確認できるのは、本丸付近の郭と、かなり大きな堀切程度である。
地元の小学生程度の遠足などにも使われているようで、登城道は整備されているが、周辺の山城関係の遺構部は雑草や雑木で覆われ、踏み込むことは困難だ。
築城主が村井伯耆守とあり、築城期が14世紀という。村井某が14世紀の武将であるということなら、南北朝期ということだろう。当城については、戦国期の陰徳太平記などに出てこないが、位置的に考えれば、当然何らかの役割を果たしたものと思われる。
本丸付近の周辺の雑木を伐採すれば、おそらく東西南北・全方向が見渡せる眺望の良い独立系の山城である。
●登城日 2008年4月21日
●所在地 島根県松江市山代町茶臼山
●築城期 14世紀
●築城主 村井伯耆守
●標高 171m
●遺構 郭、帯郭、堀切、竪掘、連続竪掘、虎口 (島根県遺跡データベースより)
【写真左】茶臼山城遠望・その1
撮影日 2018年1月23日
南麓部にある松江風土記の丘から撮ったもので、頂部が綺麗になっているが、これは最近子供たちが、火遊びをしていたところ火事を起こしてしまい、主郭付近の樹木が無くなってしまったからである。
この行為は褒められたものではないが、山城愛好家からすれば、遺構が明確に見えるため、ありがたい。
【写真左】茶臼山城遠景・その2
南側の農道から撮ったもので、左側の高くなったところが本丸跡である。
◆解説
現地・頂上の説明板より
“茶臼山(神名樋野(かんなびぬ))
茶臼山は標高171mあり、奈良時代の「出雲国風土記」には神名(かんな)樋野(びぬ)と書かれた神聖な山でした。出雲にはこの山以外に朝日山(松江市)、大船山(出雲市)、仏教山(斐川町)の四つの神奈備山(かんなびやま)があり、この場所からは見渡せます。
ふもとには山代二子塚や大庭鶏塚などの古墳、「出雲風土記」に載る二つの新造院跡(寺院)、山代郷正倉跡(米倉)、出雲国庁跡、真名井神社などがあり、周辺一帯は古代出雲の政治・文化の中心地でした。
また、都と地方を結ぶ古代山陰道が南の意宇平野の中央を通っていました。さらに、「国引き神話」の舞台となった大山、弓ヶ浜半島、島根半島なども見ることができます。
中世には、見晴らしの良さや、交通の要地からここが山城となりました。頂上は平に加工され、見張り台などがつくられていたと考えられます。一段下がった場所には、攻めてくる敵を防ぐためのおおきな溝(堀切)もあります。
遠くに見える山には、今から450年前、尼子氏と毛利氏が戦った荒隈城や白鹿城が北側に、南東には京羅木山城があります。
平成17年3月 島根県教育委員会”
【写真左】本丸跡
後方は北東部の東出雲町や中海
【写真左】登城途中の道
この山城に向かう前に、カーナビで頂上を設定したところ、北側にある八幡ため池脇を指示し、そのまま進んでいくと、結局東側の真名井の方へ出ていき、また道がどんどん悪くなったため、途中で引き返した。
そして、北西側の県営住宅などがある付近に、小さな字で「茶臼山登山道」という文字が見え、その近くの空き地に止めて登った。この登山道は割と地元の人も登っているらしく、急峻ながら適当に階段が施工されていたため、登りやすかった。
【写真右】登城途中にあった槍形の石を祀ったもの。
傾斜のある登山道の右に設置されていたもので、高さはは約1,5m、下の部分の幅は約60センチぐらいだろうか、人工的に彫刻されたようにも見えるし、自然石にも見える。周囲にこの石について説明文のようなものがないため、いわれは分からないが、昔から祀ってあるものだろう。
【写真左】登城途中にあった規模の大きい堀切り
急勾配の登りがある程度落ち着いたあたりにあり、尾根の途中を切断したような形で、尾根幅が10mぐらいなのでさほど大きいものではないが、深さはかなりあり、当時は5m前後はあったものと思われる。
なお、このあたりから廓壇が少しずつ出始め、本丸まで4,5か所あるように見えた。
【写真左】本丸の西側にある一番大きな郭跡 本丸そのものもかなり大きく、目分量で東西30~40m、幅20m前後と思われたが、その下にあった廓もかなりのもので、奥行も25m前後あると思われた。
ただ、残念なのはこの郭跡もふくめ、本丸以外が雑草が繁茂し、全体の遺構がはっきりと確認できなかったことである。
【写真左】本丸跡から見た和久羅山
和久羅山は、16世紀、原田孫兵衛が築城。標高261 m、郭 帯郭 土塁 虎口などがある(遺跡データーベースより)。
【写真左】本丸跡から北西方向の松江市内を見る
この写真では分かりずらいが、中央右奥の山並みに、真山城や白鹿城がある。“元亀元年(1570)8月下旬、毛利元就の老病は日に日に重たくなってきたので、毛利輝元・小早川隆景・吉川元長は雲州平田の陣を出発して、芸州吉田に帰ることとなった。
途中、出雲大社に参拝して、神馬三頭を寄進したので、諸軍士もこれに見習い、我も我もと太刀・鎧などを奉納する者が多かった。
同年9月上旬、元春は六千騎をもって、出雲国内に残っている尼子勢力を一掃しようと、富田城からうってでたので、古志の城主・古志因幡守は、まず第一番に冑を脱いで毛利に降参してしまった。
和倉(和久羅ともいう、嵩山の東方に連なる山)には、毛利家より長屋小次郎という者を城将として守らせていた。尼子方では横道源介・横道権充の兄弟がしばしばここに押し寄せ、城の麓に放火等をしてこれを悩ませていた。
城内では最初のうちこそ、出でて防ぎもしていたが、尼子の勢力がなかなか強いので、あとはただ城を守るだけで精いっぱいの様子だった。
これを見て、山中鹿之助・横道兄弟は一千騎で一気に乗っ取ろうと攻めかけ、外郭の小屋など一軒も残らず焼き払ったので、城中の苦しみは容易でなかった。…“(尼子物語より)
【写真左】本丸跡から中海の大根島を見る
前稿で取り上げた「全隆寺城(波入城)」がある大根島が、中央奥の横に細長い姿で見える。
◆この山城名は、茶臼山城という名称で、山城名として余りにもポピュラーな名前で、正直言って興が削がれる感もあるが、別名出雲風土記に出てくる「神名樋山」ともいう。
この山から南、東西にかけては、古代出雲文化発祥の地ともいわれ、多くの古墳、古社があり、律令時代には出雲国庁、出雲国分寺などがあった。
県遺跡データベースによると、山城としての主だった遺構は残っているようだが、現地ではっきりと確認できるのは、本丸付近の郭と、かなり大きな堀切程度である。
地元の小学生程度の遠足などにも使われているようで、登城道は整備されているが、周辺の山城関係の遺構部は雑草や雑木で覆われ、踏み込むことは困難だ。
築城主が村井伯耆守とあり、築城期が14世紀という。村井某が14世紀の武将であるということなら、南北朝期ということだろう。当城については、戦国期の陰徳太平記などに出てこないが、位置的に考えれば、当然何らかの役割を果たしたものと思われる。
本丸付近の周辺の雑木を伐採すれば、おそらく東西南北・全方向が見渡せる眺望の良い独立系の山城である。
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