2009年6月8日月曜日

鬼神神社上へ砦跡・(島根県奥出雲町大呂愛宕大仙)

鬼神神社上へ砦跡

●登城日 2009年3月15日
●所在地 仁多郡 奥出雲町 大呂 愛宕大仙
●時代 中世 時代不明  ●遺跡種別 城館跡 
●指定 未指定
●備考 中世後期頃、臨戦時に使用の砦か?支尾根部
●遺構概要 曲輪 五輪塔 宝筐印塔2
(島根県遺跡データベースより)
【写真左】鬼神神社上へ砦の遠望
西側から見たもので、写真の左端から右端まで尾根伝いに遺構が残っている。






◆解説(現地本殿の説明板より)

“鬼神神社
鎮座地 仁多郡横田町大字大呂字小国2058の2番地
御祭神 五十猛(いそたけるの)尊(みこと) 素盞鳴(すさのうの)尊(みこと) 他三桂尊
御陵地 総面積22.4アール、周囲175m、築土高10m、形状長円墳
祭礼日 例大祭10月10日、龍燈祭(御陵墓大蛇の魂 祭)8月7日
【写真左】鬼神神社の石柱











御由緒


 天平5年(733)撰上の出雲風土記の「爾多支枳(にたじき)小国(おくに)」は、この地を指し、大呂は大風呂で大きな森の意で、神亀3年(726)大呂に改名、正倉が置かれてこのあたりの中心を成じ、延喜式(927)所載の官幣小社「伊賀多気神社」は当社である。


 古記録に、40代天武、54代に仁明、55代文徳帝の時、朝廷より幣帛(みさぐう)が奉られ、仁明天皇嘉祥4年(851)神階正六位に叙せられたとある。


 正安4年(1303)三沢氏地頭として雨川へ入部、三沢郷を経て横田郷藤ケ瀬城(本城)を移すも、永正16年(1519)三沢為国のとき、尼子経久に攻略され、大呂城、竹崎城、船通寺、観音寺いずれも兵火に罹(かか)り「上宮伊我多気神社」も消失した。
【写真左】鬼神神社本殿
写真の左斜面が砦跡の一部になる










 御祭神は、霊力絶大で、「威武(いたける)」の神、邪気、怨霊、折伏(せつふく)の神として鬼神伊我武大明神と称えた、とあり、大永年間、三沢為忠、その子為国、永禄年間三沢為清、尼子晴久、寛永年間堀尾忠晴等が建立寄進した。

 慶長九龍集甲辰菊月吉祥日、出雲国造千家元勝撰「出雲国仁多郡小国里鬼神大明神縁起」1巻(1601)に、


 出雲国仁多郡横田荘小国里上宮船燈山鬼神伊我多気大明神者祭祀素盞鳴(すさのうの)尊(みこと)、 五十猛(いそたけるの)神也延喜式云五十猛(いそたけるの)陵地伊我多気社是也千然中世錯乱社号単称鬼神大明神也抑太古素盞鳴(すさのうの)尊(みこと)師其子五十猛(いそたけるの)神降到新羅国の挙白此地吾不欲居遂以埴土作舟乗之東渡到出雲国簸川上所在鳥上峯其舟成岩千今在社前止庶民崇敬岩船大明神也、焉初五十猛(いそたけるの)神天降之時多乃樹種而下然不殖韓地蓋以持帰遂始自築紫凡大八州国之内莫不播殖而青山焉一宮記白大己貴命兄五十猛(いそたけるの)神也 云々


平成10年8月7日


鬼神神社社務所
鬼神神社由緒額一面 願主 畑 茂


平成10年8月7日建立“
【写真左】砦側に上った位置から北側を見る
鬼神神社側の北に尾根伝いに登る道があり、遺構の大半はこの位置から北にある。前方に見えるのは社跡(愛宕社か)。






◆横田の藤ケ瀬城から東へ斐伊川沿いに約4キロほど行くと、大呂という地区がある。このあたりにいくと斐伊川の源流に近いが、昔から良質の砂鉄がとれることから今でも「タタラ」を操業をしていることろがある。

●斐伊川源流は鳥取県との間にある「船通山:1142m」になるが、その北側を走る印賀奥出雲線(108号線)の万丈峠を越えると、伯耆(鳥取県)に出る。この位置から南下すると岡山県新見市へは予想以上の近距離になる。藤ケ瀬城の稿で特記していなかったが、中世横田の中で、具体的な史料は乏しいものの、奥出雲は伯耆、備中とのかかわりが強いようだ。

●さて、この大呂地域は、島根県遺跡データベースによると、「砦」も含めた山城の箇所が5,6か所ある。その中から今回取り上げるものは「山城」としての条件は満たさない「砦」であるが、写真以上に見るべきものがあった。
【写真左】社跡を越えた最初の郭付近忠魂碑のような石碑だが、文字がはっきりしない。








●上段の「由緒」にもあるように、鬼神神社は延喜式所載の官幣小社「伊賀多気神社」であったという。

 藤ケ瀬城主・三沢為国のとき、尼子経久に攻められ、この鬼神神社(上宮伊我多気神社)も焼失した、とある。当時から山麓には社が祀られていたものの、その後山にこうした砦を設け、戦時に備えていたようだ。

●県遺跡データでは、曲輪、五輪塔 、宝筐印塔2 とあるが、五輪塔や宝篋印塔を現地で確認できなかった。
 現地の形状から考えて、山城という形式よりも確かに砦の雰囲気はあるが、尾根部先端部の数段の郭の施工には見るべきものがある。

 この砦から西に正対して、小国城という山城があるが、上記の「由緒」に記されている「大呂城」というのが別名かもしれない。
【写真左】上記の位置からさらに北へ一段下がって延びた郭
 当該砦の中では一番遺構として残っている場所で、幅は5~10m、長さは30m前後か。

 なお、この先端部は切崖状態で、その下の道をはさんで、北に「山根上へ砦」という要害もある。ただ、この砦の確認はしていない。

【写真左】五十猛尊御陵地の石碑
この砦中心部の最南端(尾根を登って行く)の削平地に祀られている。
規模は、総面積2,267㎡、築土高さ10m、御陵型:長円墳。
【写真左】鬼神神社上へ砦から西方に小国城を見る
 前述した由緒に記載されている「大呂城」がこの小国城と思われる。

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