2011年7月20日水曜日

鎮海山城(広島県竹原市竹原町貞光)

鎮海山城(ちんかいさんじょう)

●所在地 広島県竹原市竹原町貞光
●築城期 天正13年(1585)
●築城者 能島村上武吉
●形態 水軍城
●遺構 郭
●高さ 標高・比高93m
●指定 竹原市指定史跡
●登城日 2010年6月20日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 広島県竹原市の山城としては、以前取り上げた「木村城」(2010年5月12日投稿)があるが、鎮海山城は比較的新しく安土桃山時代に築かれた海城(水軍城)である。
【写真左】鎮海山城遠望
 南西麓からみたもの。











 竹原市は南に瀬戸内海を望み、大崎上島を中心に、東には大三島を、西には以前取り上げた丸屋城(広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬)のある芸予諸島とも近い。このため、瀬戸内の各地区を支配してた海賊衆・水軍などとも交流があった。

 竹原市の市街地のうち、南西部は「ひょうたん開」といわれた江戸時代の干拓地(干陸地)であったことから、東方に築城された鎮海山城は当然海城・水軍城であった。
【写真左】登城口付近
 麓の街並み路地はせまいため、近くに「郷賢祠(きょうけんし)」という地元の賢人を祀った広場があり、そこに駐車スペースがある。


  現地の説明板より

“竹原市史跡「能島村上氏の遺跡」 指定 平成4年12月24日
 鎮海山城跡 1カ所 村上元吉宝篋印塔1基 及び戦死者五輪塔9基

市史跡『鎮海山城跡』

 鎮海山城跡=三島村上水軍の総大将・村上武吉・元吉父子が天正13年9月(1585)、豊臣秀吉に能島を追われ、小早川隆景領の竹原へ移り、鎮海山城を築き、拠点とする。

 天正15年(1585)筑前名島へ移動し、その後豊前蓑島へ移る。
 文禄元年(1592)長州大津郡へ移動。慶長2年(1597)竹原鎮海山城に帰る。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いには、水軍を率いて伊予三津ヶ浜に出陣し、元吉は戦死、村上水軍は敗退して竹原へ逃れ帰る。
【写真左】ピークを過ぎた登城路
 登山コースは西側から北の方に向かって登り、一旦鞍部があり、北に向かうと「里山ハイキングコース:バンブー公園」方面に向かう。

 鎮海山城本丸へ向かうには、上記と反対の尾根を南に向かう。
 写真は、その分岐点近くの位置。

 慶長6年(1601)毛利氏の防長への移動に従って竹原を退去し、周防屋代島に移動するまでの約6年間の能島村上氏の拠点であった山城。

 城郭は、市街地に突き出た小丘上にあり、かつては深い湾に突き出た岬にあったと考えられる。郭は標高88.1mの本丸を中心に約10段ほど北西に一列に並び、南西に海に突き出るような形で郭が張り出している。
 郭はいずれも削平した痕跡程度で明確ではない。

 本丸には、石組が約3m×4.5mあり、以前そこに城山神社が祀られていたと伝えられている。墓=城跡の北西に城主村上元吉の宝篋印塔が1基と、その西側に戦死者の墓と伝えられる五輪塔9基が並ぶ。
  竹原市教育委員会”
【写真左】本丸下から見た切崖
 全体に竹林が続くコースで、標高が高くないものの、天険の要害個所が多い。
 竹が繁茂しているため、崩落を防いでいるのかもしれない。


村上武吉

 築城者である村上武吉は、毛利元就から始まって、隆元・小早川隆景・毛利輝元と歴代毛利氏に仕えた能島村上水軍(能島城・その1(愛媛県今治市宮窪町・能島)参照)の領主である。

 元々村上氏の出自は、清和源氏または村上源氏の流れといわれ、平安末期から伊予の河野氏と瀬戸内の制海権を競った。

 南北朝期、南朝方であった北畠顕家の子が村上家に養子として入り、村上師清と名乗ったのが、のちの三島(能島・来島・因島)村上氏の祖といわれているが定かではない。村上武吉の父・村上義忠は、このうち能島村上水軍の当主である。

 以前にも紹介した石山本願寺籠城戦における「第1次木津川河口の戦い」で、村上水軍の活躍を述べたが、まさにこのときの中心人物が、村上武吉である。
【写真左】本丸
 史料によれば、本丸を中心に南北一列に9段の郭があったというが、踏査したときはすでに相当崩壊しているようで、この本丸付近の遺構(石垣の一部)が、かろうじて残っている。


 豊臣秀吉が四国の長宗我部を落とした時、能島村上氏は当地から強制的に離れる(領地替え)ことになった。移住してきた地がこの竹原である。

 結局、村上氏は竹原鎮海山城に天正13年(1585)入城してから、その間一時離れたとはいえ、慶長6年(1601)まで、約16年竹原を本拠とした。その後向かった周防屋代島というのは、現在の周防大島の中央部にある地区である。
【写真左】本丸から西麓に竹原の街並みを見る
【写真左】本丸から竹原港を見る。
 港の向うに見える島は、生野島・大崎上島など。
【写真左】能島村上元吉の墓
 本丸から降りは反対側のコースをとり、北側に向かった。このコースは急傾斜で、文字通り切崖である。
 しばらくすると、村上元吉、すなわち武吉の息子の墓所に出てくる。

 現地の説明板より

“能島村上元吉の墓(市史跡)

 天正13年(1585)秀吉の四国平定後の領地替えで、三島村上氏(能島・来島・因島)の中で最強の能島村上水軍の武吉、元吉父子は、隆景領に移り、鎮海山城を本拠とした。

 慶長5年の関ヶ原の戦に西軍として主家の河野氏の旧領地奪回をめざして、東軍の加藤嘉明の松前城を攻め、伊予三津ヶ浜で戦死した。
 竹原市教育委員会”

2011年7月19日火曜日

備後・茶臼城(広島県世羅郡世羅町大字下津田字中陰地)

備後・茶臼城(びんご・ちゃうすじょう)

●所在地 広島県世羅郡世羅町大字下津田字中陰地
●築城期 鎌倉末期か
●築城者 備後山内氏
●城主 山内通氏・山内首藤三郎通継
●高さ 標高400m/比高60m
●指定 世羅町指定史跡
●遺構 郭・土塁
●登城日 2010年6月16日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 備後・茶臼城は、前稿「黒川明神山城」から約3キロ弱北に向かった茶臼山に築かれた山城(丘城)である。

 付近の山城としては、南の黒川明神山城よりも、北方に聳える「津田明神山城」の方が近い。
【写真左】茶臼城
 現地には「茶臼神社」という社が祀られている。









山内首藤家一族

 築城期・築城者は不明ながら、地比荘(じびのしょう)甲山城の山内首藤家一族である津田地頭山内通氏や、山内首藤三郎通継が城主として伝えられる。

 甲山城はまだ投稿していないが、山内氏が備後の地に入部したのが、正和5年(1316)といわれているので、鎌倉末期である。

 築城期・築城者を不明としているが、おそらくこの備後山内氏一族の地頭山内通氏らがそのころ築城したと思われる。
【写真左】道路脇に立つ石碑
 登城道手前を走る道路は、地元の生活用道路で大変に狭い。

 写真は茶臼城東麓に設置された石碑で、車で走っていると、見過ごすかもしれない。

 「史跡 茶臼城跡
 昭和61年10月20日 町指定史跡
 世羅西町教育委員会」と刻銘されている。

【写真左】登城路
 生活道路と三叉路のような位置になっているが、写真にみえる道路は軽トラックなら可能かもしれないが、乗用車では無理でここに停めて歩いて行く。
【写真左】茶臼神社と本丸
 しばらく道なりに西に向かっていくと、茶臼神社(といっても祠程度だが)と、その後背に本丸が見える。

 手前の平坦地はおそらく郭、もしくは馬場跡だったかもしれない。

 神社となってからは、境内として使われていたような痕跡が残る。
【写真左】本丸・その1
 北側の個所であるが、御覧の通り雑草が繁茂している。

【写真左】本丸・その2
 土塁跡(1)
 本丸の南から西にかけては土塁跡が点在している。
 長さはかなりあるようだが、雑草などではっきりとは確認できない。


【写真左】本丸・その3
 土塁跡(2)
 土塁が西から南にかけて残り、北側が天然の要害となっているので、大手は東側となり、搦手が西側だったのだろう。
【写真左】切崖
 本丸の北側に見えたところで、おそらく竪堀のようなものもあると思われる。

 茶臼城は比高はさほどないものの、この場所からの高低差はかなりある。

【写真左】本丸跡に祀られている祠
 本丸の規模は草丈が伸びているためはっきりしないが、凡そ15m四方と思われる。

 ところで、覚悟はしていたが、茶臼城で相当藪蚊にかまれた。山城探訪は梅雨時には最悪のコンディションとなる。

 しかし、目の前に山城が見えると、本能(いや、病気かもしれない?)がうずき、ついつい足を踏み入れてしまう。
 本格的な登山をしている方からみれば、常軌を逸した行動に見えるかもしれない。

黒川明神山城(広島県世羅郡世羅町大字黒川明神山)

黒川明神山城(くろかわみょうじんやまじょう)

●所在地 広島県世羅郡世羅町大字黒川明神山
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 黒川左衛門
●高さ 標高535m/比高150m
●遺構 土塁・郭
●登城日 2010年6月16日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 広島県の中央部三次市上田町から、南隣の世羅町にかけて、南北に明神山という同名の山が三つ点在している。

 北端の明神山は三次市上田町にあり、通称「上田明神山」(標高548.8m)、世羅町に入って津田にあるのが、通称「津田明神山」(標高593.1m)、そしてそこからさらに南へ3キロ余り下がった黒川にある山が、今稿でとりあげる「黒川明神山」(標高535m)である。
【写真左】黒川明神山城遠望
 南麓からみたもの












 三山とも山城であるが、詳細な記録はあまり残っていない。いずれも独立峰の美しい山容を持ち、「明神」と命名しているところを見ると、地元では昔から神の山として崇められてきたものだろう。

 さて、今稿の黒川明神山城周辺は、現在北麓に「せらにし青少年旅行村」という施設が開設され、周辺の道路も整備されている。

 登城したこの日、当該施設で当城の登城コースを教えていただいたが、「山城」という情報はほとんど知られていないようだ。

 黒川明神山城の築城期・築城者などほとんどなにも記録がないが、唯一城主が「黒川左衛門」という武将であったと伝えられている。
【写真左】登山口
 せらにし青少年旅行村の南、すなわち明神山北麓に最近できたような二車線道路があり、その途中に写真に見える案内板が設置されている。

 車は脇の広い所に停めておく。
【写真左】屋敷跡か
 しばらく登り坂が続くが、途中で写真のような平坦地が現れる。

 長径100m×短径50m程度は優にある。屋敷跡としては十分な広さだろう。
 礎石らしき石が点在している。
【写真左】最初に見えた郭段
 前段の屋敷跡らしきところを過ぎると、しばらくつづら折り状の階段を上る。

 全体に整備されているため歩きやすい。この写真は本丸が近くなった地点のもので、最初にこの郭が出てくる。

【写真左】上掲の郭
 幅10m弱×20m程度のもので、帯郭状の遺構である。

【写真左】下の郭から本丸を望む
 当然ながらこのあたりから傾斜がきつくなる。
この位置から左に回り込みながら向かう。
【写真左】本丸・その1
 北側から本丸にたどり着く。
【写真左】本丸・その2
 「黒川明神山頂 535m」とかかれた標識

 写真奥が西側になるが、高さ50cm~1m程度の土塁が残る。
【写真左】本丸・その3
 土塁
 長さは約15m前後か。ベンチが設置され西方を望むようになっている。
【写真左】切崖
 先ほどの土塁から西の方にかけては険峻な切崖となっている。
【写真左】本丸から北西麓に「せらにし青少年旅行村」の施設を見る

【写真左】本丸から東方を見る
 

【写真左】本丸から南東麓を見る
 眺望としてはこの方向が一番いいようだ。
【写真左】北東麓からみる
 登城口北を走る道路からみたもので、ドライブコースとしても気持ちのいいところである。

2011年7月18日月曜日

丸山城(広島県尾道市御調町丸門田)

丸山城(まるやまじょう)

●所在地 広島県尾道市御調町丸門田
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 上里丹後・上里周防・上里善九郎通職・民部助実・四郎三郎元実
●形態 丘城
●高さ 標高142m/比高40m
●遺構 郭・石垣
●登城日 2010年1月9日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 尾道市の西部を流れる御調川の北岸に築かれた山城(丘城)で、近くには荻(東中倉)八幡神社がある。
【写真左】丸山城遠望
 南西麓からみたもの










 築城期・築城者は不明であるが、代々上里氏が当城の城主となっているようだ。最後の城主・上里四郎三郎元実は、天正18年(1590)に落城したとある(『御調郡誌』)。

 ただ、この記録である天正18年は、ほぼ秀吉が天下を手中に治めている時期で、同年7月に小田原北条氏が滅び、中国地方でこうした戦が行われていたとは考えにくい。

【写真左】案内図
 この案内図は「萩八幡神社」をメインにしたものだが、当社の下に丸山城の位置が図示されている。


 下を流れるのは御調川。
【写真左】登城道
 夕方の登城のため、少し薄暗く写真もピンボケ気味。
 北側から東にかけて登る道が整備されている。
【写真左】腰郭
 急坂な登城路を登っていくと、南端部あたりに写真にみえる腰郭らしき平坦地が現れる。

 近世に造られたとおもわれる登城路が遺構をどの程度改変したのか不明だが、戦略的にはこの南端に突き出した位置にあるのは当然だろう。
【写真左】本丸下の郭
 丸山城の本丸付近には、3段の郭が構築され、そのほか先ほどみた小規模な郭が配置されている。

【写真左】本丸下の郭から本丸を見る
 全体に南北に長く郭群が構築され、幅は10m前後、全長は100m程度と思われる。

 この写真の本丸との高低差は2,3m程度と高くはない。
【写真左】本丸に立つ祠
 はっきりとは分からないが、地蔵菩薩のようなものが二体祀られている。

 また付近には石碑が建立され、「金波羅華 釈迦の説法 霊鷲山 宇宙の真理 今此処に有り」と刻銘されたものがある。
【写真左】本丸から北方を見る
 眺望はあまりよくないが、北麓には萩八幡神社がある。
【写真左】本丸から南の郭群を見る











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牛の皮城(広島県尾道市御調町大町)

2011年7月17日日曜日

余崎城(広島県尾道市向島町立花)

余崎城(よざきじょう)

●所在地 広島県尾道市向島町立花(城山)●築城期 弘治2年(1556)ごろ
●築城者 村上吉充
●城主 村上氏・鳥居次郎資長
●形態 水軍城
●高さ 56m
●遺構 石垣・郭・水路
●登城日 2011年2月16日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」)
 余崎城は、旧御調郡(現尾道市)因島の南端部に突き出た観音崎の半島に築かれた海賊城で、村上吉充が居城したといわれている。
【写真左】余崎城遠望
 北西側から見たもので、元々は島であった可能性が高い。
 写真左側の高い方が本丸で、右側が二の丸といわれている。




村上吉充

 『芸藩通志』によれば、弘治元年(1555)の厳島合戦の論功行賞で向島を得た村上吉充が、この余崎城を本城とし、向島を活動拠点として、瀬戸内海・燧灘(ひうちなだ)一帯を制圧するために築いたものとされている。

 なお、吉充はこの外にも三原城(広島県三原市館町・城町・本町)でも紹介した「石山本願寺籠城戦」における「第1次木津川河口の戦い」で、救援に駆け付けた毛利水軍(村上水軍)でも活躍し、兵糧米を石山本願寺に運び込んだ。

 余崎城に拠った村上氏であったが、当城に在城した期間は短く、永禄10年(1567)には後の本貫地となった因島の青木に城を築き移った。余崎城には、村上氏の部将宮地大炊助明光の次男鳥居次郎資長が在城したといわれる。
【写真左】北麓部に見えた石垣
 当時のものかどうか不明だが、大分崩れている。
【写真左】東麓部の道
 南側の二の丸から更に先端部にかけては、以前レジャー施設のようなものがあったらしく、この道はそのために造られた道と思われる。

 なお、北麓部には駐車場がないため、一軒の民家の方が経営している駐車場があり、そこにとめて歩いて行く。

 この写真では右側はすでに本丸の東斜面に当たるが、登坂できる道はない。このため、更に先を歩いていく。
【写真左】二の丸の南麓部
 途中で本丸に行けそうな別荘跡があったが、傾斜もきつく、踏み跡もないため、断念し、南端部近くまで足をのばした。

 この辺りに朽ち果てたレジャー施設があったが、それを横に見ながら、ここで西麓に向かう道へと進んだ。

 写真はその個所で、この右側をよじ登れば二の丸にたどり着くが、全く道がない。
【写真左】二の丸と本丸中間点の西麓
 西麓部の道は山道程度の狭いもので、歩きながら常に右に登り道があるか、探していたが見つからなかった。
 
 余崎城の標高は50m余のものだが、こうした天険の要害が随所に見られる。

【写真左】竪堀か
 西麓部は特に険しい面が多いため、あえて竪堀のようなものは必要なかったと思われるが、途中でこのような竪堀状の個所が見える。
【写真左】二の丸西端部にある寺院
 結局余崎城周りを一周しただけで、本丸にたどり着けなかった。

 写真は西側の海岸部に見えた小さい寺院で、第38番蹉跎山金剛福寺。
【写真左】高見山
 余崎城西麓から北に見える山で、標高283m。当時見張り台があったところといわれている。
【写真左】前掲の寺院から二の丸を遠望する。











◎関連投稿
因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)

2011年7月16日土曜日

三原城(広島県三原市館町・城町・本町)

三原城(みはらじょう)

●所在地 広島県三原市館町・城町・本町
●築城期 天文~永禄年間(1532~70)
●築城者 小早川隆景
●形態 平城(海城・浮城)
●遺構 天守台・濠・本丸・中門跡・船入り櫓跡・船入り跡等
●規模 1,000m×400m
●指定 国指定史跡(昭和32年12月11日)
●登城日 2011年2月16日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 三原城は現在のJR三原駅を中心とした位置に築城されている。このため、明治に入ってからは、山陽本線や新幹線が城域を南北に分断し、さらに駅前の商店街などができたため、本丸・二の丸・三の丸の大部分が消滅している。
【写真左】三原城
 北東からみたもので、写真にみえる石垣は本丸側のもの。









 JR三原駅ができたのは、明治25年(1892)の尾道―三原駅間の延伸開業のときである。明治6年(1873)、廃城令が発布されているので、三原城も当然その対象となっている。

 西洋文明の開花は、戦国・江戸期の構造物の価値を片隅に追いやり、殖産産業の基幹インフラを優先させた。三原城の存在は無用のものとして、むしろ駅舎を建てる際の基礎としての役割を担うことになったわけである。
【写真左】鍛冶曲輪跡
 駅の北側の東部分にあったもので、現在は写真にあるように駐車場や建物が建っている。

 写真の説明板より

“鍛冶曲輪跡(館町)
 三原刀を鍛えていたとされる曲輪。中に井戸二つ、鍛冶屋敷、武具役所のあった場所。
 三原刀は、鎌倉時代より有名で、古三原といわれ、大振り豪壮にして、切れ味抜群。正家正広(共に一代限りでない)正信と重美級の物多く、刀剣市場高い評価を得ている。
 作風は鎬高く反あり、地は柾目多く白くる風あり。刀文は直刀もフグの目に逆足の交わりたるものあり。忠は棟角に横鑢ある。

 室町中期より末期の間に三原刀工は、左記のように備後一円に分布し、三原鍛冶と呼ばれ刀工数は備前長船に匹敵すると推定される。
 最末期には対明貿易用の数打ち物も造る。

 尾道 … 其阿弥派。  木梨三原。
 福山 … 鞆三原。 草戸法華一乗。
 備後 … 貝三原。 安芸国へも分布。

 今に残る名作は
 二字銘 初代正家 … 宮内庁 蔵(御物)
 名物大三原 … 正弘 … 秀吉遺品、天下五剣の一。
                  浅野幸長拝領(重文)
 大太刀 … 行吉 … 厳島神社 蔵(重文)
 毛抜型 … 五阿弥 … 新市 吉備津神社蔵(重文)
 太刀 … 長行 … 吉備津神社蔵(重文)”
【写真左】駅構内に残る石垣
 この写真の上を新幹線や山陽本線が走っている。
 この辺りはおそらく三の丸付近だったのだろう。写真に見える石垣は、冷房用のクーリングタワーの架台として再利用?されている。


 城跡の中心部をこれだけ改変したあと、昭和32年、国の指定史跡としているが、城郭史跡としての価値を認定するには、あまりにも時宜を逸してしまったといわざるを得ない。

現地の説明板より

“国史跡
 小早川氏城跡三原城跡
   昭和32年12月11日指定
   所在 三原市 館町・本町・城町

 三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1567)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正10年(1582)前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。
 城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城(うきじろ)とも呼ばれた。

 小早川氏のあと、福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に付された。
 その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)6月には、三原駅が開業した。

 今では、市街化がすすみ、天守台とそれをめぐる濠、船入り跡・船入り櫓及び本丸・中門跡を残すのみである。
  三原市教育委員会”

【写真左】駅構内にある天守台案内
 三原城の天守台に向かうには、一旦駅構内南側から入り、北に向かって進むと、御覧の案内板が見える。ここから階段を上ると天守台に向かう。
 当然ながら乗車券は不要で、入場券も要らないが、こうした場所から城郭に向かうのは初めてで、なんとも奇妙な違和感を覚える。

小早川隆景

 築城者である小早川隆景については、これまでも度々取り上げてきている(米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)参照)。

 三原城はおそらく、隆景が三原本郷に新高山城を築城した天文21年(1552)ごろとほぼ同時期に、三原浦の砦として整備し始めたようだ。記録によれば、翌22年3月、八幡六郎右衛門尉が「三原要害」の在番を申付けられている(『萩藩閥閲録』)。

 永禄11年(1568)9月、織田信長が京都へ上り、天下統一を図ろうとしたころ、すでに西国に対する準備が進められていた。これを察知した毛利方として、特に瀬戸内を担当する小早川隆景は、居城であった本郷の新高山城よりも、すぐに動きのとれる三原浦の三原要害を重視し、整備を急いだ。
【写真左】船入櫓跡
 天守台側に出るとすぐ右にみえる三角の平坦地がある。
 この場所には「船入櫓」があったといわれ、おそらく山陽新幹線や山陽本線の軌道部は、多くの軍船などが停泊していたのだろう。


石山本願寺籠城戦

 ところで、戦国期の浄土真宗本願寺派の総本山は、大阪の石山本願寺であったが、元亀元年(1570)ごろから天正8年(1580)ごろまでの約11年間、織田信長との長い抗争が繰り広げられた。

 特に「第1次木津川口の戦い」(1576)では、傭兵集団雑賀衆と、救援に駆け付た毛利水軍の活躍で、大阪湾を包囲した織田軍を壊滅させた。

 このときの毛利水軍とは、村上水軍など舟戦にたけた軍団をまとめた小早川隆景が中心となっている。特に三原湾で多くの船団を集結させ、淡路島の岩屋に前線基地を設け、統率のとれた体勢をとりながら、準備していったという。

 このとき、毛利輝元が本陣として三原城に拠り、隆景は笠岡に配して指揮を執ったとされる。笠岡とは、おそらく笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)のことだろう。
【写真左】本丸・天守台
 本丸は北に向かって少し幅が狭くなっていく。

 慶長年間の記録では、本丸は15.8m×168.3mとあり、二の丸は153.8m×162.9m、三の丸は本丸の東北に位置するものの、門尺(大きさ)は測りがたし、とある。



三原城の修築

 その後、説明板にもあるように、天正10年になると、隆景は三原城の本格的築城に着手した。天正10年とは、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)攻めのあった年で、同年6月4日、秀吉との講和後すぐに三原に戻り、当城の周辺を大々的に修築していく。

 もともと海に浮かぶ二つの島であったため、濠普請については施工が容易で、しかも「海城」を意識した設計を基本に、「城郭」と「軍港」を併せ持った城砦として進めて行った。

 隆景晩年の文禄4年(1596)11月、領地となった筑前を養子秀秋に譲って、三原に戻った。そして、さらに三原城の修築を再開し、同氏の氏寺であった仏通寺(下段の写真参照)再建にも力を注いだ。

 しかし、三原に戻って隠居して間もない慶長2(1597)年6月12日、急逝した。享年65歳。
 墓地は、米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所) にある。
【写真左】本丸から西を見る
 上に見えるのが新幹線側だが、二の丸はこの新幹線が走っている位置、もしくは小さく見えるバスの停まっている地点にあったようだ。
【写真左】本丸から北東を見る 
 先述したように、三の丸がこの辺りにあったものと思われる。
【写真左】再び本丸
 御覧の通り庭園風の仕上げとなっており、当時の遺構はほとんど残っていないが、若干北側が高くなっているので、その位置に天守台があったものと思われる。
【写真左】仏通寺
 三原市高坂町許山にある。創建は応永4年(1397)小早川春平によって開基された。中国三十三観音霊場第十二番札所。
 秋になると紅葉が見事で、多くの参拝者でにぎわう古刹である。